暁美ほむらの拗れまくった愛に涙した。『魔法少女まどか☆マギカ』と私。
沼落ちした瞬間、というのは鮮明な記憶である。俳優やアイドルに一目惚れしたり、薦められたコンテンツが異常なまでに自分に刺さった瞬間など、自分の趣味嗜好に新たな楔を打ち込まれた瞬間は、一生の思い出になる。
少し自分語りをさせてほしい。大学2年生だった当時、まだ自分は日曜朝の特撮番組に目を輝かせ、劇場通いが趣味のインドア系だった。凝り性なこともあり、自分がオタク寄りだという自覚もあった。が、「アニメ」という日本を代表する文化については、馴染みがなかった。というより、わざと避けていた。興味はあったが、これ以上趣味を増やしたら背負いきれない!という懸念があったり、正直に告白すれば気恥ずかしさもあった。今となってはあり得ない話なのだが、コンテンツに情熱を注ぎ込む姿勢を、当時は恥ずかしいと思っていた。周りがサークル活動やバイト、はたまた研究に熱を入れている中、自分だけ娯楽に走ることに対する、勝手な自意識の暴走。
そんな折、後輩から激推しされたのが『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメだった。彼女はDVDを持参し、ぜひ観てください!と熱のこもったプレゼンを繰り出してきた。その熱量のすさまじさたるや、今でもよく覚えている。物語のネタバレにならないよう細心の注意を払いながら、その界隈に詳しくない私にも丁寧にその魅力を解説し、「必ず驚かされる」と太鼓判を押した。その情熱に根負けし、DVDを借りた手前、感想を伝えねばならんだろうと自宅に戻ってDVDを再生した。それが、今に至る私が出来上がるまでのファーストステップだった。
ナメてた魔法少女アニメに情緒を殺された
『魔法少女まどか☆マギカ』が何であるかは、このnoteに辿り着いた人には説明不要だろうから、当時の所感を出来るだけ思い出しながら書いていく。全くもって失礼な話だが、私は完全にこのアニメをナメていた。「タイトルに☆がついているアニメに大人がハマるなんて」「つのだ☆ひろかよ」とバカにしていた。が、バカは私だった。勝手な好き嫌いで敬遠していた深夜アニメに、人生を変えられるくらい情緒をかき乱されたのだ。
後になって知ったのだが、DVD収録のバージョンは地上波放送版と異なり、1話2話に鹿目まどかのキャラクターソングである「また あした」がエンディングテーマとして挿入されていた。それが、私のナメを加速させていたのだろう。可愛らしい女子中学生が不思議な生物と出会い、異形の世界の存在=魔女を知る。すでに魔法少女となっていた先輩と出会い、魔法少女になっても叶えたい願いに想いを馳せる。
DVDは各2話収録だったため、1枚目を観終えた時は「どうしよう…」と頭を抱えたものだ。映像は幻想的でダークで美しく、キャラクターたちも丸くてほわっとしていて愛らしい。だが、それ以上の言葉が出てこない。一体、何がそんなに後輩を熱狂させたのか。もしここで、DVD2巻を再生しなかったら、今の私はきっと違う自分になっていた。
DVD2巻、伝説となった「あの3話」と、正面衝突してしまった。何もかもが恐ろしかった。放課後の部活動の延長戦のようにさえ思えた魔法少女が、死を伴う闘いであることを、非情なまでに描いてきた。作品そのものが隠し持っていた本性をむき出しにし、牙を向けてきた。それを示すかのように、おどろおどろしいエンディングテーマ「Magia」の旋律が感情をかき乱す。
あまりの衝撃に、何も手につかなくなってしまった。当時のアニメファンは、脚本・原作は虚淵玄であり、これくらいの急展開は想定済みだったのだろうか。私は何も知らず無防備にマミさんショックを喰らい、茫然自失としてしまった。
それから一時間程度を置いて、4話から観進めていった。そこからは、あっという間だった。新たな魔法少女、佐倉杏子の理念と願った代償に心が荒み、魔法少女=魔女の真実を知りその身体がただの器となり果てていたことに驚愕し、さやかの脱落に再び世界の残酷さと向き合った。
続く10話では、暁美ほむらの終わらない闘いの真実が明かされ、涙した。宇宙を延命するという大義名分の下、少女たちが命や魂を搾取され、やがてこの世を呪いながらかつての同胞に駆逐される。その非情なサイクルを、まどかは良しとしなかった。最終話、彼女は人間を辞め、「概念」になることで全ての魔法少女を救済した。その優しい光は、絶望の中で死んでいった全ての魔法少女を包む、神聖なもの。世界を一から創り返るに等しい壮大なクライマックスに、涙腺のダムはとうに稼働を終了し、ずっと垂れ流しの状態で視界を滲ませていた。
その衝撃を反芻するように、最終回を観た翌日にはまた1話から鑑賞し、噛みしめるように観た。結果、3周はしたと記憶している。展開がわかっていても、いやむしろ全てを知っているからこそ、叶えたい願いになやむまどかや、ループに身を置きながら戦うほむらの姿に、自分も傷つきながらそれを追っているような感覚を得ていた。時を同じくして公開されていた『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語』『[後編] 永遠の物語』も複数回観に行った。劇場で観る迫力にやられ、新規カットに歓喜した。10話に該当するシーンでまたボロボロになった。後編ラストに流された完全新作の特報に、涙した。
エヴァンゲリオン以外のアニメに心底ハマったことのない当時の自分が、趣味や余暇時間をすべて『まどか☆マギカ』に塗り替えられるような、熱狂とも言うべき沼入りを披露した。例の後輩は、私が暁美ほむらと佐倉杏子について語る様を頷きながら聞いてくれた。ありがとう後輩、お前は私の人生を大きく変えやがった。結婚式には呼ばれていないが、幸せになってくれ。
私にとってもそれは、叛逆だった
ところで、インターネットで感想を漁っていると、TVシリーズのエンディングがハッピーエンドとして語られることに、疑問を感じていた。
考えてもみてほしい。暁美ほむらは、終わらない闘いの連鎖に自分を置いてでも守りたいと願ったまどかが他者を救うために人を捨て概念となり、その存在は誰の記憶にも残らない……のに、自分だけはまどかの記憶を保持したまま、生き続けるしかないのだ。彼女がいない世界で、彼女が守った世界を守り続けるために、ほむらはナイトメアと呼ばれる存在と闘い続ける宿命を背負ってしまう。
これでは何も変わらない。むしろ、声を聴くことも触れることも出来ず、絶えずまどかの不在に苦しめられるのだとしたら、世界改変以前の方がまだマシではないか。暁美ほむらの人生は終わらない煉獄のようにつらく残酷だ。
そんな疑念に回答をくれたかの如く公式が放った完全新作映画、『[新編] 叛逆の物語』は私にとってオールタイムベスト、墓に入れてほしいと知人に頼むくらいに大好きな一作だ。公開初日の劇場で、私はようやくリアルタイムで、他のファンと同様に何も知らない状態から新たなまどマギを楽しむことが出来ることに、喜びを感じてた。ずっとこの日を待っていた。ほむらも、きっと同じ気持ちだったのだろう。
いざ上映が始まった新編は、何もかもが未知の映像だった。TVシリーズで命を落としたはずの魔法少女が存命で、まるで戦隊ヒーローのように手を取り合い共闘している。ナイトメアとの闘いは童謡めいた歌によって決着し、それ自体が何か悪夢のようだった。「何かがおかしい」と世界の異変に気付いたほむらは、この世界が魔女の結界の中であることを突き止める。全てを知る素振りを見せるさやか、マミを殺した魔女そのものであるベベの存在。
やがてほむらは、この偽りの世界は自身の願いが生み出したもの、という結論に達する。TVシリーズ最終話で到達した世界において、暁美ほむらは限界だった。それはもう、魔女に堕ちる寸前まで、彼女はすり減っていた。当然だ。彼女だって、14歳の少女だ。頼るものも縋るものもなければ、疲弊していくのは自明の理だ。意地悪な言い方をすれば、ほむらをここまで追い込んだのはまどか本人、とも言えるのだ。そんなこと、言いたくないのだけれど。
話を戻そう。ほむらが創り出した世界。そこには「円環の理」を観測・制御したいインキュベーターが繰り出した、壮大な実験の場でもあった。箱庭のように再現された見滝原の世界で、まどかが「円環の理」としての記憶を取り戻せばインキュベーターの願いは果たされ、ほむら自身も救済を受けられる。だからこそ彼らは、ほむらに迫る。助けを乞えと。
それは、暁美ほむらの逆鱗に触れた。システムになったまどかを掌握することは、彼女の願いを無に帰すことになる。そうさせないために、ほむらは自ら魔女になって、魔法少女たちに殺されることで抵抗を試みた。自ら破滅に突き進み、恐ろしい魔女へと変化するほむら。救済を受けられず、絶望の中に沈み戻れないとしても、まどかの願いをこの世界に残すために死を選ぶ。それもまた、彼女なりの愛の形だ。
でもそれじゃああんまりじゃないか。誰かほむらを救ってくれ。その願いに応えるように、鹿目まどか・美樹さやか・百江なぎさ・巴マミ・佐倉杏子が、ほむらを救うべく動きだす。至福の瞬間だった。ずっとこうして、魔法少女たちが一つの目的に向けて共闘する姿が見たかったのだ。絶望に沈み、互いを殺し合うような関係はもうゴメンだ。このクライマックスバトルは、挿入歌も相まってヒロイックで希望に満ちている。「円環の理」であるまどかは、ほむらを救うために密かに動いていたのだ。ありがとうまどか、ゴメンねひどいこと言って。そうだよね、ほむらを見捨てるようなことしないもんね。
まどかは「円環の理」の力を取り戻し、ほむらの闘いもようやく終わりを迎える。これが、最良の形のハッピーエンドになる…はずだった。その時起きたことは、劇場で息が止まるほどの、とてつもない出来事だった。
まどかが、ほむらを導こうと手をさし伸ばしたその時、ほむらはまどかの腕を掴み、「円環の理」と人間としての鹿目まどかを分離させてしまう。ほむらは世界創生の概念の力を手に入れ、ソウルジェムを変質させ、世界を創り返る。なにゆえに?彼女はこう答える。
こうして、神聖なものを貶め「悪魔」となったほむら。彼女は世界を再構築し、魔法少女だったマミや杏子、なぎさ(ベベの元となった少女)が再び人間として生きられる箱庭を造り出した。さやかはその行いを糾弾するも、徐々に記憶を失い、魔法少女でもない美樹さやかにいずれ戻るだろう。誰も、悪魔の所業を止める者はいなくなる。
やがて、アメリカからの帰国子女としてまどかが見滝原中学に転入して来る。TVシリーズでの出会いをリフレインするように、ほむらがまどかに校内を案内する。その際、まどかは自分が「円環の理」であることを思い出しかけるが、ほむらにより静止される。そしてほむらは、いずれ敵対することになるのかもしれないがそれでも構わないと言い、まどかから受け取った赤いリボンを彼女に返し、「やっぱり、あなたの方が似合うわね」と涙を浮かべる。
皆さんはこの結末をどう受け取っただろうか。少なくとも、TVシリーズの結末に真っ向から背く行いである。まどかの願いを、ほむら自身がないがしろにしているという指摘は、全く持ってぐうの音も出ない正論だ。
それでも私は、この結末が完璧だと思っている。何というか、暁美ほむらならそうするよな、と理解してしまったからだ。ほむらは、まどかが助かる未来を求めて、魔法少女になったのだ。彼女がシステムになり果て、人間らしい生活を、家族や友人との時間を奪われるような結末は、ほむらにとってのゴールなんかじゃない。暁美ほむらの願望によって生まれた歪な箱庭でも、それが彼女にとってのハッピーエンドだ。
やがてそれに背く者が現れ、仮にそれがまどか本人だったとしても、それでも構わないという。人間として生きられる鹿目まどかの姿を見られたら、暁美ほむらは真の意味で救済される。彼女の闘いは、ようやく終わったのだ。
つくづく、私は『[新編] 叛逆の物語』が大好きだ。真相が明かされる過程にワクワクし、シャフト特有の映像センスに見惚れ、そして暁美ほむらの悪魔としての覚醒には、いつも涙している。TVシリーズからここまで、一人のキャラクターに思い入れてしまい、その決断を心から祝福してしまうほどに、『魔法少女まどか☆マギカ』は大事な作品になってしまった。暁美ほむらが鹿目まどかに抱く友情と執着に、彼女のためなら人を捨てても構わないとする献身と自己犠牲に、それら全てを「愛」と表現してしまう歪さに、私は共感し魅せられてしまった。
それから
「アニメにハマったきっかけって何ですか?」というお題だったのに、暁美ほむらへのラブレターになってしまった。とはいえ、やはり『魔法少女まどか☆マギカ』が全ての基礎になっているのは本当なんです。まずは制作会社シャフトを入り口に『化物語』『ぱにぽにだっしゅ!』を履修し、作曲の梶浦由記さんのファンになり後に『プリンセス・プリンシパル』『Fate』と出会った。今の趣味の大半を形作ったのは、やはり『魔法少女まどか☆マギカ』との出会いがきっかけなのである。
【2024年8月4日 追記】
そして、自分の中で「完璧」と言って良いフィルムの、その先がとうとう描かれるらしい。こんなに幸せで、こんなに怖いことがあっていいのだろうか。
まどか☆マギカの新作。待ち望んでいたような、目を背けたくなるような。このアンビバレントな気持ちを抱えながら、詳細日のわからない「2024年冬」を待たねばならない。観ない、などという選択肢はあり得ないが、劇場を出たあと、自分がどんな感情に襲われるのか、想像がつかない。
三年前、エヴァンゲリオンが終わった日、自分の人生にも一つの区切りがついた感覚があった。と同時に、死ぬまでの悔いが一つ減った、とも。そして今の自分にとって死ねない理由の一つが、この『ワルプルギスの廻天』なのは間違いない。結末がどうであるにせよ、これを見届けるまでは、何があっても生きねばならない。たとえもう一度、暁美ほむらの魂が再び煉獄に閉ざされたとしても、だ。