『カイジ ファイナルゲーム』はカイジを名乗っちゃダメ。
東京オリンピック開催を間近に控え、お正月気分も抜けきらない我々の脳に、東宝から特大級の目覚ましが送り込まれてきた。東京オリンピックを終えた日本は怒涛の不景気に突入。円は信用を失い、消費税は30%へ、缶ビール1本が1,000円に高騰する地獄のような時代が訪れると。低賃金労働に不安定な雇用状況など、現代の日本を取り巻く状況はとにかく厳しい。そんな閉塞感漂う日本に、カイジが帰ってきた。しかしどうだろう、この映画を果たして『賭博黙示録 カイジ』の実写版と認めていいのだろうか。あの福本御大オリジナルストーリーだというのに…。
カイジ、世直しヒーローへ
怠惰で自堕落、高級車への悪戯で憂さ晴らしという絵に描いたようなクズだが、こと勝負事になれば桁外れた度胸と思考速度でどんな劣勢でも覆し、幾度となく勝利してきた男、それが伊藤開司だ。一作目では保証人になった知人の失踪により借金を背負い帝愛主催のギャンブルに参加、見事返済に成功するも、次回作ではまたしても借金を背負い過酷な地下労働を強いられていた。つくづく底辺から抜け出せない負け組の男が主役の映画が、続けて三作も製作されるというのも凄まじい。
だが今回はワケが違う。前述の通り、本作の日本はオリンピック閉幕後の急激な経済難に直面し、経済格差の拡大や物価の高騰、低賃金労働はびこる最悪な国になっていた。カイジもまた、そんな日本で働く派遣社員の一人であり、賃金の7割をピンハネされ、衣食住にも事欠く毎日を送っている。そして、カイジと同じ境遇の人々は大勢いる。その誰もが、過酷な労働条件に不満を抱きつつ、職を失う恐怖から行動に移せない。娯楽映画としてもあまりに切実すぎる描写に、思わずひるんでしまう。己の不始末で借金を背負った者の奮闘を高所から見下ろすことのできた前2作とは異なり、「誰もが負け組」というアプローチは、我が身に刺さる。
そこで本作におけるカイジの役割とは、苦行を強いられている労働者の声を代弁し、弱者を足蹴にし私腹を肥やす腐敗した政治家を打倒し、これ以上私財を国に奪われることを阻止することである。己の生活のために命を張っていた過去作と比べて、驚くべきスケールの肥大化。しかも、派遣労働者を道具のように扱う経営者に対して物言うシーンもあり、カイジは負け犬の象徴から労働者の代表にその立ち位置を変えていた。「帝愛の地下みてぇ」な日本がこれ以上最悪の道を進まないよう、新たなギャンブルへ挑むカイジ。
カイジとこの映画を観る我々庶民の敵とは、国民の金を奪う輩である。ラスボスである高倉という男は、国民の預金の引き出しを封じ私財を奪う「預金封鎖」と「新札発行」によって、日本国の負債1,500兆円を国民財産とで相殺することを目論むエリート。カイジはこの男に勝利し、一部の人間だけが勝ち逃げを果たす国家的強硬手段を封じなければならないのだ。もはやカイジの敵は国家であり、もうゴジラみたいになってきている。
三作目にして「ニッポン対カイジ」へと大きな路線変更を決意した本作。だが、その試みは興味深くもあるが、娯楽映画としての爽快感は大きく減退してしまったことは間違いない。天秤に金塊を積むゲームに負ければ低所得者全体が破滅するという今回の設定では、背負っているものが途方もなく大きいためどれだけカイジが苦境に立たされても「自分ならどうする」という感情移入が出来ず、切迫感が生まれようもないからだ。その上、仮にカイジが勝ったとしても日本の経済悪化が解消するわけでもなく、あくまで「より悪くなることを防ぐ」現状維持しか生まないため、勝利の喜びさえも目減りしている。カイジが勝利してもスカッとしないなんて、もはやそれは『カイジ』ではない。どんなに華々しく勝利したところで、暗黒の未来は少しも良くならないからだ。
つまらないギャンブルシーン
さて、『カイジ』と言えば息もつかせぬような心理戦、多額の金が一瞬で動くギャンブルの緊張と勝利の快感、顔芸込みで相手の裏をかく「ざまぁみろ」なクライマックスだ。今作に用意されたギャンブルは原作者・福本伸行先生が考案した、映画オリジナルのギャンブルだ。原作者監修といえばもうそれだけで喜ぶべきポイントだが、今作に限っては裏目に出てしまった。
本作のメインとなるギャンブルは「最後の審判〜人間秤〜」というもの。総資産が拮抗している二名が全財産を金塊に換え、大型の天秤にそれらを乗せることで重さを競う。さらに対戦者はお互いに支援者を用意することができ、支援者の持ち込んだ資産と、最後は観客が投じたコインが勝敗を決する。手持ちの資産と人望、事前の根回しが勝敗を握るゲームである。
そう、このギャンブルのキモは、ゲームが始まる前の根回しが大部分を占めている。相手の支援者を特定し買収や裏切りを仕向けたり、相手の資産情報を調べより価値のあるものを用意するか、それを持つ支援者を手配すればいい。……これってギャンブルと呼べるのだろうか。
これまでの『カイジ』で描かれてきたギャンブルでは、一見運否天賦に任せるしかないようなルールから必勝法を見つけたり、奇想天外な作戦で相手の必勝法そのものをひっくり返すことが勝利への法則であった。だが、本作で起きているのは買収や根回しといった、いわば「政治」である。一作目で描かれた「Eカード」では、カイジがカードをすり替えたか否かは観客にも伏せられ、作中の利根川同様にハラハラさせられながら、勝負のその時までの緊迫の瞬間を見守っていた。それに対し本作では「実はこういう裏工作をしていました」を交互にやりあうだけで、後出しじゃんけんを大の大人が大仰な演技で繰り返しているだけに過ぎない。「じゃんけん」から始まったギャンブル漫画の映画化なのに、ギャンブルの緊張感を描くどころかじゃんけんもロクにできなくなったとあれば、失望するのも無理はない。
他のギャンブルも総じて酷い。街のどこかに設置された塔のてっぺんに配置された電卓(好きな数字を打ち込めて最大10億くらい貰える)か極秘情報を手に入れることができる「バベルの塔」は、カイジが事前に塔の設置場所を知っているためサスペンスは生まれず、参加者10人の内生き残れるのは1人だけの決死のバンジージャンプこと「ドリームジャンプ」は、正解のロープを探るために停電を起こす必要があるのだが、警備がいないため難なく突破できてしまうご都合仕様。高倉肝いりの「ゴールドジャンケン」もかつての限定ジャンケンの亜種であり、その結末も拍子抜けするもの。総じて、ギャンブルシーンはどれも過去2作を上回っておらず、鑑賞中ハラハラさせられることは一瞬たりとも無かった。おれたちは『カイジ』を観に来たはずなのに…。
まとめ
9年ぶりの新作で、役者陣もカイジならではのテンションで唾飛ばしながら大声張って顔も歪ませながら演じ切っている。何より、藤原竜也のカイジ役はやはり悪魔的にハマっている。それだけである程度の満足度は得られるはず、はずだったのに…。
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