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愛は地球を救うのか?『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち(TV版)』

 『宇宙戦艦ヤマト2199』から続くリメイクシリーズは、総集編、旧作を原案としない完全新作の劇場版『星巡る方舟』を経て、『2022』へと到達した。名作と名高い『さらば宇宙戦艦 ヤマト愛の戦士たち』と『宇宙戦艦ヤマト2』のリメイクとなれば、公開(放送)当時のヤマトクルーの熱量も高いものだったのではないだろうか。

 『さらば』『2』をリメイクするとなれば、注目が集まるのが結末だろう。つまりは、特攻するのか?しないのか?というところ。その点は後述するとして、ヤマト歴一ヶ月半ほどの新参が『2202』をどう観たのか。今の素直な感想を書き残しておきたい。

“愛の戦士たち”篇

 『さらば』『2』は共に「愛」を巡る物語であって、『2202』も当然それを踏襲している。ところが、このリメイクは思いもよらなかった方向に舵を切ることにしたらしい。なんと、あのズォーダーが1話にして「愛が必要なのだ」と仰られるではないか!

 これにはかなり衝撃を受けた。1974年の最初のTVシリーズではガミラスとの激しい闘いの果て、敵国の文明を滅ぼすまでの大惨事になってしまったことを踏まえ、作り手は古代の口を借りて「我々はしなければならなかったのは、戦うことじゃない、愛し合うことだった」と慟哭した。しかし、その先に相対する「ガトランチス」は、愛も交渉も通用しない、ただ純粋に破壊と支配を目的とする者たちの集合体であった。そんな敵に対し、「愛」をもって闘ったのが『さらば』『2』の物語であったわけだが、リメイクではその環の中にズォーダー自らエントリーするのである。

 愛を巡る物語に組み込まれるにあたり、ズォーダーやガトランティス人の設定は、旧作より大きな変更を受けている。ガトランティス人とは、「ゼムリア」なる星に生きる種族によって造られた、人造人間である。彼らは交配ではなく、自身のクローンを育成することで名前を襲名させ、跡継ぎを残すという文化を有しており、その目的は種の存続ではなく戦闘。

 その中でも、人間と変わらぬ思考力を持つタイプ・ズォーダーとされる個体は、ある時ガトランティスを家畜のごとく扱うゼムリアに反旗を翻すが、ゼムリアはズォーダーが愛した女性サーベラーを人質に取り、反乱軍の集結場所を吐かせた。その後、ゼムリアは約束を破りサーベラーとズォーダーのクローンとなる赤子を殺害し、ズォーダーにも刃を向ける。ズォーダーは生き残ったガトランティス人とともにゼムリアを離脱するのだが、彼はそこで悟ったのだろう。「愛」とは苦しみである、と。

 ズォーダーは、古代アケーリアス文明が遺した「滅びの方舟」、すなわちあの巨大都市帝国を復活させ、「愛」という人間の普遍的な感情を持つ生命体の抹殺のため動き出す。ゼムリアも、その他様々な惑星や文明をも滅ぼし、やがては高次元存在であるテレサをこの現世に干渉させ、現宇宙の消滅という途方もない目的のため、行動する。愛を持つがゆえに人間は誤り、愛を持つがゆえに人間は弱い。そこからの真の救済とは「死」であると、ズォーダーはその魔の手を宇宙全土に広げているのである。

 人間愛の通用しない、武力の強さだけをもって攻めてきた旧作に対し、『2202』のズォーダーは愛を知り、それゆえに深く絶望したからこそ、愛を拒絶する存在として凶行に走る。それはかなり独善的な押し付けであり、その拗れた感情一つで起動する滅びの方舟についてはアケーリアス人の監督責任を問いたいわけだが、それに対するのもまた「愛」である、というのは『2202』のテーマに数えられる。

 加藤三郎が一度はヤマトを裏切ったのも、全ては愛する息子を想ってのことであり、その行いはズォーダーの思想を証明するものとなってしまった。一方で、ズォーダーの予想外であり続けたのは、古代進と森雪の関係性にあるだろう。愛ゆえに誤った決断を下すことを余儀なくさせる状況にヤマトを追い込むズォーダーだが、第九話『ズォーダー、悪魔の選択』では、森雪が自らの命を投げ出すことで古代から“選ばない”という選択を引き出し、誰一人命を落とすこと無く窮地を脱した。愛が人を救うなど、あってはならないはずだった。側近であるガイレーンは、ズォーダーの中にある「恐れ」を見出す。

 愛を否定し、不合理だと嫌悪するガトランティス人。しかし、当の彼らは自らのクローンに対して父性を抱いたり、赤子を見て笑みを浮かべたりしているのだ。人間を感情に囚われた生命体であると見下す一方で、実は自らもその要素を有している。というより、最終決戦において方舟がズォーダーに共鳴する、この現象が何よりの証左なのだ。ズォーダーもガトランティス人も、等しく人間である。自らも「愛」で世代を紡ぎ、満たされる生命体であることを認めて、ガトランティスは滅ぶ。彼らもまた、“愛の戦士たち”だった、ということなのだろう。

選択篇

 さて、いよいよ『2202』の結末に触れるとして、意外なことに本作は「特攻はするがヤマトと主要人物は生き残る」という着地を発明した。

 最終決戦にて、ヤマトに残った古代は森雪と共に、エネルギーを吸収し続ける方舟の内部に入り込み、内側から破壊することを選ぶ。テレサに導かれ、死の道を進む“愛の戦士たち”。それから半年後、時間断層からヤマトが浮上し、生還した山本玲の証言によって、二人の救助の可能性が浮かび上がる。しかしそれは、時間断層の破棄を意味する、釣り合わない選択であった。繁栄か、英雄たちの帰還か。全ては、国民投票によって預けられた。

 「時間断層」とは、前作で地球に手渡された「コスモリバースシステム」の副作用として現れた空間で、外界とは10倍もの時間の差が生じるものである。現実では10日かかる工程を空間内であれば1日換算で終えられることになるこの設定は、時系列的にも地球の復興があまりに早すぎることのエクスキューズとして設けられたものかと当初考えていたが、対ガトランティスにおいても絶えず艦隊群を供給していたこともあり、地球再建と軍事力の両面で必要不可欠なものであることが描写されていた。そのクライマックスで、古代と森雪の命と天秤にかけられることで、生き残った全人類も「選択」を迫られる、というシナリオである。

 ズォーダーがヤマトの面々に課したような命を伴う選択が、戦士でない者にも降ってくる。リメイクにしかない新たな葛藤として、実に興味深い。だが、どうにも奇妙だな、という印象も拭えなかった。この問答は、果たして成立しているのだろうか。

 というのも、「時間断層」の存在は作中世界では一般人には伏せられており、物語開始当初は真田さん以外のヤマトクルーにも知らされていなかった、軍の中でもトップシークレットの扱いを受けていたのだ。つまり、あの世界に生きる普通の人々は、その恩恵を知らずの内に受けていたとはいえ、その実態を秘匿され生活していたのである。嫌われ役の多い芹沢虎徹副司令官は時間断層の破棄などもってのほかと喧伝したであろうが、その演説は描写としてはかなり省略されている。

 市井の人々にとって、自分たちの今の豊かさや、仕事などが奪われるとなれば、猛反発するだろう。その段階において初めて、時間断層か、ヤマトの乗組員の命か、の判断が重みを帯びてくるはずだった。にもかかわらず、尺が足りなかったのか、少なくとも本編の描写だけを切り取れば、二人の命に対して投票を促す真田さんの演説の方が善で、人道的であると映ってしまう。とはいえ過去を振り返れば、戦場ジャーナリストが国外で拘束された際、それを「自己責任」だと糾弾する人が大勢いるのが、現実なのだ。

 肌感覚になるが、この国民投票を巡る展開は、視聴者に対して「自分ならどちらを選ぶか」と迫る内容には、到達していないように思える。ここに重きを置くのであれば、芹沢と真田の主張が、どちらを取るか悩ましいと思わせるほどに対等に尺を割く必要があった。真田さんが言う通り、この二択はそもそも“釣り合っていない”のだから、それでも二人の命を国民が選ぶに至る説得力と、それを受けての葛藤を描いてほしかった。だというのに、この作品には市井の人々の描写が、あまりに不足している。(旧姓)原田ちゃんは事情を知る元乗組員なのだから、彼女がヤマトを見つめるカットは一般人のそれと同等とは言えないだろう。

 とは言うものの、離反行為を働いた加藤に「闘って死ね」と吐き捨てるような芹沢が、妥当性を帯びた物言いが出来るだろうかと、思ってもしまうのだ。彼が作中世界でどう受け止められているかは定かではないが、このまま軍拡に進んでいく不安を序盤で描写したことも併せて、最初から過ぎた力時間断層への不利が誘導されていたような気がする。

戸惑い篇

 『2202』を観ていて、どうも居心地の悪さを感じる瞬間があった。それは、デスラーの辿る境遇と扱いに対してであった。

 山寺宏一氏が艶っぽく演じるリメイク版デスラーは、その冷酷さや、手段を選ばないところが魅力的であった。『2199』ではスターシャに自分の想いが届かないと悟るやいなや、ヤマトに対して強烈な執着を発揮し、最終的には母星や臣民に被害が出ることも厭わない凶悪な戦術を繰り出すこともあった。『さらば』『2』のリメイクであれば今作にも登場するのは必然でもあるが、あの武人の如き姿ではない、新しいデスラーとして返り咲くのだろうと、期待していたのだ。

 ところが、『2202』ではアベルト・デスラーの幼少期が明かされ、ガミラスの母星の寿命が残り僅かであること、遊星爆弾による地球の攻撃もガミラス側にとってのテラフォーミングだという旧作の事情を改めて強調して、デスラーによる独裁政権の復権を目指す一派が物語に介入する。終いには、前作の蛮行が裏切り者を一掃するための手段として正当化され、デスラーもそのことに罪悪感を感じていたことに「後づけ」されていくのである。いやいや、そんな、何言ってんスか、デスラーさん。

 ガトランティスの侵略行為が私情なら、前作におけるデスラーの一連の行動にもその要素はあった。その裏側にはデスラーの一族が受け持つ移住先の惑星の捜索という「大義」があり、これまでの行動も全てはガミラス臣民を想ってのこと、ということにされてしまった。彼は冷酷な独裁者から、身の丈を超えた重責に疲弊する為政者へとすり替えられてしまったのだ。

 この改変には、大いに戸惑ってしまった。いや、旧作もそうであったにせよ、『2199』のデスラーは事と次第によっては民衆を切り捨てるほどの度胸と非情さがあり、優雅で知的な振る舞いや話し方とは似つかわしい激情を持つ個人として認識していただけに、こんなに感傷的な人物へとシフトチェンジしたことに、驚かされたのだ。まさか、デスラー当人の物言いだけで、あの日惑星ごと道連れに殺されかけた民が納得するとは作り手も考えてはいないだろうが、この急転換には今なおモヤモヤしている。『さらば』のデスラーが見せた人情味や義理堅さを、今作ではクラウス・キーマンが担っていただけに、今作だけではデスラーの贖罪に対して納得には至らない。

 『2199』の続編として、その連続性にやや綻びが生じてしまったデスラー問題は、今後どのような決着を見せるのだろうか。それはそれで今後の作品を履修する際のモチベーションにはなるのだが、もし彼が先の作品で殉教者として崇められていくようになるのであれば、「それは違うよ!」と言い続けなければならないのかもしれない。

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