感想『Go!プリンセスプリキュア』希望と絶望の狭間にあるからこそ「夢」なんだ。
いよいよ目前に迫った『映画 プリキュアオールスターズF』の公開日。本作をより楽しむために、というよりは「泣き所」を増やすためにも、何か1シリーズくらい観ておくべきか……。そんな若干の下心を抱く者に対して、手厚い福利厚生が飛んでくる我がX(Twitter)のタイムライン。選ばれたのは、見目麗しいお姫様たちの物語。
結果として、今まで観たプリキュアの中で、とかではなく「今まで観たTVアニメの中で」大切な一本になってしまうとは、まったくの予想外だった。今では関連玩具の再販を願い、主題歌やサントラは出勤退勤のお供として、手放せなくなっている。
プリキュアシリーズについては、シリーズを完走したのは『HUGっと!』『トロピカル〜ジュ!』だけで、現在放送中の「ひろがるスカイ!』を追っている程度のビギナー。その他はオールスター映画を1,2作程度の履修率で、いわゆる女児向けアニメについても理解もまだまだ浅いところ。
そんな人間にとってのプリンセスプリキュアは、例えるなら「トロの部分だけ食っている」ような印象を受けた。作り手から子どもたちへと届けたいメッセージが明確で、かつ大人たちにも響く内容であり、アクションの作画や物語構成からは子供だましを感じさせない“本気”が伺える、というような。有識者の中でも人気の高い通称“Goプリ”、その完成度の高さを身をもって知ってしまった今、私の中でも推しキュア順位に大きな変動が起きつつある。
プリンセスプリキュア、観始めての1話の時点で、一目惚れをした。主人公・春野はるか変身するキュアフローラの初陣は、お姫様というパブリックイメージに反しての激しい格闘戦が描かれる。花が舞う美しいエフェクトの中で、キュアフローラがドレスが汚れることも厭わずに地面を滑るようにして敵の攻撃をかわし、宙を舞う彼女を追いかけるカメラワークとカット割も視覚的に気持ちがいい。本作は定期的にこのような「すごいアクションの回」が挟み込まれていて、物語上の盛り上がりに比例してバトルシーンのクオリティが跳ね上がる点は、決して見逃せない本作の魅力の一つだ。
加えて、プリンセスプリキュアの変身バンクから戦闘までの所作に至るまでも、「好き」が詰まりきっていた。パフュームにキーを刺す、解錠する、の動作で変身するプリキュアたちの初期フォームは、ドレスの丈も膝上までで動きやすい衣装になっており、お姫様らしさと闘う女の子の折衷のデザインがまず一点目。次にお約束の口上があり、“冷たい檻に閉ざされた夢、返していただきますわ!お覚悟は、よろしくて?(決めなさい!)”で始まり、“ごきげんよう”で〆る。『仮面ライダーW』のオタクとして、こういうお決まりのセリフがあるとビシッと締まるし、待ってました!感も強まる要素が二点目。
そして必殺技を打つための姿「モードエレガント」に変身すると、衣装がロングドレスに変化する二段変身のアイデア。初期フォームは変わらずともこのエレガント形態は新しいキーを得るごとによりゴージャスになり、ドレスに装飾が増えたり髪が伸びたりと「美しく」の面でもパワーアップしていくプリキュアたちのモードチェンジは、玩具の販促と物語とのリンクも担保されていてとにかく巧い。この三点をもってプリンセスプリキュア、自分の好みに刺さりすぎていて、戦闘シーンにグッと気持ちが傾いたのもハマった要因に違いない。
本作の物語は、プリンセスになることを願う一人の少女から始まる。主人公・春野はるかは、愛読書の絵本『花のプリンセス』がきっかけで自身もプリンセスになりたいと夢見るが、その夢を周囲からからかわれてしまう。失意の中、はるかはカナタと名乗る謎の少年と出会い、カナタははるかに夢を持つ大切さを語り、プリンセスになれるよと励ます。
オープニングでも宣言される通り、本作は“真のプリンセスを目指す三人の物語”である。そうなれば必然、プリンセスとは何か?の問いに向き合うことになるし、本作は50話をかけてそれを語り続けているとも言える。通常ならばプリンセスとは世襲制であったり、位の高い者に嫁いでなる者、という印象があれど、本作におけるプリンセスとは誰かから授かるものではなく、自らの在り方として規定されている。プリキュアに変身する度に彼女たちが口ずさむ“つよく、やさしく、うつくしく”が的を得た表現であり、変身バンクにおいて彼女たちは王冠を(他者から与えられるのではなく)自ら被ることからも、そのことが表現されている。
つまり、彼女たちが目指すのは立場や地位としてのプリンセスではなく、行動や在り方の面で“つよく、やさしく、うつくしく”そこに在るということをプリンセスと定義づけて、その頂へと歩を進めていく、という物語なのだ。そしてそれは、なりたい自分になるということ、すなわち「夢」へと接続されていくことで、より広がりを見せていく。
プリキュアに変身する彼女たちの日常は、真のプリンセス=グランプリンセスになるための鍛錬の積み重ねとして描かれる。家族と共に海藤グループで働くことを目標とするみなみ、トップモデルを目指すきらら、絵本作家を夢見るゆいは、具体的な目標を持ち、それに近づくための努力を惜しまない少女たち。その中で、「プリンセス」という曖昧な夢を持ち、かつプリンセスを称号だと考えている人ほど具体性が見えてこないはるか。
彼女たちに科せられたプリンセスになるためのレッスンとは、お茶の淹れ方やテーブルマナーといった、いわゆる礼儀作法であるのが示唆的で、プリンセスであっても自分のことは自分でこなせる、自立した女性として描こうという意思を感じられる。この要素は、トワとして人間界にやってきた彼女に自分の世話を自分でするよう促すきらら、47話におけるお茶を淹れることも種を植えることも許されなかった世界を否定するはるかの態度からも繰り返し描かれてきた。
プリンセスとは立場ではなく、生き方である。それを証明する前半の山場として、トワイライトとの対決が挙げられる。トワイライトはディスダークの首魁ディスピアの娘(という記憶を植え付けられた)であり、その正体であるトワもまたホープキングダムの正真正銘のプリンセス。すなわち、「生まれながらにして」プリンセスである、という存在だ。トワイライトの思うプリンセスの姿とは“気高く、尊く、麗しく”であり、プリキュア陣営のそれとは絶妙に重ならない上に、自身を“唯一無二のプリンセス”と定義する彼女は、はるかをプリンセスの格には至らぬ者として激しく否定する。
生まれによって定められ、かつ気品や美しさにおいてもプリンセスに最も近い存在であるトワイライト。はるかはその存在に激しく動揺するも、彼女はトワイライトと出会う直前に『花のプリンセス』の著者である望月ゆめ先生と話す機会があり、絵本のプリンセスの未来があえて空白とされていたことに対してたくさんの読者から、自分たちが想うプリンセスの未来像が寄せられていたことを知る。物語のプリンセスの在り方は、読者の数だけ存在する。それは、トワイライトの言う“唯一無二のプリンセス”を打ち砕くものであり、その教えをもってはるかは自分なりのプリンセスを目指すことをもってトワイライトに真正面から向き合う。
トワイライトを追うのではなく、自分が想うプリンセス像を目指すと宣言したはるか。彼女は自分の夢を抱き続ける覚悟という“つよく”と、トワイライトを否定しない“やさしく”を持ち合わせている。トワイライトとの対決は春野はるかの気高さや心根の強さを示し、同時にプリンセスとは授けられるものではなく「自らなるもの」として描く、作品のテーマを貫く思想を打ち立てた、前半の名エピソードである。自らが想うプリンセス像に向かって日々鍛錬を続けるはるか。その努力が芽吹くクライマックスに向けて、本作は種蒔きが随所に設定されているからこそ、シリーズ全体としての納得度と完成度が高い水準で保たれているのではないだろうか。
はるかの夢がプリンセスになること、という前提があるため最初は誤解しやすいのだが、プリンセスとは一部のキャラクターにとってはプリキュアであることや自分自身を律するための手段であり、彼女たちの目的としては自身の「夢」を叶えることが終始意識されている。
本作に登場するキャラクターたちは皆それぞれの夢を持っており、それは大人世代においても変わらず、夢を持つからこそ日々を頑張れるというポジティブな面を、まずは描き出す。はるかはグランプリンセスを目指し日々のレッスンに励み、みなみやきららも目標が定まっているからこそ、その実現のための努力とプリキュア活動との両立に情熱を傾けられている。一方で、ディスダークは「絶望」を人々の心から抽出してゼツボーグを産み出すが、その発生過程は「人の夢を閉ざす」ことで成り立っている。つまり、夢を持つこととは絶望に陥ることと表裏一体の状態であることを、本作は1話の時点で示している。
夢は毎日を生きる原動力でありながら、それを失ったり閉ざされてしまうと、人は深い絶望に誘われる。ゆえにプリンセスプリキュアとは夢を抱き続けることを鼓舞する存在であり、そのためには自分たち自身が夢を信じ続けることを要求される立場にあるということだ。カナタの言葉を受けて変身できなくなったはるか、夢が変容することで力が弱まったみなみの描写にある通り、人々の夢を守るためにはまず自分から、その夢を信じ続けなければならない。中身が中学生の少女であることを鑑みれば、これはかなりの重責ではないだろうか。そして、その隙を突くように心に刃を突き立ててきた名ヴィラン、クローズという存在が光る。
他者に揶揄されながらもプリンセスになりたいという気持ちを抱き続けてきたはるか。そんな彼女のカウンターとして幾度となく立ちふさがるクローズは、一度は退場するも中盤で復活。以降はキュアフローラを好敵手と認め、はるか自身を絶望に追い込むなど、ディスダーク三銃士の中でもとくに高い功績を挙げ、その凶悪さは(存在自体が「絶望」という概念の実存化であるディスピアと比べても)作中トップクラス。
クローズが名ヴィランたりえた理由は、夢と絶望の相転移に対して深い洞察を持ち合わせていたからこそなし得た、はるかを追い詰める所業にある。黒須と名乗りノーブル学園に潜入した彼は、プリキュアたちを「夢」を餌として分断させ、嘘の情報ではるかを孤立させることに成功する。ここで描かれるのは、それぞれ異なる夢を持った仲間たちがその道を追い続けることで不可避的に訪れる別れや孤独を体感させるというもので、偶然にもそこにカナタの思いやりの言葉が投げかけられることも相まって、はるかはプリキュアへの変身能力を一時的に失うほどのダメージを受ける。
夢を持つことは絶望を抱く危険性から逃げられない。そのことをディスピア以上に理解していたのか、クローズはディスダークの中でも最も絶望に詳しく、それを育てるのに長けた人物であったと言えるだろう。上記のエピソードに続き、クローズはディスピアの右腕として多くの人物を絶望に誘い、最終的にはラスボスに選ばれるほどの大出世を果たす。そこには、希望↔絶望への理解に留まらず、キュアフローラを誰よりも理解し、執着していたからこそなし得た、作品テーマを背負う存在としての格を手に入れた彼の姿があった。クローズとの闘いは映像と演:真殿光昭の演技も相まって、作中屈指の盛り上がりを見せていた。もしかしたら、私にとっての最推しキャラクターはプリキュアを差し置いてこのクローズ様になるかもしれない。それほどに忘れがたい存在だったのだ。
夢を持てば、絶望するかもしれない。そのことに、プリキュアたちはどう抗ったのか。それは、夢とは絶望を乗り越えることもセットで夢なのだと、そう言い切ってしまうことにあったのではないだろうか。
先述の通り、プリンセスプリキュアは人々の夢を守る存在として描かれ続けてきた。ただし、その闘いを最前線で見守ってきた非プリキュアの一般人である七瀬ゆいは、守られる存在からのアップデートが描かれる。作中三度も絶望の檻に捕らわれた経験を持つゆいは、三度目にしてついに自らの力で檻を抜け出すことに成功する。これは、夢を守る存在=プリンセスプリキュアを知り、絶望とは退けることが出来る、ということを目の当たりにしてきた彼女ならではの偉業である。
次に彼女は、檻に捕らわれた同級生や先輩たちに、絶望とは乗り越えられることを訴える。その声に応えるように、自ら檻を抜け出すノーブル学園の生徒たち。プリンセスプリキュアの闘いは、七瀬ゆいの心に希望を灯し、それがより多くの人に伝播した。そしてその希望は、一度心の中に生まれた絶望を(無かったことにする、ではなく)乗り越えるための支えになることを描くことで、絶望もまた否定すべきものではなく向き合っていくもの、寄り添っていくものとして再定義する。
そうした結論を経て、はるか達がついに真のプリンセス=グランプリンセスへと変身したことを踏まえれば、プリンセスプリキュアの物語とは「絶望を乗り越える力」を持ち、それを与える者へと成長することがゴールとして配されていたのだと知ることになる。最終話、はるかとクローズの最終決戦において、はるかはクローズをただ倒すこと、ひいては絶望が無くならないことに悩みながらも、絶望を経験したことも踏まえて今の自分があることに気づき、「絶望が在る」ということそのものを抱きとめるようにして、両者の闘いは終わる。夢とは希望と絶望を内包するからこそ夢であり、絶望は無くならないのなら乗り越えればいい。そのための強さを与えてくれる存在としてのプリンセスプリキュアの力を次代に託して、はるかたちはプリキュアの役目を終える。
最終話Bパート及びCパート、プリキュアとしての力を失い、同時に人間界とホープキングダムを行き来する能力を喪失することで、カナタやトワたちとの別れの日が訪れる。そして、きららやみなみも、自分の夢を追うために、はるかとはお別れをする。これはクローズが37話で示した夢=孤独の再演なれど、はるかは涙を流しつつ、絶望しない。プリンセスプリキュアとして戦い抜いた彼女たちの心には、絶望に負けない強さが宿っている。悲しいこと辛いことも抱きしめて、前に進んでいく。はるかの前向きな走り出す姿、彼女たちの数年後の後ろ姿と共に、“この世代の”プリンセスプリキュアの物語にエンドマークが打たれる。
『Go!プリンセスプリキュア』、これにて完走。2015年の作品に、これほど強烈に「ロス」を感じるとは予想外で、他のシリーズに移行することも出来ないまま、彼女たちのことを考え続けている。
このnoteでは、はるかやクローズにフォーカスした感想になってしまい、きらら/ゆいの夢の一貫性や夢そのものが変容するみなみだったり、三銃士の一人でありながらも自分の生き方に悩み、「毒親」からの独立を果たすことでなりたい自分に近づきつつある結末を見せたシャットについても、書ききれない感情がある。それらを含め、各キャラクターの成長や夢の変遷、関係性の変化を小刻みに配置することで盛り上がりを絶やさなかったシリーズ構成が見事で、毎話毎話の面白さのアベレージが異様に高い作品だったGo!プリ。シリーズ全てに目を通したわけではないが、これからプリキュアに触れる人にオススメするなら、私も本作を挙げてしまうかもしれない。
これからたくさんの夢に出会い、悩める子どもたちへ。あるいは、どう生きていけばよいか迷ってしまった大人たちへ。幅広い層へと届く普遍性とテーマ性を持ち、時折やってくる「すごいアクションの回」に思わず巻き戻し再生してしまう、そんな全50話。女児アニメだからと侮るなかれ、作り手の本気に圧倒され、涙して。そんなプリンセスの物語に出会えて、本当に良かった。春野はるかさん、あなたに映画館で会える日が本当に楽しみです。
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