前へ進めど道は違えて。劇場版『BanG Dream! It's MyGO!!!!! 前編/後編』
東京に住んでいた頃、業務上で外出する際、僕は待ち合わせ時間の1時間前に目的地に着くようにスケジュールを建てていた。もし道に迷ったら?もし電車が遅れたら??臆病者の僕は見知らぬ土地で生きることに怯え、失敗に繋がる可能性を予め潰してからでないと、安心して商談にも行けやしなかった。
劇場版『BanG Dream! It's MyGO!!!!! 前編 春の陽だまり、迷い猫』『後編 うたう、僕らになれるうた&FILM LIVE』を観た。前回の記事を振り返ると、あの熾烈なTVシリーズに身を焦がす想いをしたのが、ちょうど一年前くらい。繁忙期真っ只中の、一年で最も心の余裕がない時期にこのアニメを観ていたのは、自分でもどうかしていたとしか言いようがない。
迷ってもいい、らしい。
『前編 春の陽だまり、迷い猫』の何に驚かされたかと言えば、映画が始まってから体感でTVアニメ1話分くらいの尺がまるごと、この劇場版にて追加された新作パートだったことだ。その内容とは、要楽奈のこれまでの生い立ち、TVシリーズでは描かれなかった「余白」が、ついに映像化される。
作中の台詞で暗示されていた通り、楽奈は自らの「居場所」を1度無くしている少女である。祖母が取り仕切るライブハウスは数多のガールズバンドが集う場所であり、楽奈は祖母とギターへの憧れを真っ直ぐに育ててきた。その一方で、彼女は周囲のクラスメイトと歩幅を合わせて生きることができない。燈の言葉を借りるのなら、彼女もまた“人間じゃない”という。
ギターは中学生になってから、と日頃から言われていた楽奈は、入学式を飛び出して家に戻り、祖母のギターをかき鳴らす。年齢にそぐわない卓越した演奏技術を持つ孫娘の姿を見て、祖母・詩船は喜びを見せる。と同時に、自身がギターを弾く姿が、愛する孫娘から数多の可能性を奪い、「音楽家」としての道以外を閉ざしてしまったことも悟ったのだろう。
詩船は、楽奈に迷ってほしかったのだ。人生という先行きの見えない航海の中で、様々な経験や失敗、あるいは人との出会いや別れを繰り返して、迷って迷って迷いまくって、自分の生きる道を決めてほしかった。それなのに、自分がその機会すら奪ってしまった。そのことに気づいた詩船は、ライブハウスを閉じてしまう。そのことが、楽奈には深いショックだった。居心地のいい居場所は「永遠」にそこにあるわけじゃなくて、自分で求めたり、探したりしなければならない。けれども、すでに楽奈は音楽でしか、ギターを弾くことでしか、他者と繋がれない。それ以外の方法を知らないまま、歳を重ねてしまっていた。
その後の楽奈と言えば、野良猫のようにさ迷い歩き、別の迷子たちと出会った。音楽でしか人と繋がれない楽奈は、バンドを求めていた。そこにたまたま居合わせたのが、燈たちだったのだ。
楽奈は自由気ままにテクニックを披露し、自分が満足すれば練習を終え去っていく。動きの読めない野良猫のような彼女だが、名台詞「おもしれー女」の意味が、この劇場版を経てようやく掴めるようになってきた。TVシリーズでも描かれた通り、高松燈という女はメンバーに「一生」を誓わせようとする、実は一番頑固で強力なエゴイスト。楽奈は、燈のその素質に共感し、自らの居場所としてMyGO!!!!!に骨を埋めるつもりだったのかもしれない。一度「居場所」を無くした少女が、一生を確約させようとする少女に共鳴する。
後編では楽奈が祖母をMyGO!!!!!のライブに招待するシーンが挟まれている。楽奈は自分で居場所を見つけられるようになったことを祖母に誇り、彼女の危惧を乗り越えてギター一本で生きていくことを証明する、そんな決意を見せつけるのがあのライブシーンだったのだ。だからこそ、詩船さんの一瞬の笑みに心を鷲掴みにされてしまう。迷った末に、孫娘は立派にステージを「居場所」に変えられたのだから。
過去に囚われて進まぬ足先
後編『後編 うたう、僕らになれるうた&FILM LIVE』では、前編ほどの大幅な追加シーンは無かったように思える。その代わり構成に工夫があって、冒頭では燈の詩の朗読、ポエトリーリーディングから始まることで、本作は徹頭徹尾「MyGO!!!!!」の5人の視点に重きを置くことを宣言している。
名前さえ定まらない燈たちのバンドは、ファーストライブで大成功を収める。しかし、「CRYCHIC」の楽曲「春日影」を演奏したことは、会場に居合わせた元メンバーの豊川祥子に深い傷を負わせてしまった。元よりかつてのバンドの再結成を目的としていた長崎そよはバンドを離れ弁明を重ね、利用されていたと知った愛音も練習に身が入らず、バンドは分解寸前にまで陥ってしまう。
CRYCHICという輝かしい過去に囚われている長崎そよは、そこから一歩も踏み出せないまま、周囲をその地場に引き寄せようと必死になっている。他人を気遣うようでいて、彼女の行動と言動は常に自分の思い通りになるように仕向けられたもので、祥子はきっぱりとそのことを突きつける。しかし、強弱こそあれ、過去に囚われているのは燈も立希も同様であり、三人はそれぞれに葛藤と悩みを抱えながら今のバンドを維持しているに過ぎない。
誰もが迷子で、終着駅がわからない。でも、わからないなりに詩で気持ちを伝える勇気を最初に振り絞った燈の行動が、少しずつ迷子たちをまとめていく。この総集編では、なぜ燈が中心であるかを、TVシリーズよりもシームレスに、そしてストレートに実感させてくれる。10話に該当するライブシーンも、(劇場という環境の補正もあるだろうが)この劇場版の方が涙を誘い、圧倒されてしまった。
かくして、元CRYCHICの三人、とくにそよは過去を忘れられないと明言しつつも、それでも前に進むことを決められた。迷子でもいい、迷子でも前に進む。戻らない過去、修復しない人間関係に引きずられて、泣いてばかりいる日々を抜け出して、一歩でもいいから今を生きていく。彼女たちが燈の言う「一生」を自分たちなりの言葉や尺度で受け止めて、少しずつ具体的なものにしていく、その結末が鮮やかだ。
その一方で、本作は「MyGO!!!!!」の視点で描かれているからこそ、取りこぼしてしまったものがある。後に「Ave Mujica」へと至る萌芽は、燈たちの目には映らない。祥子たちの人生は、神の視点である視聴者にしか明示されていない。だからこそ、燈やそよが過去に囚われていた自分を振り切ったのに、祥子はまだその場で立ち止まっている印象すら抱いてしまう。
わざわざ劇場まで駆けつけるようなファンは、この物語が新たなTVシリーズ『Ave Mujica』に続くことなんて、承知の上で観ているはず。だがしかし、もし仮にこの総集編だけを観た人がいたとしたら、初華もにゃむもいきなり出てきたように感じるだろうし、睦と祥子は救われなかった、バッドエンドのまま幕を下ろす物語のように感じられるかもしれない。『FILM LIVE』では立希もそよも笑顔を見せるほどにはMyGO!!!!!に居心地を感じている一方で、何も変われなかった女の子たちが、まだ取り残されている。
総集編としてのわかりやすさ、一本の軸をより強く太くした結果、取りこぼされてしまった仮面の少女たちのマスカレード。その行く末がどうなるかは、来年1月の本放送次第。その告知を一切入れなかった後編の実直さは好感が持てるが、その分余計に不安と恐怖が募る作りになっているとも思うのだ。異なる結末にたどり着いた迷子たちの物語は、つづく―。