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『ワンダーウーマン1984』前作から“反転”した構成が、世界の美しさを浮かび上がらせる。

 「ワイルドスピードのきれいなお姉さん」から「全世界の女性が憧れるヒーロー」へ、ガル・ガドット様の美貌にひれ伏す幸福な2時間が、ついに帰ってきた。シリアスすぎると他社の赤タイツにイジられたのが悔しかったのか、ポスターはサイケデリック一歩手前の色彩で、我らがワンダーウーマン様も金ピカの新スーツを着るという。ヒーロー映画の供給が乏しかった2020年の締めくくりに相応しい、紅白の小林幸子イズムさえ漂う各種プロモーションにもう辛抱たまらん!!と劇場に足を運んだが、よもや泣かされて帰ってくるとは予想外だった。

 本作を語る前にどうしても思い出しておかねばならないのが、2017年の前作『ワンダーウーマン』である。女性監督作品および女性が主役のアクション映画として歴代1位の大ヒットを記録し、批評家・観客双方に好意的に受け入れられた一作。そのヒットを皮切りに『ブラックパンサー』『キャプテン・マーベル』も好成績・高評価を獲得し、ダイバージェンスが叫ばれる現代を象徴するような出来事だったと記憶している。

 そんな栄えある一作目に、かくいう私は熱狂できなかった。面白くなかったわけではない。ガル様はいつだって気高く美しくそして強く、あのテーマ曲が流れれば否応なしに盛り上がる。だが、問題はストーリー終盤までダイアナが抱き続ける「勘違い」に、私は劇場の座席に座りながらモヤモヤを覚え続けていた。

 女性だけが住む島で育ったダイアナ・プリンスは、外の世界からやってきたスティーブ・トレバーと出会い、男と女が入り混じる外の世界に旅立つ。まったく異なる文化や価値観に触れ、見識を広げていくダイアナ。そんな彼女は、人々が戦争を繰り返す理由は「軍神アレスが引き起こしたから」と思い人々の善性を信じるのだが、アレスは人々が元来持つ悪性や闘争本能を手助けしたに過ぎず、人間の中にある悪意や欲望が戦争を引き起こすのだという真実に一度は絶望し、それでもスティーブを始めとする「善い人間」もいることを知り、彼らを守るために闘うことを決意する。後のジャスティスリーグ結成にも繋がる、ワンダーウーマンのオリジンだ。

 文章に起こすと何気ないあらすじだが、この作品の特徴は神の世界で育ったダイアナが、その出自ゆえに起こした勘違い、「人々が戦争を起こす原因は悪い神である」が、割と終盤まで解消されないことにある。一方、映画を観る我々は、性善説がいかに儚いものであるかを、自分の中に宿るもの、あるいは他者から向けられる無数の「悪意」がいかに普遍かつ恐ろしいものかを日々肌で感じているのだから、純粋無垢なダイアナを観ている間はもどかしさを感じてしまう。そのもどかしさが映画そのものの評価に好ましくない印象を与えてしまい、お気に入りリストに入れられないまま円盤を買うことさえ無かったのが、私と前作『ワンダーウーマン』の距離感である。

 それを受けての本作『1984』において、ワンダーウーマンことダイアナが闘うのは人々の「欲望」である、というコンセプトに、まずは衝撃を受けた。

1984年。スミソニアン博物館で考古学者として働くダイアナ=ワンダーウーマンは、ある日バーバラという宝石学を専門とする女性と出会う。慣れないヒールで一生懸命歩き、ホームレスに施しをする優しいバーバラとダイアナは、会ってすぐに友人になる。
時を同じくして、所有者の願いを叶える「魔法の石」が、それがそうとも知られずFBIからの鑑定依頼により博物館に運ばれ、バーバラはダイアナのようになりたいと石に願ってしまう。そして、石油会社社長にしてテレビタレントであるマックス・ロードも石を求め博物館を訪問し、奪取に成功。マックスは「自らが願いを叶える石自身になる」ことを願い、その力を手にする。触れた相手の願いを叶え、代償に石油や資産、権力をわが物にしていくマックス。増大する願望器は、意図せずして世界の終焉を招いていた。

 欲望。全ての生物が持つ本能的心理、綺麗に言い換えれば「願い」が、本作におけるヴィランである。バーバラはダイアナのように美しく強い女性でありたいと願い、マックスはマッチョで偉大な男でありたいと願う。それらが神の作りし石の力によって現実のものとなり、肥大化する全能感は暴走を招く。本作で描かれる世界の終焉は、従来のスーパーヒーロー映画のような現実離れしたハルマゲドンではなく、ゾンビ映画やディザスター映画にあるような秩序の崩壊によるパニック描写で、この現実世界のニュース映像で流れてくるものにより近い、卑近で他人事ではない恐ろしさがあった。

 一方、前作を経て人間には「善と悪」の双方があることを学んだダイアナは、事の重大さに気づき石の回収に向かう。人一人の欲望を無制限に叶えるだけでも危ういというのに、よりによって石そのものとなったマックスは、全人類の願いを叶えてやろうというじゃないか。それがどんな結末を招くのかを、彼女は悟っているのだ。世間知らずなダイアナが人間を学ぶのが前作なら、人間を知ったダイアナが人間の自滅を未然に防ぐために闘うのが本作であり、その“反転”に私は心の中でカッツポーズをキメた。人間が愚かな生き物であることを知っている我々は、その過ちを正そうと奮闘するワンダーウーマン様に感謝と畏敬の念を向けるのである。

 しかし、無敵のダイアナとて欲なき聖人というわけではない。彼女が無意識に願ったのは、前作で彼女に愛を教え、そして散っていったスティーブとの再会。それは石によって叶えられ、二人は束の間のロマンスを交わす。

 前作では人間社会を知らなかったダイアナをスティーブが案内する微笑ましいシーンがあったが、今作ではダイアナが1984年の世界をスティーブに教えることに。ここでも“反転”が活き、ウェストポーチがなぜかお気に入りのスティーブ(というかクリス・パイン)が可愛くて仕方がない一連のシーンは、アクションと並ぶ本作の白眉だと断言したい。

 愛する人と平和な世界を享受する。石の魔力とはいえ、スティーブの死という過去に縛られ続けたダイアナにとっての、愛と思いやりに満ちた日々。それが夢のようにいつか覚めるものだとわかっていても、その時を愛おしく思うダイアナのいじらしさに、胸が締め付けられる。

以下、ネタバレを含む

 石の奪還を目指すダイアナ&スティーブと、全人類の願望を受け止める器にならんと大統領権限まで強奪したマックス。全ては、石を破壊するか、人々が願いを自ら取り消さない限り、世界は崩壊してしまう。1984年という舞台設定が、核と冷戦の緊張下にあったことが、最悪のシナリオを予感させていた。

 つくづく、本作はヴィランの組み立てが巧妙である。冴えないが優しい女性だったバーバラは、ダイアナへの憧れが元となって美しさや強さに惹かれ、やがては自らが最強の捕食者として誰にも見下され損なわれない自分になることを望み、「チーター」というヴィランに転じてしまう。チーターは冒頭でダイアナがヒョウ柄のヒールを履いていたことに呼応するし、毛皮に覆われた姿はおそらく以前のバーバラなら考えられなかったファッションだろう。望むものを無制限に与えられていった結果、「自分」を無くしていくのがバーバラという女性の悲哀である。

 一方のマックスも、なんら闘う力を持たない代わりに、人間社会における富と権力の全てを一旦は手に入れるという、凄まじい結果を残している。その根底には、マッチョで強い男性であることを要求されてきた幼少期のトラウマと、離婚した妻との間の子に理想の姿を見せられないストレスが存在していた。彼は全てを手にしたかのように見えて、一番欲しかったはずの息子を、危うく失いかけた。願いの代償はその人の最も大切なもの。もし手遅れだったら、世界はマックスの絶望と共にエンドマークが打たれていた。身の丈に合わない力に溺れ、破滅していくテレビタレント兼社長というキャラクター、ヒーロー映画の悪役とは思えないくらいに等身大の「どこにでもいる大人」だった。

 そんな二人に打ち勝つために、ダイアナは誰よりも先に願いを棄却することを選ばなくてはならなかった。それはすなわち、スティーブとの二度目の別れを意味する。今の彼が虚構だとわかっていても、想い人の死と再び向き合うのは、容易なことではない。

 だからこそ、本作は「飛行シーン」が最もエモーショナルで、涙を誘うのである。ワンダーウーマンが、スティーブの操縦する飛行機ではなく、自分自身の力で空を飛ぶ。スティーブの死を受け入れ、この世にいない彼を自分の中で想い、内なる心に宿した彼の言葉に導かれた時、彼女は初めて「飛ぶ」ことができるようになった。

 まるでスティーブと一つになったかのように、手を横に広げ飛行機のようなポーズで空を舞うワンダーウーマン。いるはずのない彼の力に支えられ、ようやくスティーブの死を受け入れたダイアナは、喪失の恐怖を知るからこそマックスを説得し、全世界の人々の希望となることができた。誰もが苦しみ、何かを願わずにはいられない。人間と欲望は切り離せないからこそ、時に争いが起こる。それでも、この世界が美しいと思えるから、守りたいと思えるから闘う。ワンダーウーマンのオリジンは、本作をもってようやく完成するのである。

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