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キミはゲームの最初の戦闘で泣いたことがあるか?『ワンダと巨像』の思い出

 初めてそのゲームに触れたのは、確か大学生の頃。当時現役だったPS3専用ソフトとしてHDリマスター版が発売され、『ICO』とのバンドルセットを購入したのがきっかけだった。

 その頃すでに『ワンダ』はPS2の名作ソフトとしての評価が定着しており、必ずプレイすべき作品として何度もその名前を見かけてはいた。幻想的な世界に佇む、一体の巨人のアートワーク。その絵に惹かれずっと気になっていた作品が、手持ちのハードで遊べると知ったときは、すぐさまに購入を決めた。だからこそリマスター版の発売には感謝しているし、PS4ソフトとしてフルリメイクされたバージョンは友人への誕生日プレゼントとして押し付けた。自分のゲーム史を振り返る上で欠かせないし、プレイした人全員にとってもそうであってほしい、大切な一作だ。

 『ワンダと巨像』は、魂を失った少女をよみがえらせるために、青年ワンダが世界に16体存在する【巨像】と戦うというゲーム。本作は巨像との戦いに特化した内容で、ザコ敵を倒して経験値やお金を稼いだり、立ち寄った村の人々から依頼を受ける、といった既存のRPGの当たり前を極力排しており、いわば「ボス戦だけを繰り返すアクションゲーム」になっている。こうして文字に起こすと非常にあっけないというか、自由度とやりこみ度が評価に直結する最近のオープンワールドゲームとはまるで別の発想で創られていることがわかる。ただし、描かれるものや遊び甲斐は豊潤であり、他のゲームにはない唯一無二の感慨が得られる、ということを未プレイの方にもどうか知ってほしい。

 ゲームが始まると、主人公ワンダは神殿を抜け荒涼とした大地に出る。「巨像を倒す」という目的しか与えられていないプレイヤーは、愛馬アグロと共に慣れない操作に苦戦しながら広大なマップを走り回る。巨像の居場所は、剣を空に掲げると現れる光が示してくれる。それに従い歩を進めると、次は崖が前に立ちはだかる。このゲームのステータスは体力と腕力の二種類のみで、スタミナに相当する腕力は「崖を登る力」とイコールである。そのため、スタミナが切れないよう登りやすい高さの崖を探しては、なんとかして登りきる。極力シンプルに設定されたシステムを自然と会得できる序盤の流れだけでも、「冒険」の醍醐味が味わえて楽しい。

 そうして世界を旅する楽しさに目覚めたころに、ついに最初の巨像と出会うのだ。遠目から見てもその巨大さに圧倒されてしまう、人型二足歩行の巨像。こんなヤツにどう立ち向かえばいいのか、答えを求めて巨像に近づいた瞬間、ヤツもこちらの存在に気づきゆっくりと動き始める。命をかけた死闘が始まったその瞬間、自然音だけで彩られていた世界におどろおどろしい「警告音」が響き渡る。

 本作『ワンダと巨像』の音楽を手掛けたのは、平成ガメラシリーズや通称『GMK』の大谷幸氏。名作怪獣映画の劇伴を手掛けた巨匠の音楽は、巨像の巨大感、それに立ち向かうことの無謀さを表現する、大事なピースになっている。そしてその音楽に、当時の私は震えが止まらなくなるほどに泣かされていた。まだ序盤も序盤、ゲームを始めて最初の戦闘の時点で、これまでのゲームライフでも経験したことのない感動に慄き、涙を流していた。

 その涙の理由は、今思い返せば「怪獣映画に出会えたことへの喜び」だったのだと思う。当時の2011年は『パシフィック・リム』や『GODZILLA』が切り開いた現代の怪獣ブームなんて夢物語の、怪獣映画冬の時代真っただ中だった。ゴジラやガメラの新作は途絶え、ウルトラマンも予算が潤沢と言えず創意工夫で凌いでいた時代で、怪獣が都市を破壊するカタルシスやそれに立ち向かい人類のドラマに胸を熱くするといった感覚とは距離が遠い日々を過ごしていた。

 そうした2004年以降続く冬の時代の、積もり積もった雪を一気に溶かしてくれたのが、この『ワンダと巨像』最初の巨像との出会いだった。平成ガメラの劇伴を思わせる「異形の者達〜巨像との戦い〜」の旋律は、巨像がこちらに迫ってくる恐怖を倍増させ、同時にコミュニケーションの不可能性を煽ってくる。自身の何倍もの巨躯を誇り、慈悲無く武器をふるいこちらを薙ぎ払う。そんな巨像の強さ恐ろしさに圧倒され、あっという間にワンダの命が尽きたことを覚えている。でも、その時の感情は悔しさや怒りではなく「興奮」だったことも鮮明に思い出せる。

 それからはトライ&エラーの連続である。ワンダは剣と弓が初期装備だが、巨像それぞれが持つ「弱点」に攻撃を加えない限り倒すことはできない。本作は巨像を注意深く観察して弱点を見つけ、そこにどうやってたどり着くかが問われる、パズル要素の強いアクションゲームだ。最初の巨像の弱点は頭頂部。先ほど崖を登ったのと同じ要領で、そこまで登り詰めれば巨像を倒せる…そこまではわかるのだが、頭頂部にたどり着くまでに腕力ゲージは尽きるし、巨像もこちらを振り払わんと暴れまわる。やがてスタミナが尽きたワンダは高所から落下したり、巨像の足に踏みつぶされて冒険を終える。それを何度も何度も繰り返しながら、初めてパズルを解いたのは遭遇から40分後、巨像の足を刺し転倒させることで、ようやく活路が見え始める。

 それに呼応するかのように、劇伴も切迫感を帯びていく。この時流れる「開かれる道〜巨像との戦い〜」は、自らのプレイが「正解」であることをプレイヤーに知らせ、巨像に立ち向かうワンダを鼓舞する役割を果たしている。これを詳しい人は「ゲームデザイン」と言うのだろうが、無謀にも思えた巨像との戦いの、絶望から希望への転調をBGMが表している本作の仕掛けに、またしても涙腺を刺激されてしまう。この瞬間から、もうすっかり『ワンダと巨像』の虜になってしまっていた。

 ついに巨像の頭頂部に登り詰め、手に握った剣で弱点を貫く。弓矢では微動だにしなかった体力ゲージが大きく削れたことに驚き、つかまり操作にあたるR1ボタンを壊れんばかりに強く強く押し込んでいる自分に気づく。あの時自分は間違いなくワンダと同調していて、人生を見渡してもこんなにゲームに心奪われたことはなかった。そしてついに最後の一撃を見舞ったとき、ゲームは「動」から「静」へと急転換する。ゆっくりと静止し倒れる巨像と、謎の黒いもやに包まれるワンダ。勝利を高らかに宣言するのではなく、不穏さが付きまとう勝利後の余韻は、大きなしこりを残していった。

 空を飛ぶトンボのような巨像、あるいは獣のように俊敏な巨像。多種多様な巨像は動きも弱点への到達方法もそれぞれ異なり、ワンダを動かすプレイヤーである私はそのたびに頭を悩ませ、解法が思いつくまで何度も何度もワンダを犠牲にした。その試行錯誤の果てに巨像をついに打ち倒し、またしても不穏なムービーを見せられる。その謎の答えを知りたくて、アグロと共に世界を駆け巡った。その道中の風景に心奪われたり、巨像との戦いに睡眠時間を削られまくったのも、大切な思い出だ。

 そして最後の巨像に立ち向かい、あと一撃加えればクリア、という局面で感じたのは「切なさ」だった。この巨像を倒せばすべてが終わる。果たして少女は甦るのか、ワンダは救われるのか。いや、こんなに楽しく心揺さぶられたゲームをクリアしてしまっていいのだろうかと、これまでにない葛藤が一瞬芽生え、悩んだ末に巨像に引導を渡した。クリアすることをためらったのもこのゲームは初めてだ。リセットすれば最初から遊べるということは頭でわかっていたが、多分そういうことではなかったのだと思う。これは今でも言語化できない、不思議な気持ちだった。

 ゲームをクリアした後のことについては読者各位の思い出に委ねるとして、『ワンダと巨像』は私にとって初めてだらけのゲーム体験であった。感動して泣くというよりは「生理的に泣かされる」に近く、作品のあらゆる要素が琴線に触れまくり、感情を揺さぶられ続けていた。兎にも角にも、最初の戦闘で泣いてしまう、という体験はこれ以降出会えていないし、だからこそ『ワンダと巨像』はかけがえのない作品としてオールタイムベスト入りしているのだろう。その時の感動を追体験したくて、サントラを聴きながらあの巨像たちとの戦いの日々を思い出す日々を送っている。

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