まさか『えいがのおそ松さん』に泣かされるなんて。
相変わらず童貞ダメニートな松野家の六つ子たちは、高校の同窓会に出席し、立派な社会人として成長した同級生たちの姿に打ちのめされる。高校時代にいい思い出なんてなかった―。深酒をして眠ったおそ松たちが目を覚ますと、彼らは「思い出の世界」に閉じ込められていた。この世界から抜け出すためには、六つ子の中の誰かが思い残した後悔を解消しなければならない。真実を知るため、おそ松たちは18歳の自分たちに会いに行くのだが…。
2015年に放送されたアニメ『おそ松さん』は、行き過ぎたパロディが原因で1話が封印(再放送・ソフト収録不可)というロケットスタートを切り、それでもひるまずに尖ったギャグセンスで走り抜けた、凄まじい作品だった。人気声優の起用やキャラクター同士の関係性にスポットを当てた内容が女性ファンを多数獲得し、関連グッズや表紙を飾った雑誌が完売続出するなど、大きなムーブメントが話題となっていた。
そんな『おそ松さん』待望の映画化。もとがギャグアニメかつ短編集だったこともあり、長編劇場版として一本道のストーリーを駆け抜ける六つ子たちの物語に興味津々だったが、思いもよらぬ内容に涙腺を殴られ、コメディ映画だからと油断していたところに嬉しい不意打ちが待っていた。
突き付けられる現実
冒頭、高校の同窓会に参加するおそ松たち6人。酒が飲める歳に成長した同級生たちと語らい、「来てよかった」と心情を吐露する。しかし、仕事の話になると突然動揺しだす兄弟たち。
『おそ松さん』が衝撃だったところは、「ニート」「童貞」「実家暮らし」の三重苦を背負っているキャラクターが主人公、という点にあったが、当の本人とてそれを恥じ、後ろめたいと思う感情を持ち合わせている。それが明るみになった途端、同級生からなじられ、見下されてしまう居た堪れなさ…。大人になったら社会に出て働くという「当たり前」から外れた彼らに、世間の目は冷たい。本作の場合は極端だが、こういう状況に陥る可能性は誰にでもあって、これを笑える人っているのだろうか、という気持ちにさせられる。とはいえ、同窓会の会費は親に出してもらったという六つ子、ダメすぎる…!!
おれたちの知らない「松」
同窓会で大恥をかいた六つ子たちは、チビ太の屋台でヤケ酒をして(金がないので食い逃げ)、眠ってしまう。彼らが目覚めると、そこは高校卒業式の前日の世界。デカパン博士によると、これは六つ子の中の誰かが抱き続けた後悔によって生まれた世界だという。そこで出会ったのは、当時18歳の六つ子たち。
ここからのパートは全てが抱腹絶倒。6人がそれぞれ、現在と全く違うキャラクターで学園生活を送っており、慣れ親しんだ顔を同じ声優が演じているのに、まるで別人なのだ。予想だにしないふり幅を披露した若き六つ子たちは、二次創作のいい材料になるだろう、という悪い思考がよぎる。
同時に、周りと適応しようと彼らなりに頑張ったがゆえの振る舞いが、時に切なく、同時に死にたくなるほど黒歴史。あの時やっていたイタい服装に髪型、他人とは違うところを見せつけたくてとった行動などなど、本来の意味での「中二病」を患った全ての元思春期の大人たちの心にもクリティカルヒット。おいやめろ、殺す気か。
(以下、ややネタバレ注意)
誰の心にも刺さるテーマ性
ギャグとして投下された、高校生時代の六つ子たち。しかしその本質は、大人になった彼らにとって「忘れてしまいたい過去」を掘り起こし、他の5人にも晒されてしまうという公開処刑にも等しいもの。自分の恥ずかしいことを笑いのネタにされたあの同窓会のように、次は兄弟からからかわれてしまう。
さらに彼らは、高校時代は仲が悪かったこと、卒業式の日に起きたとある事件を思いだす。そんな中、たった一人後悔を抱えることになったとあるキャラクターがいて、彼の人の良さゆえに起こった悲劇が、胸を突く。
いつだって一緒にいた松野家の六つ子たち。その断絶は、思春期に入って訪れる。常に誰かと比較され、混同され、呼び名はみんな同じ「松野くん」。成長する自我に反して、六つ子でいることが恥ずかしくなったり、周りとの違いに気づかされる。とても極端な性格の高校時代の六つ子たち、それは「自分を見て」というSOSだったのかもしれない。「なんで俺たちは、6人もいるんだろうな」だなんて、そんな言葉聴きたくなかった。
自分を肯定するための冒険
しかし、そんな彼らの学園生活を、違う視点で見ていた人物が一人。クラスメートと同じように六つ子を「松野くん」と呼ぶ彼女は、6人でいることを「絶対に楽しい」と肯定する。どんなにいがみ合っても、その人には「松野くん」たちは楽しそうな学園生活を送っていたように見えていた。
そして、おそ松さんたち6人も、かつての自分自身の手をとって、勇気づけていく。未来への不安を抱えたティーンエイジャーに、「そのままでいい」「結構楽しいよ」だなんて、行きつく先はニートなわけだが、そんなことを吹き飛ばす清々しさが、クライマックスには溢れていた。
高校を卒業する18歳、自分の在り方や行く先を模索していく局面に差し掛かり、不安や恐怖から強がっていた自分たちへの、精一杯のエール。かくして、六つ子は俺たちの知る「松」に戻っていく。いっつも一緒で、自堕落で、でもサイコーに仲良しな6人へ。
物語というものは、登場人物が葛藤や外敵を乗り越え、成長するまでを追うことが基本となっている。ただし、松野家の6人が目指す(一応の)成長とは、社会に適応した大人になることだろう。就職して、家を出て、結婚して―。本来喜ぶべきそれらは、しかしコンテンツとしては終わりを意味してしまう。彼らが真の意味で成長し、「童貞でニート」で無くなってしまえば、『おそ松さん』では無くなってしまう。
そのため、本作では「かつてのイタい自分を受け入れる」大人の6人と、「思春期ゆえに兄弟を疎ましく思う気持ちを払拭する」18歳の6人を同時に描き、各々がささやかな精神的な成長を遂げる。とても巧い落としどころで、映画のオチをしっかり付けつつ、コンテンツのその先を閉じない上に、感動的なシーンの余韻をきっちり笑いで上塗りするのも「粋」だろう。
笑いとノスタルジーに溢れた、意外な拾い物の『えいがのおそ松さん』。ダメ人間なりに大人の矜持を見せる6人に、隠された後悔の裏側に大いに泣かされ、ハンカチ片手に鑑賞することになった。が、ラストカットにはしょうもない下ネタで幕を閉じ、観客を笑顔のまま送り出してくれるのも、作り手の照れ隠しみたいなものを勝手に感じて、大好きな一本になってしまった。ティッシュはシコ松の後始末のためではなく、目元を拭うために持参しましょう。