『戦姫絶唱シンフォギアXV』支配を超えて辿り着く、神様も知らない未来。
2024年2月10日、TVアニメ『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズを完走した。かれこれ数年間は見て見ぬふりをしてきたコンテンツなのに、一度触れてしまえば一ヶ月で修めてしまうなど、自分の嗅覚の無さを痛感せずにはいられないが、それはそれとして、楽しい一ヶ月であったことは間違いない。この場を借りて、作品を薦めてくださった方々にお礼を申し上げます。
して、2019年放送の完結作『XV』は、前回の『AXZ』がシリーズとしては珍しいスロースターターであったことの反動か、展開の速さも密度も濃さも三期を思わせるそれであり、全てを網羅して触れるのは難しい。そのため、この五期を貫く一つのテーマについて書いてみようと思う。それはひとえに、「支配からの脱却」だったのではないだろうか。
シンフォギアらしい、スケールの大きいアクションが展開される『XV』1話では、作品世界の人類を支配する神存在の「アヌンナキ」との闘いが示唆されていた。が、その前にクローズアップされるのが風鳴翼とその親子関係である。
シンフォギア装者の中でも最強格でもあり、頼れる先輩であり続けてきた翼。そんな彼女を襲ったのは、自身のライブで大勢の死傷者を出してしまうという、一期1話で描かれた奏を失ったあの日を思わせる惨劇。そのトラウマを刺激されるだけでなく、その上に翼は今回の敵組織である「ノーブルレッド」の一人ミラアルクに埋め込まれた刻印によって、祖父・風鳴訃堂の思想が頭を支配するようになる。
国そのものを守護する役割を一族代々で担い、そのためなら人の命をも犠牲にすることも厭わない、極端な国防意識、国粋主義の持ち主である風鳴訃堂。三期よりその介入が激しくなり、S.O.N.G.の活動に横槍を入れ、失態があるやいなや即座に電話をかけてくる、いわゆる「嫌な上司」枠として視聴者のヘイトを集めてきた訃堂だが、今作における翼の精神的な掌握はもはや虐待のそれであり、翼と作品全体に暗い影を落とす。子の自由意志を尊重せず、己の意のままとするべく、洗脳に等しい行為にまで手を染めた訃堂はシリーズでも屈指の毒親であり、人と人との調和を重んじる本シリーズにおいては許されざる巨悪に数えられるだろう。
この洗脳により、翼は響と出会う以前の彼女、「防人」であることを何よりも尊ぶ頃の精神状態に遡ることになってしまう。他者の心遣いを受け止められず、自分が刀を振るうことで全てを解決しようとする、抜き身の刃のような近寄りがたさ。最も強く、後輩たちを導いてきた翼であっても、奏を失った悲しみは癒えておらず、むしろ彼女の最も弱い部分を突いたからこそ訃堂の洗脳は効果てきめんであっただろう。誰も失いたくないと意固地になるあまり周囲を寄せ付けない冷たさを纏う翼は、シリーズがずっと訴えてきた調和を瓦解させる、装者たちにとって最大のウィークポイントとなっていた。
そんな翼を放ってはおけないお人好したちは、手を伸ばすことを諦めない。響は歌こそ翼であるとしてカラオケに誘い、マリアは祖父殺しの汚名を彼女に着せないよう、自らが最前線に打って出る。誰かが誰かを想い、助けになりたいと思う気持ち。後は、翼がそれを受け入れるだけなのだが、その難しさはシリーズで何度も描かれてきた通り。使命に自らを埋没させ、防人たらんとする翼には、その暖かさは眩しかった。
護国のためなら「鬼」になることさえも是とする訃堂。そんな教えに沿って防人であるよう自分を律してきた翼。家から与えられた使命に縛り付けられた翼は、自らの手でその軛を断たねばならなかった。マリアの平手打ちによって洗脳が解かれた翼は、自分の犯してきた罪(仲間を裏切り、未来の神化に加担してしまったこと)に動揺し戦意喪失するも、父・八紘が自身を庇って戦死し、訃堂との決着をつけるべく剣を握る。生身の人間でありながらシンフォギア装者と互角に渡り合う異常な強さで圧倒する訃堂を、なんとか下した翼。そんな彼女にトドメをささせないよう間に入る弦十郎。翼はたくさんの人の愛に守られ、こうして帰ってきた。
普段の翼であれば、ここまで錯乱し、過ちを犯すことはなかったであろう。結局のところ、彼女の完全復活までは終盤まで待たねばならず、響の手を取ること=他者の愛や思いやりに気づき、それを受け取ることの大切さを再びその心に宿すまではかなりの時間を要したものの、自分を縛り付けていた「防人」の使命から脱却し己の信ずるもののために闘うという、風鳴翼の真の救済が今期の最初のゴールとして設けられた。
翼の心を支配していた「防人」という使命からの開放。その物語はスケールをさらに広げ、シリーズ最終決戦として響たちが立ち向かうのは「神による人間の支配」そのものという、とてつもないものであった。
一期における宿敵フィーネが悲願達成のため、あるいはサンジェルマンたちが多くの生贄を捧げ神を召喚する目的として挙げられていた「バラルの呪詛」の破壊。かつての超先史文明期の人類の言語を分かち、相互理解を阻む忌むべき概念としてずっと語られてきたものではありつつも、視聴者たちにはその実態も、呪詛の目的も破壊された後のビジョンも提示されず、掴みどろころのないまま地球を見下ろしている謎の存在。
個人的にも、シリーズを追う上でずっと気になりつつあったバラル問題だが、本作は予想外の切り口でこれまでの前提を揺さぶってくる。それは、「バラルとは本当に“呪詛”なのか」というもの。
今作で闘うことになるシェム・ハとは、高位存在であるアヌンナキの一柱。アヌンナキは地球の生命の進化を促してきたが、シェム・ハは突如アヌンナキを裏切り地球とその星に住む生命を掌握。アヌンナキのエンキはシェム・ハを討ち倒すものの、シェム・ハは「言葉」によって自身の遺伝子を最も頭脳を進化させた生命体である人間に刷り込ませることが可能であり、人間を根絶させない限り何度でも復活できてしまう。
だがエンキは人類の絶滅ではなく、人間の言語を分断することでシェム・ハの復活を阻止するという方法を選んだ。そのジャマーシステムの名称こそが「バラル」であり、人類は統一言語を取り戻してはいけなかったのである。
「バラル」とは、人々から統一言語を奪うことでシェム・ハという創造神から被造物である人間を守るためのエンキの苦肉の策であり、「愛」にも等しい行為であった。それは、エンキを一心に想い続けてきた当時のフィーネがいなければ成し得なかった奇跡であり、彼女は人類の救世主でもあったわけである。だが、フィーネはこれをエンキからの拒絶と誤解してしまったことが全ての歯車を狂わせてしまい、彼女は転生を繰り返しながらバラルを破壊することを画策し、エンキの愛はいつしか愛するもの同士を引き裂く「呪詛」として誤った認知が広まっていく。瀕死のエンキにその真意をフィーネに伝えるだけの力が残されていれば、バラルは呪いの象徴となるはずがなかったことを思えば、エンキの人類への想いこそが不和を生み出してしまったという、強烈な皮肉が待ち構えていた。
それだけでなく、シェム・ハがアヌンナキを裏切り地球を掌握した理由も、そもそも群体の生命体では相互理解の不和は避けられないという不完全さ、他の作品の言葉を借りるのなら「A.T.フィールドが他人を傷つける」ことの痛みを取り除くべく、シェム・ハは地球を実験場として個の統合を試みた、というもの。神とも等しき高位存在も、「個」の生命である限り他者との摩擦は避けられず、他者を完全に理解するなど到底程遠かった。人間も神も、バラルによって相互理解が妨げられているのではなく、元より「不和」の存在であるというどうしようもなさに、シェム・ハは耐えられなかった。
人間は元より、神もまた不完全である。だからといって、響たちにとってそれは未来を諦める理由にはならなかった。たとえ交わらぬものであっても手を繋ぐことを何よりも大切にしてきたシンフォギア装者にとって、不和とは取り除くものではなく「乗り越える」ものであると、これまでの闘いが物語ってきたからだ。
今作で響たちが手にした新たな力、アマルガム。錬金術師たちの纏うファウストローブとシンフォギアが融合して生まれたその姿は、サンジェルマンたちと紡いだ力の結晶。攻撃形態と防御形態を切り替えて扱うというロマン溢れる仕様に滾るものがあるが、大事なのは響が成し遂げた「歌」と「錬金術」の融合こそ、彼女が諦めずサンジェルマンたちに手を伸ばし続けたことの何よりの肯定である、ということ。決してその手段が許されるものではなく、目指していたバラルの破壊こそが誤りだったとしても、自ら信ずる正義のため重荷を背負い続けてきたサンジェルマンらを悪として断罪しなかった心が、こうして新たな力を宿した。
あるいは、キャロルとオートスコアラーたちの復活と共闘。自身の身体に眠るキャロルの意思を探し続けていたというエルフナインの努力と、「赦す」ことが亡き父の真意であったことを思い出させるきっかけとなったあの闘いは、巡り巡って今回の番狂わせへと発展した。キャロルはシェム・ハ打倒への筋道を作り、オートスコアラーたちは“マスター”の影をエルフナインに見て、その命を守り切ることで本当の意味で成仏したと言える。
そして、エクスドライブ。バラルが破壊されたことで、フロンティア事変における「奇跡」の再来が、成し遂げられた。装者たちの想いに応え、人類が団結して神に抗い、明日を望む気持ちが奇跡を呼ぶ。ユグドラシルによって世界のカタチが変えられ、全滅の危機に陥っても、人間から希望は潰えなかった。圧倒的な支配に屈するのではなく、「だとしても」の気持ちで這い上がる。人々の想いが強ければ強いほど、装者たちの胸の歌が強く強く応えてくれる。
70億の明日を望む人々の想いが、装者の「わかり合いたい」「繋がりたい」という祈りが込められた拳は、悲しき神と人を分かつ力を得た。神獣鏡の光によってバラルの威光を取り除かれ、しかし人である以上「不和」という強大な敵からは逃げられず、大切な親友である響にほんとうの想いを伝えられない心の隙間にシェム・ハを受け入れてしまった小日向未来。その想いが何であるかは明言されないものの、それを抱えているという事実をシェム・ハから打ち明けられ、響は何を想っただろうか。
第6話におけるカラオケ店でのすれ違い。響がガングニールを宿すきっかけとなったツヴァイウイングのライブに彼女を誘い、自分は家の事情で現場に行かなかったことで被害を免れたものの、それは響の心と身体に大きなダメージを与え、立花家が崩壊する遠因となった。その責任は本来彼女が感じるべきものではないものの、当人はそういうわけにもいかず、響をライブに誘ったことをずっと悔やんでおり、そのことをうっかり響に打ち明けてしまった未来。
響がリハビリに耐え、その後も謂れもない悪意に晒されてきたことを最も近くで見てきた未来にとっても、あの惨劇は重責となったであろう。とはいえ、そのことを響が知れば響が傷つき彼女に新しい十字架を背負わせてしまうことを、想像できない未来ではないはず。だからこそ、未来は自身の失言が許せないものであり、響に仲直りを言い出せるきっかけを見失ってしまった。最高の親友であっても、すれ違ってしまう。神を宿す素質を持ち合わせながら、これほどまでに人間らしく、シェム・ハの絶望の象徴として機能する適材適所は、そうはいないだろう。
響と未来。双方が相手を「陽だまり」という安らぎであるとして、かけがえのない大切であると自覚しながらも、それでも秘めた想いを抱き、全てを打ち明けることなど叶わない。彼女たちほど強い絆であっても、目の前の他者を完璧には理解し得ないということは、シェム・ハにとっては「不完全」を意味するものであったのだろう。邪推すれば、未来の想いとは響との関係性を破壊しかねないもの、少々エゴイスティックな「愛」の形であったのかもしれない。
だとしても。『シンフォギア』とは人間が不完全であることを肯定し、すれ違い相互理解が出来ないとしても「手を繋ぐ」ことそのものを愚直に繰り返してきた物語である。相互理解を阻む「個」という概念を消失させ、全ての意思を統一した完全生命を目指すシェム・ハに対し、群体でありながら「個」を守るために力を結集させ、途方もない「奇跡」を現実のものにする人間の在り方を、響と未来が、シンフォギア装者が、70億の全人類が肯定する。他者の存在が自分を傷つけるとしても「私とあなた」の世界であり続けることを望む。一体何度このシリーズに対してこの言葉を感じたかはわからないが、不和という強大な敵をも受け入れて前に進み続けるという意思による「人間讃歌」の物語は、ついに被造物が創造主の諦観を乗り越えるところまで辿り着いた。
シェム・ハから未来を奪還し、ユグドラシルによる地球改造機構を停止させた装者たち。彼女らがシェム・ハの「手」によって無事帰還を果たしたことは、人と人とが繋がり合う暖かさを証明し、不完全さを乗り越える強さがシェム・ハの絶望を打ち払ったことへの感謝の念がそうさせたと想うのは、解釈が過ぎるだろうか。
こうして人類は、創造主の「支配」からの脱却を果たした。たとえ言語を分かたれても「歌」や「錬金術」によって繋がることを諦めなかった古来から続く人々の祈りが、不完全さを嘆く神の心を癒やし、救ったのである。これから始まるのは、“神様も知らない”未来。分かり合うことを諦めない者たちの、絆を力に変えていく世界の物語。
人間が人間である限り、争いは失くならないし、コミュニケーションの不和は幾度となく自分と他者を傷つけるだろう。それでも、その在り方を真っ直ぐ受け止め、繋がり合うことを願って歌い続けた少女たちが起こしてきた奇跡もまた、人の力によるもの。その暖かな希望は、願わくば私達が生きるこの現実においても同様のものでありますように、と思ってしまう。シリーズ全65話、初志貫徹をやり遂げ、手と手を取り合うことを全身全霊で描き続けてきたスタッフ・キャストの想いが報われることを、その完結までをもようやく見届けたファンの一人として、願わずにはいられないからだ。
『戦姫絶唱シンフォギア』、これにて完結、そして完走。歌いながら闘う少女たちの姿に困惑したことが、たった一ヶ月前とは思えないほどの濃密で満ち足りた日々を過ごさせてもらった。お気に入りのキャラクター、大好きな台詞、耳に残る楽曲……。そのどれもが今の自分の生活を少しだけ前向きにしてくれる、生きる希望であった、というのは決して過言ではなかった。
そして、すでにシンフォギアの劇場作品がアナウンスされていて、今か今かとその新情報を心待ちにする明日が、これから始まる。たとえどんな敵が立ちはだかっても、響たちの目指すところは変わらないだろうし、諦めず手を伸ばすその姿を観るために、私は何度でも劇場に足を運ぶはずだ。そんな未来へと踏み出す私の胸の歌も今、高らかに鳴り響いている。