主よ、劇場で『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』が観られることの喜びよ
仮にこれが新作映画の相次ぐ公開延期のための穴埋めとして実現したのだとすれば、憎きコロナウイルスにも感謝する羽目になってしまう。それくらい念願だったのだ、劇場で『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』を観る、ということが。
14歳でエヴァンゲリオンと出会い、それから間もなく『新劇場版:序』が公開され、メディアミックスや主要スタッフの関連作品も追い、シリーズ完結となる『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開される今年ちょうど28歳。気づけば、人生の半分を庵野秀明に握られていた。しかも、自分の趣味の主戦場には必ず庵野秀明の名前があった。エヴァ、ゴジラ、ウルトラマン……オタクとしての生殺与奪の権を完全に握られており、冨岡義勇さんにも怒られてしまいそうだ。
なにも初見というわけじゃあない。旧劇場版はTVシリーズと併せて繰り返し観たし、自分なりの解釈だって語れば二時間は固い。DVDも持っているしNetflixで配信されているためその気になればいつだって観られる。おまけに外は記録的な大雪で寒さは厳しく、公開劇場までは電車賃もかかる。そして何より、stay home が叫ばれる今、劇場に行くのもリスクが伴う。
この通り、行かない理由はこれだけ並べられる。それでも、「劇場で観ることに価値があるのでは」という映画ファンならではの“体験”を重んじる志向が打ち勝ち、劇場へ向かった。結果として、一生モノの思い出になったと打ち震えている。何度も観て理解していたつもりの『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』というフィルム、徹底的に観客を突き放して幕を閉じるこの作品は映画館でこそ完成するのだと、14年経ってようやく気付いたからだ。
TVシリーズ1~24話を再編集した総集編『DEATH(TRUE)²』。元の素材の関係か解像度も甘く、フィルムのキズやゴミも大スクリーンだと目立ってしまう。なのに、目が離せなくなってしまう圧倒的な情報量と心地いいカットの連続。時系列は激しく前後するし各キャラクターの情緒は観客が補完しなければならず脳には優しくないものの、このトリップしていく感じこそ、エヴァ観てるな~という気にさせてくれる。
映画は、シンジ・アスカ・レイにフォーカスを当てながらも周辺人物の行動や心情を描いていき、第弐拾四話「最後のシ者」へと向かっていく。この流れ、改めて今回気づいたのだが碇シンジの地獄めぐりとして編集が残酷すぎるのだ。アスカの自信喪失や二番目のレイの死で絶望を募らせながら、カヲルとの出会いの直前にわざわざ時系列を戻し四号機とダミープラグの一件や、シンジが加地の死をアスカに伝えたであろうシーンを挟むことで、「誰かに助けを求めながらも他者を追い詰めてしまう」碇シンジという人間の不器用すぎる一面がクローズアップされ、そのまま『Air/まごころを、君に』の弱り切ったシンジの姿に直結していく。エヴァに乗りたくない、何もしたくないとデストルドーを撒き散らしていく14歳の少年の疲弊した精神に、思わず取り込まれそうになる。
それでも、パッヘルベルのカノンの旋律が幾分かの癒しを与えてくれるエンドロールの後、INTERMISSONへ。DVDにも収録されていて自宅では飛ばしがちなこの4分間、劇場では場内に明かりが灯り、トイレに立つ観客も大勢いた。ここでようやく、これが97年当時の空気なんだ!と肌で実感するに至る。ただ映画を観るだけでなく、当時の体験そのものを再現する。粋な計らいに思わず感動する非リアルタイム世代。劇場を見渡すと、当時を知る世代から若人まで、幅広い年齢層が男女問わず座席を埋め尽くしている。そうか、おれは今日この人たちと、あの「キモチワルイ」を共有するんだ。
もう一つの最終話、『Air/まごころを、君に』が始まった。ついに始まる人類補完計画の第一段階として、襲撃を受けるネルフ本部。人の敵はやはり人、目を覆いたくなるほどの凄惨な虐殺が繰り広げられ、待ちに待ったアスカの覚醒も虚しく、こちらも痛みを伴うほどの残酷な最期が待っていた。それを観て発狂するシンジの絶叫が、心をざわつかせる。
性と死のメタファーが暴力的な速度で投げかけられる本作は、確かに劇場で真価を発揮する一作だった。自宅での鑑賞と違い、劇場には逃げ場などない。ただただ目の前の映像と流れてくる音声に身を任せることしか出来ない。その結果、本当にこちらもおかしくなってしまいそうな、そんな一瞬が何度もあった。シンジの、というよりは作り手の「病み」に精神が脅かされていると、脳が危険信号を打ち鳴らしている。
例えばそれはシンジの「他者を理解できない理由を他人に転嫁する弱さ」だったり、ミサトの「セックスで寂しさを紛らわす生き方」であったり、それらを他人に覗かれること=単体の生物に進化することが「良き事」として描かれる人類補完計画だったりと、登場人物のインナースペースで繰り広げられる融け合う心の行く末に、補完計画の外側にいるはずの私の心が怯えているのを感じる。同時に、なぜだか「安らぎ」に似たものが沸き上がりつつあって、最早鑑賞中の心境を言語化することさえ難しくなっていく。他者と一つになることは気持ちいいことか否か、答えを導き出せないまま、スクリーンでは人々が次々にLCLと化していく。
そしてそのまま、映画は実写パートへと移行していく。初見時も衝撃を受けたが、今回の劇場鑑賞に意義を感じたとすれば、このシーンへの理解度が深まったことだ。他人の批評を読んで理解した気になっていたこのシーンを、劇場で観ることでようやく飲み込めるようになった、そんな印象である。
「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」
「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」
「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
綾波レイの声を借りて、庵野氏はアニメを「夢」であると語る。ここにおける夢とはポジティブな意味ではなく、ハッキリと「虚構」と読み替えることができる。現実は嫌なことがたくさんあって、物語に生かされている人は大勢いる。そのことを優しく肯定してあげたのが『桐島、部活やめるってよ』だとすれば、本作はその反対だ。『エヴァンゲリオン』という虚構に逃避し現実の復讐をしておきながら、その創造主たる作り手への心無い言葉をインターネットに撒き散らす。向けられた悪意への反論を声にする代わりに、劇場に駆け付けたファンを直接映すという大胆な演出には、本当に参ってしまった。誰かから攻撃され、自分が誰かを傷つけてしまうかもしれないのが現実で、エヴァはそこに帰れと言う。目の前のスクリーンで繰り広げられる惨劇よりも、隣に座っている人のATフィールドの方が恐ろしい。
庵野秀明は本作でアニメファンを攻撃したと、過去何度も文献やインターネットで目にしたことがある。アニメなんか観てないで現実に帰れと、アニメ製作に疲弊し他者との軋轢に絶望した一人のクリエイターの鬱屈した心境が投影されたのが人類補完計画の真実なんだと、そういう先入観を刻まれてしまっていた。その正誤は観た人の数だけ解釈があっていいとは思うものの、その真意を探り理解するためには映画館で観ることが最低条件、ということなのだろう。座席のネット予約なんてなかったであろう公開当時、劇場に列を作り公開を待ち望んだファンに浴びせかけたメッセージの意味を知るためには、画面に映し出された「おれたち」と向き合う必要があったのだ。
クライマックス、シンジは人間が一つにならない世界を望んだ。他者と生きることは、傷つけ傷つかれることの連続だ。本作はそれを「他人の恐怖」と呼んだ。私たちは日々、それに怯えて暮らしている。人間関係、ままならないことの方が多くて、歳をとって受け取った名刺の数が増えるたびに、自分のATフィールドはどんどん厚くなっていく。
それでも、シンジは他者と結んだ絆に希望を見出したのか、補完計画を拒絶した。その勇気ある決断にはいつも胸を打たれるし、だがしかし初めて出会う他者がアスカだというのは、やはり残酷で涙してしまう。シンジにとって最も恐ろしく、合わせる顔がない他人であるアスカと、もう一度向き合わなくてはならない。思わずアスカの首を絞めてしまうシンジが、彼女に頬を触れられて力を緩めたのも、個と個の世界を自分が望んだことを再確認したからだろうか。希望も絶望も、それら全てをひっくるめて「キモチワルイ」と、アスカが一人呟く。
「終劇」というそっけない一言の後、スクリーンはマスク着用とソーシャルディスタンスを保った退席を促すアナウンスに即座に切り替わり、場内に明かりが灯る。残念なことに我々が生きる社会は今、未曽有の疫病災害に脅かされている。映画を観ている最中は一度も頭に浮かばなかった「現実」に急に引き戻され、頭が混乱する。
虚構から現実に切り替わる瞬間、劇場に駆け付けた誰もが何も口から発することも、立ち上がることもできない一瞬が確かにあった。静寂が場内を支配し、やがてゆっくりした足取りでスクリーンから去っていく。「これが97年の空気か」と、令和にいながらエヴァンゲリオン・ショックを疑似的に味わえたことを、本当に嬉しく思う。
実を言うと、直前には『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.333 YOU CAN (NOT) REDO.』も鑑賞していた。明度が上がったことで、これまで見えていなかったものがこれだけあったのかと驚愕したのだが、目玉は何と言ってもラストの『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の全く新しい30秒の予告である。
内容の紹介はここでは避けるとして、頭に思い浮かんだのは『Q』における渚カヲルの「反復練習さ」という台詞と、新劇場版製作発表時に出された庵野氏の所信表明における「『エヴァ』はくり返しの物語」という一文。現行発表されている予告映像などを観る限り、『シン』では過去の作品を彷彿とさせるカットは多数織り込まれており、シリーズを総括する意思をどうしても感じてしまう。「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という一言には、エヴァンゲリオンと我々ファンのお別れと同時に、庵野氏以下全てのスタッフとエヴァの「さよなら」になるんだなと、予告を観る度に涙ぐんでしまう。泣いても笑ってもあと数週間。1995年から始まった長い夢のエンドマークが疫病という「現実」によって再び先延ばしにならないよう、祈るばかりだ。
【過去の「ぼくとエヴァンゲリオン」はコチラからどうぞ】