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“日本初の本格SFアニメ”よ、さらば。『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』
ついにここまで来た、という感慨がある。1974年のTVアニメから始まった『宇宙戦艦ヤマト』旧シリーズの(映像としては)現状最新作にして、未完の新章の第一章たる『復活篇』を観た。初公開が2009年ということで、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』と同級生である。その数奇な巡り合わせに、当時は気づくことすらなかった。碇シンジくんがエヴァ初号機を自ら覚醒に導いたことに、ただただむせび泣いていたからだ。
この『復活篇』の公開に至る秘話については、以下の著書が詳しい。西﨑義展氏の不祥事による服役、松本零士氏との裁判、西﨑彰司氏の奮闘……等々、完成までの波乱万丈ぶりや逸話の数々は仰天という他ないのだけれど、少なくとも西﨑氏の復権を賭けた渾身の一作が完成し、上映にまでこぎつけた事実だけは、敬服の二文字を掲げるに異存はない。
しかしこの『復活篇』、というか直近に鑑賞した『ヤマト』シリーズ全てにこの言葉を返している自分の語彙の貧困さに呆れるばかりだが、今回も「悩ましい」という気持ちで満たされている。劇場公開版とディレクターズカット版で、体感二倍の悩ましさだ。
『完結編』にて惑星アクエリアスの接近からヤマトが地球を守って17年。今度は移動するブラックホールが見つかり、地球を丸ごと飲み込むことが明らかとなった。猶予は三ヶ月。真田は貨物船の船長として宇宙を飛んでいた古代を呼び戻し、アクエリアス内で修復と強化を重ねた新生・宇宙戦艦ヤマトの艦長に任命する。
若い世代と共に再び航海に挑むヤマト。その目的地は、地球人類の移民先である惑星アマール。ところがヤマトの前に、移民船団を攻撃した大ウルップ星間国家連合の中心国家・SUSが立ちはだかる。アマールもまた星間国家連合に所属しており、SUSの不当な虐殺行為に国民も疲弊していた。ヤマトの闘いに感化されたアマールはSUSと闘うことを決意し、ヤマト・アマール連合艦隊がSUSを強襲。強化されたトランジッション波動砲により、活路を見出す。
ところが、SUSの代表であるメッツラーは突如異形の姿へと変貌、自身が別世界からやって来た異種異根の生命体であると語り、去ってゆく。実質的にSUSに勝利したヤマトだったが、これは新たなる始まりに過ぎない。ブラックホールを退けることもままならず、地球を救うことが出来なかった人間のちっぽけさを嘆く古代。アマールへの移民は、地球人類に与えられた最後のやり直しのチャンスであることを悟る。
(以下、劇場公開版とディレクターズカット版にて結末が異なる)
「日本初の本格SFアニメ」にして、劇場アニメの常識を変えた『ヤマト』の、2000年代の航海。CGを用いた艦隊戦などの描写は、数年先の『2199』と比べるのも酷だが、まだまだ厳しい。ヤマトのボディに傷や砲撃を受けた痕がなく、悲壮さが漂ってこない。艦内警告のフォントも、こだわりを感じさせないし緊張感も演出できていない。ヤマトって、こんなにダサかっただろうか。
松本零士氏が関わっていない以上、キャラクターデザインの変更についても、飲み込まねばならない。とはいえ、地球の復興度合いを異常な速度にしないと(リメイク版では「時間断層」という設定を生やしてまで帳尻を合わせている)辻褄が合わないほどに彼らに歳を取らせることを避けてきた過去作の流れと決別して、中年の古代や真田を描く決心をしたことは興味深い。
先日、「老い」をテーマとした映画の感想を書いたばかりのため引っ張られてしまった印象も否めないのだが、『復活篇』に通底するのは「老い」ではないだろうか。古代進は“船長”として宇宙を飛び続けてはいるものの、その心中は「ヤマト」に囚われているという設定だ。『完結編』において青春とまで表現されたヤマトとの日々に、古代自身が後ろ髪を引かれている。そのせいか、妻の雪とは別居状態で、娘の美雪は心を開いてはくれない。
あんなに血の気の多かった古代青年が、38歳になってアイデンティティ・クライシスに揺らいでいる。それはしかし、重ねてきた年数を考えれば当然であり、初期からヤマトを追っていたクルーの高齢化を重ねた意図は読める。だからこそ、ヤマト艦長として復権した後の活き活きとした古代は、青春を取り戻した喜びであり、服役生活を抜けた西﨑氏の復活の狼煙が表現されているのだろうと、そう理解した。年相応の落ち着きと、若者を導く無駄のない手腕は、『III』や『完結編』の冒頭とは見違えるようで、管理職にこなれてきた彼に自分を投影するだけの人生を歩んできたのだと、そうクルーは劇場で感じたのではないだろうか。
そんな本作をどう語るべきかと頭を悩ませている理由の一つに、冒頭に大きく掲げられた「原案 石原慎太郎」が挙げられる。かの大物の参加が宣言になっているのだが、本作における敵対構図をどう観るか、で観客はリテラシーを試されてしまう。連合軍の中の強大な軍事力を誇る国家と、虐げられている肌の色の異なる国。“大和”の名を背負う地球側が、その強大な力に反抗し、属国もそれに続く。SUSをどの国に見立てるべきか、は『III』の冷戦構図を持ち込んだ際よりもセンシティブである。
現実の日本の立場を引用した本作だが、その構図ありきで作っているためか、脇の甘い作劇が目立つ。まさか地球連邦は、移住先の惑星の下調べをしていないのだろうか。アマールとSUSの関係を知っていれば、先だっての移住船団が攻撃を受けることも防げたはずである。ヤマト=地球人類の移住を知ってSUSがアマールに不当な攻撃を仕掛ける、という段取りでなければ(それも不自然だろうが)、地球側のロケハン不足が露呈するだけであろう。
そうした細部の省略の上に、軍規の「ぐ」の字も知らない新参キャラクターたちが、こちらの集中を削いでくる。宇宙戦士訓練学校を出ているであろうに古代の事を知らずタメ口を効いてくるエースパイロット、艦医が職務放棄してパイロットとして出撃するなど、統率が取れているとは決して言い難い。機関室の双子キャラは、何の意味があったのだ?アナライザーがコメディリリーフを一手に引き受けてくれていた頼もしさを、今になって気付かされた。
これらの指摘を、重箱の隅をつつく、なとと言われたら、たまったものではない。ヤマトとは、各セクションが有機的に働き、各々が各自の仕事を実直にこなすことで、初めて発進できるのだ。出来ないながらも必死に食らいついてきた『新たなる旅立ち』『III』の新兵たちの方が、まだ誠実であった。『復活篇』の彼らには、その可愛げも、真面目さもない。
故に本作は、一作目から守られてきた、そして庵野秀明氏が惹かれた「段取り」の美学を、本作は切り捨てている。波動砲のシークエンスは従来通りなのに、盛り上がりや高揚感が据え置きでないのは、古代と大村副艦長、徳川太助を除けば彼らが軍人として、全ての地球人類の希望を託すべき人間として相応しいと感じられないからだ。相原だって、戦闘中に女性にうつつを抜かすようなことはしなかった。ドッグファイト中に女に軽口を叩く奴が、ヤマトに乗ってんじゃないよ。
「SF設定」を据えて作品づくりに向かっていた『ヤマト』の系譜とは思い難い、骨組みの弱い本作。伝家の宝刀「特攻」も作中で二度も、かつ新規のキャラクターである故に観客の心を揺さぶるには弱く(特攻の過度な美化をしなかった、とも取れるが)、どんどん尻すぼみになっていくストーリー。国家連合の中心であったはずのSUSを上の命令を待たずに攻撃したヤマトに待っているのは、国際問題であろう。
その上さらに、メッツラーが別世界の存在であるという、開いた口が塞がらない展開が待っているのである。そのデザインの面白く無さもさることながら、重大なのは彼のような異世界存在を招いたことで、本作はシリーズのリアリティを徹底的に破壊したことである。
あくまでも、これまで相対してきたのは「国家」であり、そこに住まう「人」であった。移住先を求めてのフォーミングなり武力侵略を望むものなり、何にせよヤマトが闘ってきたのは文化圏や思想の異なる人種で、艦隊を向け合って闘う生命体であった。それが今回は、人に化けた異形の化け物である。メッツラーはヤマトの艦内モニターから飛び出して古代らに語りかけるような仕草を見せるだが、ではこれまでの闘いは何だったのだろうか。一方的に敵艦に侵入できるのなら、砲撃戦などやらずとも簡単に敵を制圧できたであろう。
メッツラー(これが個人名か種族名かすらもわからない)は超越的な能力を披露する一方で、その目的は地球の資源を奪うためであり、その資源を自分たちの次元へ転送する役割をかのブラックホールが担っているのだが、彼が人の姿で星間連合を率いていた理由の説明にはなっていない。となれば、彼は血の通ったキャラクターではなく、ただの障害物でしかない。デスラーやズォーダーのようなドラマが生じるはずもない化け物を倒して、ヤマトの乗組員と観客に何の感慨があろうか。古代が最後に地球を救えなかった無念を語るのは、メッツラーが「虚無」であることの、何よりの証である。
結末については、ご存知の通り劇場公開版とディレクターズカット版で異なっている。劇場公開版は、メッツラーが自分の目的を語ったせいで、ブラックホールが人工物であると古代に看過され、波動砲でそれを破壊されるという、擁護し難い結末を迎える。それを思えば、(SEの旧作準拠やクラシック音楽の削除、無意味な森雪のヌード削除やその他追加シーンの補強など全てにおいて)ディレクターズカット版が勝る。
古代の苦悩の通り、地球はブラックホールに飲み込まれ、ヤマト乗組員や移住船団の人々がそれを見守り、終わる。地球を幾度となく救ってきたヤマトの、精神的な敗北。裏を返せば、ヤマトはこれからも生き残った人々の希望であり続けるという転換と、壮大なナレーションが語る通り、これもまた宇宙という広大な世界においては些事でしかない、というスケールが心を満たす。最後に残された「愛」のために、雪の生存を信じる古代と美雪の想いが通じ合って幕を閉じる方が、圧倒的に『ヤマト』らしいではないか。
西﨑氏渾身の船出となった本作。しかし、彼自身の事故死によって夢は断たれ、「第一部」のテロップが悲しい。上掲した書籍には、『復活篇』公開初日の劇場の様子を見て回り、その場でディレクターズカット版の考案を練る西﨑氏のバイタリティ溢れる逸話が記されており、悲劇の事故さえなければ挽回のチャンスもあったと思うと、惜しいなという気持ちがある。
しかし、「挽回」という言葉を使ったことが証拠であるように、私と『復活篇』の心の距離は埋まることはないだろう。青春はやはり、一度終わったのだ。墓を掘り返して、有終の美を飾った過去に付け足した蛇足を愛せるほど、私はまだ大人にはなれなかった。
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