![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/133597736/rectangle_large_type_2_01e59231b22c21b4ef18dfcfd1e10864.jpeg?width=1200)
秩序について、どんな考えを持っていますか?
神山まるごと高専を訪問した際に、一番最初に案内してもらったのが「ハウス」と呼ばれる寮でした。
公開されたばかりのこの動画の中で、ある学生さんがこんなことを言っています。
寮がなかったら絶対こんなことはできてないです。
色んなプロジェクトが動いて、皆チャレンジして、料理作ったり、一緒に踊ったりとか、歌ったりして…。
閉寮期間で学生さんは不在でしたが、学びの痕跡を確認しながら、その熱を十分に感じることができました。
案内してくれたスタッフが、各所で「秩序」という言葉を使っていました(実は、寮のある学校で勤務をして10年になる中で、考えてみると、ルールとか規則という言葉はよく耳にしてきたものの、秩序と聞いたのは初めて)。
この秩序という言葉がちょっと引っ掛かり、少しだけ調べてみることにしました。
「秩序と教育」と検索すると、モンテッソーリ教育の「敏感期」が最初にヒットします。「へー、モンテッソーリか」と思いながら、見ていくと、彼女の定義する「敏感期」のフェーズに、「秩序の敏感期」というのがあると知りました。
生活の中の秩序、繰り返しながら世界を理解しようとする。習慣をとても愛する時期。秩序が壊れると機嫌が悪くなることも。順番、場所、所有物、習慣などにとてもこだわりの強い時期
確かに、こういうことなのかも?と一見すると思うところがありつつも、この敏感期って、生後半年から4歳児までのことを指しているし…(不勉強で、この捉え方はズレてるかもしれません)。
もう少し調べてゆくと、「自生的秩序」という考え方に出会いました。
かつて、フリードリッヒ・A・ハイエクは、誰か一部の主体によって外生的に「つくられた」秩序と、内生的に「成長した」秩序を区別し、後者を「自生的秩序」(spontaneous order)と呼んだ。
(略)
自生的秩序の形成というのは、誰かがすでに敷いたレールの上を、それに気づかずに進んでいく、ということではけっしてない。逆に、なんでもありという単なる放任状態でもない。それは、「必然」ではないが、まったくの「でたらめ」でもなく、「別様でもありえる」偶有的なプロセスである。
教育において、秩序というとどうしても前者の考え方が先行している(してきた)ように思うのは、私だけでないはずです。
対する、後者の考え方であれば、高専のハウスの日常で、つくられるモノや起きているコトは、リンクするのなのかもなあ、と気づかされました。
「実際を見ていないのに何言ってんの?」というツッコミを覚悟していますし、ズレた見解だとすれば、ご指摘ください。
いつかまた、学生さんたちのいるハウスを訪れて、「秩序」について、どう考えているか?直接聞いてみたいなと思っています。
続く