『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』『宇宙戦艦ヤマト2』どっち好き?問題
ヤマト強化月間は最初の一月を終え、『宇宙戦艦ヤマト』『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』『宇宙戦艦ヤマト2199(TV版)』『宇宙戦艦ヤマト2』を観た。我ながら、とんでもない履修速度だ。
ヤマトのヤの字も知らないで始めたマラソンゆえに、『宇宙戦艦ヤマト2』の1話を再生して、かなり動揺してしまった。数日前に観た映画と同じシーン、同じナレーション、同じ敵が目の前に現れたからだ。
あいにく、こちらには参考資料になる書物も頼れる有識者もありはしないので、たまらずWikipediaに助けを求めてみる。するとそこには、とんでもないことが記載されていた。
絶賛公開中の映画が2ヶ月後にTVアニメ化……?「地上波初放送」とかではなく、劇場版ヤマト2とTVアニメ版ヤマト2を同時に制作するラインが動いていないと、こんなスピード感では世に出せないはず。そんなメディアミックス、聞いたことがない。当時のファンはこの「並走」を一体どのように受け止めていたのだろうか。
というわけで今回、二つの「『宇宙戦艦ヤマト』の続編」を観たので、その記録として感想を残しておきたい。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』
『宇宙戦艦ヤマト2』どっち好き?問題
結論から言ってしまえば、『さらば』の方が好きである。
こちらを先に観てしまったため、後に観た『2』が不利、ということもあるのだけれど、『さらば』はかなり前のめりになって観てしまった。劇場用完全新作として制作され、かつ人気作ゆえに4Kリマスターも施されているために作画や映像面は74年のTVシリーズから見違えるほどに美麗で描き込みも深く、ヤマトを超える大きさを誇る巨大都市惑星のビジュアルには、思わず声を漏らしてしまった。これを大スクリーンで観たら、たまらないだろう。
『さらば』は上映時間151分とインド映画並の尺を誇るが、その中身もインドに負けず劣らず内容がぎっしりと詰まっている。新たな敵・白色彗星帝国の脅威を描き、宇宙に起こる異変の予兆に備え命令に背いてヤマトに乗るかつてのクルーたち。“沖田の子どもたち”は土方、斉藤を乗せ、テレザートへ向かう。そこに立ちはだかる、旧敵デスラーとの決着。ついに地球に迫る白色彗星帝国を前に、地球艦隊は為す術なく撃沈。最後に残ったヤマトも奮戦するが、乗組員たちは敵の猛攻に命を散らしていく。もはやここまでか、艦長代理である古代進は、ついに最後の決断を下す。
2時間半飽きさせること無く、地球から目的地へ旅立ちそして帰るまでの物語と、新型旗艦「アンドロメダ」の拡散波動砲の描写が胸躍る宇宙戦のスペクタクル、倒したと思いきや新たな姿でヤマトの前に立ち塞がり、絶望的な強さと破壊力で数多の命を奪っていく白色彗星帝国のインパクトなど、これでもかと見せ場を詰め込んだ『さらば』の密度には、圧倒されっぱなしであった。公開は1978年、ここまでエンタメ性に満ちた劇場アニメに遭遇したら、一生『ヤマト』にとらわれてしまってもおかしくない。
壮絶にも程があるクライマックス、「特攻」を選んだ古代や、彼に語りかける沖田艦長の霊?の言葉などに、言いたいことがないわけではない。“必ずここへ 帰って来る”物語であったはずの『ヤマト』において、命を武器として扱うことの是非や、最初のTVシリーズにおいて「大和」の魂を受け継いだ船が同じ末路を辿ることなく、帰りを待つ人の元に戻ることでかつての大戦の苦い記憶を乗り越えるという決着を振り返れば、『さらば』は再びその記憶に絡め取られた作品とも言える。
一方で、本作における特攻の決断は、白色彗星→要塞都市帝国→超巨大戦艦と二度もその姿を変え迫ってくる白色彗星帝国に対して、死力を尽くした上でのものであり、その圧倒的すぎる強さに対する最後の抵抗として命を賭した手段に出るというのは、映画を観ていれば素直に納得できる。ギリギリまで頑張って、ギリギリまで踏ん張って、しかしウルトラマンなどいやしない世界なら、こうするしかなかった。
その、決死の攻撃を見守るようにして、「さらば地球よ 旅立つ船は 宇宙戦艦ヤマト」と、おなじみの名曲が悲壮さをまといながら響く。この演出を観て、泣かずにいられようか。ヤマトは、地球を護るべくその生命を捧げた。死を美化するのはいただけないかもしれないが、これはこの国に生まれた者の性なのか、どうしたってこのモチーフには心を震わされてしまうのだ。
「『宇宙戦艦ヤマト』の続編」としては、変わったもの、テーマとして背く部分も、確かにある。だが、一本の映画としては見どころが過積載すぎる内容と、ラストにこれでもかと自己犠牲の尊さを描く潔さに、当次世代でもない平成生まれがまんまと泣かされてしまった。
『宇宙戦艦ヤマト2』にしかない栄養素
では、『さらば』と『2』の違いとは何か。大小さまざま挙げられるが、最大の違いはやはり、「特攻しなかった」結末にあるだろう。
『さらば』と『2』の選んだ道筋の相違については、Wikipediaをソースとするわけにはいかないので真に受けないよう気をつけるが、主に二人の作り手の間の考えの相違が反映されたものらしい。散り際の美学と、“必ずここへ 帰って来る”の徹底の対立。この辺りは、関連書籍を読んで知識を蓄えておきたいところ。
その他にも、151分に収めなければいけない『さらば』とは異なり、2クールもの時間を有する『2』にしかないディテールが、面白い。
一作目の宿敵たるデスラー、ひいてはガミラスは、地球を放射能で汚染する「悪魔」として描かれていた。しかし終盤、彼らは自らの星が滅びゆく運命を知り、新天地を求めたが故の侵略行為に手を染めたことを、古代たちは知る。それを踏まえ、「我々はしなければならなかったのは、戦うことじゃない、愛し合うことだった」と悲痛な叫びを漏らすのだった。
ところが、今作で相手取る白色彗星帝国「ガトランチス」は、進路上の星々を破壊あるいは侵略することを目的として、彗星の姿で宇宙を航行する者たちの住まう戦闘種族である。彼らはガミラスのように生存のためのやむを得ない事情などはなく、武力による制圧そのものが目的の、闘うことしか眼中にない者たちだ。そんな彼らに、「愛」を問うても説得は不可能だろう。『さらば』『2』は前作の学びや思想を凌駕する強大で純粋な「悪」を前にして、ヤマトはどう立ち向かうか、を課題に選んだ。
その答えとして、『さらば』は「命」を力に変えたが、『2』は再び「愛」を前作から続いて貫き、意外なことにそれは島大介とテレサが受け持つことになった。テレザートから通信メッセージを送るテレサと、その声に惹かれる島。顔もお互いのことも知らぬまま、短い通信のやり取りのみでここまで気持ちが通じ合うものか、と思わなくもないが、滅びゆく運命を受け入れつつ愛する人のために身も心も捧げんとするテレサは、スターシャの影が重なる。『さらば』では霊魂や概念のような(実際には「反物質」)描かれ方だったが、『2』ではドレスを着た美しい女性だったので、島くんもドキドキが止まらなかった模様。
ヤマトではなくテレサが「特攻」することで島や、その他のヤマトの乗組員の命を繋ぐ結末を選んだ『2』。白色彗星帝国の大帝ズォーダーがちょっと過剰なくらいテレサを恐れていたのだが、彼女の祈りによってテレザートを滅ぼしてしまうほどの強大な力が、個人の「愛」なる感情を経由して自分に向けられるとは、想像もしえなかったからかもしれない。他者を滅ぼし、蹂躙することしか知らなかった暴君は、たった一組の星を超えた想いによって、敗北するのである。
未来《2202》へ―。
『さらば』と『2』を観るというのは、結末がまったく異なる意味でアドベンチャーゲームのルート分岐を埋めたという印象で、『さらば』はその言葉通りシリーズを閉じる別れを描き、『2』は再建に向けた希望を滲ませる。事実、『2』からさらに続いて『ヤマト』シリーズはその後も続き、毀誉褒貶激しいものの根強い人気と後のクリエイターに多大な影響を与えているのは、『2199』のその先のリメイクシリーズが証明している。
というわけで、次の進路は『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』へ。さながら、かつての名作ゲームがリメイクされた時に追加される新ルートをやっていく、そんな気分だ。その結末は果たして、死者続出か、希望を見出すか。今から楽しみでならない。