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理想では救えぬ。『宇宙戦艦ヤマトIII』
年の瀬である。2024年は『宇宙戦艦ヤマト』のTVシリーズ放送50周年という記念すべき年であり、私が初めてこのシリーズに触れた年でもある。2024年10月6日を皮切りに私のヤマト漬けの生活が幕を開け、大晦日の日にこうしてキーボードを叩かせているモチベーションもヤマトになるとは、人生何があるかわからないものだ。
今年は『さらば宇宙戦艦ヤマト 4Kリマスター』に始まり、『ヤマトよ永遠に REBEL3199』第一章と第二章の上映、そして放送50周年記念企画が展開され、「宇宙戦艦ヤマト」シリーズにとって大きな節目となりました。https://t.co/ljAnT07KAL
— 『ヤマトよ永遠に REBEL3199』公式 (@new_yamato_2199) December 31, 2024
これからも #宇宙戦艦ヤマト をよろしくお願いいたします。 pic.twitter.com/x4KMAm9yUs
という前置きを裏切るようではあるのだけれど、旧シリーズ最後のTVアニメとなった『宇宙戦艦ヤマトIII』に対する熱量は、他の作品と比べても、やや低い。面白くないのではなく、飲み込みづらい、と言うべきだろうか。この作品に込められたある種の「思想」のようなものに、賛否を唱えられるほどの知識を、私は持ち合わせていなかった。
そんな『III』の感想をいかにして書き記すべきだろうか。本作は執筆現在、視聴方法がかなり限られており、知名度も他作品に比べて低いという都合から、以下にざっくりとした結末までを含むあらすじを明記させていただく。その上で、読み進めていただけると幸いである。
23世紀初頭、宇宙ではボラー連邦とガルマン帝国との間で銀河系大戦が勃発し、ガルマン帝国の放った一発のミサイルが流れ弾となりて太陽を直撃。惑星破壊の威力を持つミサイルは太陽の核融合反応を促進させ、その異常により太陽系そのものを焼き尽くしかねない深刻な事態に発展する。地球に残された時間は、研究の結果あと1年と算出された。この危機に対し地球防衛軍の藤堂司令長官は、かつてのヤマトクルーを集結させ、地球人類の移住先となる惑星の探索のためヤマトを発進させる。その艦長には古代進が選ばれ、土門竜介、揚羽武ら宇宙戦士訓練学校の卒業生が新人隊員として乗船した。
地球を旅立ったヤマトは、新人隊員らの訓練や彼らの適度なガス抜きを挟みつつ、移住先候補の惑星へと向かっていく。その道中、ヤマトはバース星の艦隊旗艦ラジェンドラ号と遭遇。傷ついた艦に補給などの支援を行いつつ、古代はラジェンドラ号の艦長からボラー連邦とガルマン帝国の争いの事実を知る。そこに、ラジェンドラ号を追うガルマン帝国の艦隊が現れ、ヤマトはこれに応戦、銀河系大戦に巻き込まれることとなってしまう。
攻撃を退けたヤマトは、バース星に到着。ラジェンドラ号を支援した恩により、バース星を傘下に置くボラー連邦のベムラーゼ首相との謁見を果たす。一時の休息を得られたクルーたちだったが、かつて銀河系を支配したシャルバートなる巨大国家とその女王を崇める宗教の存在を知り、その宗派や植民地に対する連邦の冷酷な措置に反発を抱いた古代らは星を離れ、以降はボラー連邦と対立する体制となってしまう。
その後も、二つの勢力から追われるヤマト。ついにガルマン帝国の捕虜となってしまうのだが、かの帝国の総統はあのデスラーであり、ガルマン帝国の正体とは母星を失い新天地を求め旅していたデスラーが、ボラー連邦から奪還し再興させたガルマン・ガミラス帝国であった。デスラーは部下の非礼を詫びた上で、かつての闘いで友情を感じていた古代のために太陽の異常活動の解消を申し出る。が、ガミラスの科学力をもってしても、太陽を鎮めることは叶わなかった。
次なる案として、デスラーは地球に酷似した惑星「ファンタム」の存在を知らせ、ヤマトクルーはついに新天地発見に歓喜する。だが、ファンタムとは人々の記憶から理想となる光景を幻視させる能力を持った一つのコスモ生命体であり、これもまた第二の地球たり得なかった。意思を持つファンタムは、匿われていたシャルバートの王族であるルダ女王をヤマトに託す。しかし、自身のプライドを傷つけられたデスラーはファンタムを破壊し、ルダ女王確保のため部下をヤマト追跡に向かわせる。
全ての候補惑星が移住先に適さないと知ったヤマト一向は、絶望する。その時、ルダ王女は彼らをシャルバートへ案内すると告げた。シャルバート星は緑美しい星ではあったが、銀河系を支配したという伝説とは、どうも食い違っている。長老の話によれば、シャルバートもかつては膨大な軍事力を誇ってはいたものの、武力では恒久な平和は訪れないという考えに目覚め、全ての兵器を封印していたのであった。ルダ女王は新たなる星の女王、マザー・シャルバートとなり、ヤマトに太陽の異常を回復させるハイドロコスモジェン砲を提供した。
ハイドロコスモジェン砲を持って、太陽への帰還を急ぐヤマト。その眼前に、ボラー連邦の攻撃が迫る。巨大要塞の猛攻の前に若き隊員たちは戦死し、ヤマトも窮地に陥るが、デスラー艦隊がボラーに引導を渡し、銀河系大戦はベムラーゼの死をもって終結。ヤマトはハイドロコスモジェン砲によって太陽の異常活性を停止させ、危機は去った。シャルバートが実現させた、武力の廃絶。古代は、それが簡単なものではないことを知りながらも努力することを約束し、デスラーは彼らの地球への帰還を見送った。
思えば、『2』が元より『さらば』という作品の結末付近から分岐するような一作であったことから、白紙の状態から始まる他に原案のないTVシリーズは、実に一作目以来となる本作。俯瞰してみれば、過去作には無かった新しい展開が含まれる、意欲作といえるのかもしれない。
前回の『新たなる旅立ち』で参戦した新兵たちのその後は、なぜか次なる『永遠に』では描かれなかったため、土門竜介と揚羽武の存在はそのリベンジという趣きがある。揚羽は希望通り飛行科に配属されコスモタイガー隊の若きエースとして活躍する一方、土門竜介はなぜか古代艦長により生活班炊事科に配属される。
土門は、その扱いに不満を抱きつつも、生活班の先輩である平田から館内のライフラインを守る仕事の重要性について学び、いつしか一生懸命に邁進する土門を、古代は可愛がるようになる。地球滅亡を前にして、艦長の重責とはどれほどのものか。それを背負える度量あっての、ヤマトなのだ。島副長の威厳を守るエピソードも含めて、以前より危険視していた古代進の上に立つ者としての適正に、こうして補強が成されている。それはそれとしてあのバーに諸々を弁償したのかよ。
本作で唸ったのは、食事描写だ。ヤマトの乗組員に支給される食事は、トレーに配された謎のペーストとパンだが、来賓用にはステーキが用意される。また、客人が選んだ飲み物に沿ってメニューを選ぶといった描写に、一作目当時には感じられなかった余裕を見出すことが出来る。地球は復興し、ヤマトは客人を設ける設備を整えるほどになっている。土門の修行を通じて、ヤマトの食事事情、戦闘員の胃袋を支える生活面のディテールに、一番興味を惹かれてしまった。
そしてストーリーラインは、ヤマトが目的をもって敵国との闘いに臨むのではなく、二つの国家の間に挟まれた中立の勢力として振る舞うことを要求する。一年というタイムリミットこそ一作目への原点回帰といえるのかもしれないが、ヤマトのこの立ち位置は初めてのこと。ガミラスやデスラーは元よりドイツがモチーフだとすぐにわかるが、対するボラー連邦は人名や雪国という描写から、やはりソ連だろうか。
当初は味方になると思われたボラー連邦と敵対し、当初争っていたガルマン帝国はデスラーの治めるものであったとわかる中盤から、ヤマトと帝国は同盟国のように振る舞っていく。この転換が面白い。デスラーから古代への友情の厚さ、それを受ける古代の艦長としての即断能力に、彼の成長が垣間見える。
しかしそれらを除けば、本作の提唱するとある「思想」と、それを教訓であるかのように受け止める物語には、前述した通り飲み込みづらさを感じたのが正直なところである。
シャルバートは武力を捨てた非暴力を訴え、事実シャルバート星の住人たちは自分たちが異星から攻撃を受けても反撃することなく、仲間の死に怒る描写すら見受けられなかった。そういった思想、文明があることは理解するが、一方でシャルバート教を信奉する者たちのヤマト占拠事件があったように、その教えは徹底されているとは言い難い。貧すれば鈍するということなのかもしれないが、この描写は非暴力の徹底がいかに難しいことを中盤において示すエピソードであった。にも関わらず、終盤ではやや急ぎ足で、これを平和の第一条件であるかのように受け取ってしまう。
ボラー連邦、ガルマン・ガミラス帝国共に、シャルバート教に対する宗教弾圧とみられる描写も含まれている。その一方で、シャルバートを信奉する彼らは銃を手に取り、ヤマトを脅かそうとしたのも事実なのだ。しかしその数話を挟んで非暴力を実行するシャルバート星の人々の“本懐”を目の当たりにする。2クールの中で、主義主張が目まぐるし入れ替わる。暴力の否定こそ一作目にも確かにあったテーマではあるのだが、専守防衛を丸ごと否定するかのような教えに対し、それこそ波動砲を有する宇宙戦艦のクルーたちが絆されていくのには、特定の思想を持たずとも恐ろしいと感じてしまう。これからガミラスやガトランティスのような敵に攻められないと、誰が保証できると言うのだ。
戦争と非暴力、宗教、新天地の獲得。これだけ多くのテーマを抱えた上で、枝葉となるエピソードの暗さ(行き過ぎたフロンティア精神に家族を巻き込んだ老人の末路など)が鈍重さを増し、ご都合主義が服を着たようなルダ女王によってもたらされる太陽をなんとかする砲の登場で、物語はやや乱暴に閉じられる。裏事情が述べられた設定資料に目を通したわけではないが、無念の打ち切りに合ったのではと察してしまう畳み方に、過去作に匹敵する完成度とは感じられなかった。
戦争という形を取っている以上、ガルマン・ガミラスとボラーのどちらか(あるいは双方)を悪と断じるわけにもいかず、これまでのように理不尽な侵略に抗うためのヤマトと波動砲、という立ち位置の方がノイズが無かったのは確かであろう。それでもなおこの状況を描くのであれば、シャルバートが掲げる非暴力は、理想でしかないと誰もが理解しているにせよ、これが唯一無二の解決法であるかの如き見せ方は、やはり問題ではないだろうか。なぜ武器を捨てられないのかではなく、なぜ武器を持たねばならないのか、への解法を示さないシャルバートは、この現実に対して無責任の誹りを免れない。
仮に、この思想や学びが真価を発揮するとしたら、「その後」を描かなければならないはずである。シャルバートが掲げる非暴力の理想を、ヤマトクルーはいかに成し遂げるのか。最終的な実現まで到達せずとも、最初の一歩を踏み出すだけでもいい。彼らの教義を理想のままで終わらせてしまうのは、それこそ不誠実だ。歪でもいいから、何らかの姿勢を見せてほしかった。自らの行いでガミラス文明を滅ぼした過ちを悟り慟哭した古代進が、与えられた教えをただ受け止めるだけの結末で終わらせてしまうなんて、本当に『ヤマト』らしいと言えるだろうか。
平和への道という、現実社会が答えを見いだせない(実践できない)問題に対し、ヤマトの諸君は当事者性を欠いた姿勢で、軟着陸してしまった。もっと現実に持ち帰るものが多い結末であれば、本作の評価も変わったのかも知れない。思想とは、現実とすり合わせて、検討して、実践して、トライ&エラーを繰り返して、強固なものになるのだろう。シャルバートはそれをやり遂げたのかもしれないが、その「過程」は省略され、「結果」のみを提示したに過ぎない。過去に圧倒的な武力で銀河を支配したという過去に蓋をして。
ヤマトは今後どうすべきなのか。少なくとも、平和のための闘いがまだ続くことを、最終話の西﨑氏のメッセージが表明してしまった。『完結編』と題された、最終作にならなかった作品が、待ち構えている。その一本に、非暴力を訴える隙があるだろうか。
旧ヤマトも残り劇場作品が2本。この締めに差し掛かった今、年が開けて2025年に到達。行けるところまで、行くしかない。
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