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僕が感じている、このモヤモヤの正体は何だ?

帰省の折りに原爆資料館を訪ねた。
最後に行ったのは小学生の頃の遠足じゃなかったかと思う。

記憶を掘り起こしてみると、小・中学校は毎年夏休みに近所の公民館に行き映画を見たりした(沖縄戦の映像なんかが一番思い出される)。小学校3か4年生の頃の遠足で原爆ドームと資料館を訪ねたことも、なんとなく覚えている。小学校6年生の時には、被爆者の心をいやした柳の老木をテーマにした音楽劇「あかいトマ ト」を学習発表会で上演した。これはよく覚えている。

小学校から高校まで広島で過ごした自分にとって、平和教育は身近だった。そう言って良いはずだ。しかし、大学生になって広島を離れてからというもの、どうしてこうも心も身体も、平和教育から離れてしまったのだろうか。

色々な理由が考えられるのだけれど、一番大きなものとしては、「当事者性」を背負わされていた感、流行り言葉で言えば、「学びの自分ごと」に「させら」れてきたこと。まさにこれだと思う。

これって昨今の教育の中にも見え隠れする。皆まで言う必要ないのだろうけど、探究学習とか、PBLとか、キャリア教育とか、思い当たることが色々ありすぎる(…教員になってから見聞きした、何かと平和に結ぼうと「こじつけ」のような実践や考え方そのものにも辟易している)。



 「当事者が決めればいい」という正論が社会課題を「他人事化」させる。

 「漁業者が納得するように賠償なり何なり決めればいいじゃん」というような思考は、正論のように見えてそうすればするほど漁業者にある種の責任を押し付けていくみたいな話になっていってしまうんです。大事な問題を国民全体が考えることには絶対つながらない。

 廃炉の問題も核の廃棄物の問題もそうだと思いますけど、当事者に気を遣えば遣うほど当事者自身に非常に厳しい決断を迫るということを何度も何度も見てきて、ずっとモヤモヤしてきたんです。『新復興論』を出版してからも続けているゲンロンでの連載タイトルは「当事者から共事者へ」としているんですが、この「共事者」という造語もそうしたモヤモヤから生まれました。

 例えば取材対象から「あなたが福島にいなかったなら、僕の気持ちなんて分からないと思いますけどね」と言われたら「そしたらもう何も言えないよ」と思うじゃないですか。

 そういうスタンスが僕はあまり気持ちのいいものではないなと思っていて。震災・原発事故というとあたかも被災3県(岩手・宮城・福島)の話のように思えますけど、例えば東京とか九州とかの人も、あの時に絶対に何かは体験しているはずなんですよね。電車に乗れなかったとか、めっちゃ家まで歩いたとか、コンビニの品物がなくなったとか。

 そういう自分の被災体験みたいなものを、より当事者性の強い被害を受けた人に忖度して語ってこなかったから、震災が他人事になったんじゃないかと僕は考えていて。

 つまり「自分の被災体験」「自分の復興」みたいなものとリンクしていかなきゃいけないというか、「福島に来て美味しいものを食べ、いろんなことを学んだ結果、自分の人生がより良くなった」というような、もう少しふわっとした関わりみたいなものを許容していかないと意味がないというか。

 僕は食とかそういう観光みたいな小さな場を作っているのも、不真面目にすごく楽しそうだなみたいな人を巻き込んでいって、参加した人たちが最後に「自分も震災のことを語ってよかったんだな」とか「福島でこういう面白いことがあって、これって下手すると俺の人生とか自分の考えもすごく変わったかもしれない」みたいな体験をしてもらうことで、復興の当事者性を持ち帰ってもらえればいいかなと思ってずっと活動しているので。

「10年間復興から目を背けてしまった人」であっても「ゆるい関わり」を許容する。いわきで活動するローカル・アクティビスト 小松理虔インタビュー【特集】3.11 あれから10年 より


数年前、小松理虔さんの考えに触れた。ここでの語りの文脈は、東日本大震災の風評被害や復興なのだけど、どこか共鳴するところがあって、自分自身の受けた平和教育やその知識・価値観をアンラーンしようと決めた(アンラーンの使い方が合っているかは不明…笑)。

夏の終わりに、自戒も込めて。

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