剥き出しの感情がしんどい。好き。『劇場版 Fate/stay night Heaven's Feel I. presage flower』
ようやくここまで辿り着いた。『Fate』というタイトルに興味を持った最初のきっかけが、この映画の予告編を劇場で観た瞬間だったんですよね。
音楽:梶浦由記、主題歌:Aimerという鉄壁の布陣。切なくも美しい旋律と共に流れる映像に、劇場でノックアウトされたのが、全ての始まりでした。
そうしてFate沼に片足突っ込んで、なぜか『EXTRA』に浮気しながらも、最後のstay night に辿り着きました。長かった。そしてこれが壮大な三部作の序章でしかないことに、ワクワクが治まりません。
筆者のFate歴は以下ご参照ください
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2004年に発売され、その後の『Fate』シリーズの原典となったPCゲーム『Fate/stay night』。作中の3つのルートの内、最後に残された「Heaven's Feel」が三部作での劇場用アニメとして映像化され、本作はその第1章。歴史上の英霊を使役し、獲得者の願いを叶える「聖杯」を巡り争う基本設定はそのままに、本劇場版では間桐桜を主軸とした物語が展開されていく。
間桐桜。桜ちゃん。どこまでも献身的で健気な、可愛らしい後輩で、誰よりも凄惨な過去を背負っている桜ちゃん。魔術師の家系に生まれ、御三家の政治的配慮によって親元から引き離され、間桐流のおぞましいにも程がある調教を受けるという、過酷な幼少期を送っていたことが『Zero』で明かされました。そんな彼女がなぜ笑顔を取り戻すことが出来たのかが、冒頭で語られていきます。
※もうすでにお気づきかもしれませんが、本テキストでは「桜ちゃん」呼びでいきます。そういう回です。
お掃除もお料理も、家事全般を完璧にこなす通い妻的イメージの強かった彼女の、意外な過去。ケガをきっかけに部活を辞めた士郎の家に通い、士郎から家事を教わりながら、日々を重ねていく。その瞳に生気が宿り、笑顔が増えていく桜と士郎の、穏やかな日常を描く冒頭。そして突然訪れる、不吉な予感。聖杯戦争の開始と共に、二人の日常も崩れてゆく。
これまでのルートと同じく、冬木市を襲った5年前の大火災が、前回の聖杯戦争が原因であることを知った士郎は、聖杯戦争にマスターとして参戦することを決意。切嗣から受け継いだ「正義の味方」という理想のため、戦うことを選びます。
一方の桜ちゃんは、帰りが遅く、しかもケガをして戻ってくる士郎のことが、心配でたまらない様子。「先輩の家でないとご飯が美味しくいただけない」とまで語った彼女にとって、士郎との生活がいかに大きなものだったのか。その心中を吐き出すことも出来ず、仄暗いものを溜めこんでいくその姿が、後半登場する“影”との関連性を伺わせます。
そもそも、士郎の目指す「正義の味方」とは、一人の犠牲を出さず、見捨てず、全てを救う全能者を意味しているわけですが、桜ちゃんにとっては自分を絶望から救い上げた、かけがえのないヒーローなんですよね。そのことに、士郎本人が気づいていない。そのすれ違いにこそ、歪みの根源が詰まっているような気がしています。
※「みんなの救世主ではなく、私だけのヒーローでいてほしい」という剥き出しのエゴを第2章以降で見せてくれたら秒で5億点です。
そんな士郎の鈍感主人公属性のもう一人の犠牲者が、他ならぬ間桐慎二でして。どこまでも卑怯で小物、クズが服着て歩いているようなこの男について、まさかここまで狂おしい感情にさせられるなんて。
鑑賞後に拝読させていただいたこちらの記事が詳しいのですが、(原作未プレイ勢の私にとって)これまでのアニメ版とは異なる感情表現で描かれた慎二に、目が離せなくなりました。士郎の弓道を見つめる目も、部活を辞める士郎にかけた言葉のニュアンスも、部室の掃除を押し付けるシチュエーションも、何もかもがこれまで違っていて、慎二から士郎に向けられた感情のベクトルが未知のものになっていました。兄妹揃って、感情表現が不器用なんですよ間桐って。刺さるぞコレは…。
後半、桜が兄を評して曰く、「苦手な人が好き」なんだと。そんな桜ももちろん、士郎のことを慕っていて、血のつながりがなくとも根底の部分で似たもの同士な二人。そんな二人が、どんなに渇望しても手に入らないもの=衛宮士郎の心を求めて、屈折していく…。なんてこった、『Heaven's Feel』は感情映画だ。「エモい」という言葉の真意を、この映画で学べたような気がする。すごい。しんどい。つらい。
この商品のデザイン考えた人、たぶん同じ性癖だと思う。
そうした歪みを束ねるように聖杯戦争が進行。過去作で強敵だったアサシン、キャスターが早々に敗れ、真アサシンなるサーヴァントと謎の黒い影が場をかき乱す異常事態に。そして囚われたセイバーは浸食され黒セイバー爆誕。聖杯戦争を戦い抜く術を失った士郎は意気消沈なわけですが、その帰りを優しく迎えるのは、日常の象徴である桜ちゃんなんですよね。
(真冬にその靴はちょっとあざとすぎない??)とは思ったものの、崩れゆく日常をなんとか繋ぎとめようとする、不憫さと切なさ。拭い去れぬ不穏さを保ちながら、第1章は終幕。Aimerによる主題歌『花の唄』がこれまた感情映画たる本作に相応しい、間桐桜そのものを謳い上げたような歌詞が心に沁み込んでくる。作詞・作曲:梶浦由記センセイによる、エモの暴力。ありがとうございます。
(19/4/6追記)これは自分の読みが浅薄すぎたという他ないのですが、「(真冬にその靴はちょっとあざとすぎない??)」という感想は筋違いでしたね。彼女は身体的な寒さよりも、士郎が帰らないことの方がもっと辛いし、そのために身体が凍傷するかも、というところまで考えが及ばないほどに、痛みに慣れすぎている。そこにあざとさや健気さを演出しようなどという器用さを、おそらくこの人は持ちわせていないだろうし、そんな余裕さえなかったでしょう。これを心理学で言うところの「乖離」であると指摘したこちらの解説がとにかく秀逸ですので、ぜひ読んでみてください。
三部作の第1章ということで宙吊りな状態で終わるわけですが、波のように押し寄せるキャラクターたちの入り交ざった感情に行き先に、すでにお腹いっぱいです。あと2本、どうなるんでしょうか。推しのランサーが脱落してしまった今、どこに救いを求めればいいのでしょうか。原作未プレイ、Fate初心者には刺激が強すぎる、しんどい劇場版でした。
第2章からはしっかり劇場で観ます。
(19/1/14追記:劇場で観ました)
(19/4/6追記)
豪華版パンフレットのドラマCDを聴いた話
公開当時劇場で販売されていた劇場パンフレット豪華版の特典ドラマCDを聴きました。通常版より2,000円割高ですが、18分半のドラマCD代と考えたら妥当…なのでしょうか。
タイトルは「First Interlude」。聖杯戦争が始まる前の、士郎と桜、藤ねぇの日常の一コマ。桜が手伝いに来るようになってから、家事をどう教えるかを悩む士郎。そんな折、地域のお祭りの季節がやってくる。毎年飾り付けの手伝いをしていた士郎だが、今年は腕の怪我で参加できない。そんな時、桜が手伝いに名乗りを挙げる。
本編よりかなり前の物語なのか、まだ味噌汁の作り方さえ知らない桜ちゃんがとても新鮮で、藤ねぇが言うところの「箱入り娘」という言葉が痛く沁みる。魔術師として造られていく幼い彼女にとって、家事なんてする必要はない。だからこそ、料理を作って誰かと食べるという「普通」にどれだけの価値があるかを、改めて意識してしまう。
祭りに行ったことがないし、浴衣を着たことさえないだろう。そんな彼女がそれらに興味を示すのも、そこに「士郎」がいるからなんですよね。自分で出来る出来ないを問わず、士郎の手伝いとあれば何でも抱え込んでしまう危うさと、その裏にある一途さや健気さ。こういうやり取りで初めて、日常を慈しむという気持ちが桜ちゃんに芽生えたのだとしたら、やはり士郎の功績は大きい。これも「大切な人からもらった大事な物」なんだと思います。