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TCG未経験だけど、劇場版『遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』を観た。

  思えば、全てはこの映画を観る身体を作るための、長いロードだった。周りの決闘者デュエリストがこぞって絶賛する、『遊☆戯☆王』生誕20周年を祝う祭りにして、原作者・高橋和希監修が描く、原作漫画のその先――。

 ここまで来られた達成感と共に、ついに観てしまうのか、という恐怖もある。みっちり、と言うには程遠いが、一年間漫画やアニメといった媒体で(あとリアル友人とカードショップに行った)常に生活の身近にあった遊☆戯☆王に、これで一区切りが打たれる。

 諸先輩方が公開当時、この映画に対して並々ならぬ緊張感で劇場に挑んだであろうことは想像に難くないし、後追いの自分なんかがどう言葉を尽くしたとてそれには敵わないにせよ、今、再生ボタンを押す準備を整えるために、今この文章を書いている。そう、今皆さんがご覧になっているテキストは、未だ『遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』を知らない状態の私が書いている、いわば準備体操のようなものなのです。

※長い前置きが続きます。
映画の感想だけを読みたい方はこちらをどうぞ


観る前の懸念と、恐れ

 すでに公開が終了した作品に何を言わんやだが、本作に対する一番の懸念とは「“続き”ってやっていいんですか!?」という、身も蓋も無い言葉に尽きる。

 今でこそ超人気カードゲーム『デュエルモンスターズ』を産み出した漫画として世に知られる『遊☆戯☆王』だが、世界一売れたカードゲームの誕生すら偶然の産物であり、その本懐は実のところ「友情」を描く作品であった。人と人、あるいは人とモンスターの、時にゲームのルールや理をも超えて交差する、友情の力。そしてそれは、武藤遊戯という一人の少年の成長と並行して描かれ、これ以上は考えられない最高の幕引きをもって、漫画は完結している。

 千年パズルに宿りし古代エジプトのファラオが一人の少年に宿り、いくつもの闇のゲームやM&Wによる激闘を重ね、やがては三千年前から現代へと続く数奇な運命に直面し、真の名前を取り戻して、冥界へと旅立っていく。類まれなるゲームセンスと度胸、そしてカードや友情を信じる力で勝ち抜いてきた"もう一人のボク”ことアテム闇遊戯は作品の顔であり、同時に乗り越えるべき壁でもあった。そんな彼の強さに憧れ、その背中を一番近いところで見守ってきた遊戯が、借り物のタクティクスではなく自分だけの力でアテムを倒し、冥界と去っていく背中を見送る。

 この結末が完璧であるからこそ、“その先”が(原作者監修によって)確定する、というのは、なんとも恐ろしいものだ。畑は微妙に違えど、10年越しの作品で主人公が死んでしまう、という壮絶な体験を数年前にしたばかりなので、同じ轍を踏まれたらと思うと、どうも気軽には観られない。

 いや、この例は極端なもので適当とは言い難いが、一番の関心事は「この映画におけるアテムの立ち位置」だ。あのクライマックス、涙を流しながらも身体を分けた相棒のために全力で闘い、寂しさと裏腹の納得をもってアテムを送り出した遊戯の側には、彼がいないことこそが正しい。正しいが、もし会えるのならアテムに会いたい。千年パズルが鳴動するあのSEと共に彼が現れ、友のピンチを颯爽と救う瞬間だって、それはそれで観たいのだ。

 アテムには帰ってきてほしくない。アテムに会いたい。この相反する気持ちを抱えてしまうほどに、原作漫画のクライマックス(TVアニメ版では闘いの儀における追加シーンの数々が絶品だ)に惚れ込んでいて、その余韻に対して承服しかねる続きが描かれたらと思うと、恐怖しかなかった。

 要は、この映画に対して納得したいし、負けたいのだ。おみそれいたしました、さすが原作者様ですと、こちらの不安を愚かな杞憂だとあざ笑うナイスシュートを、キメてほしいのだ。こんな身勝手な観客などおるまいと思いつつ、何のメディア記事でもない場末のnoteなので告白させてほしい。一年の旅の締めくくりに影を落としたくないという我儘だけが、鑑賞前の今の自分の中でぐるぐると渦巻く全てである。

 ……して、前述の通り、この映画に対する諸先輩方の興奮や熱気、ネタバレしまいと気を遣いながらもこの映画を薦めてくる語り口には、絶望は感じられなかった。つまりは、私が望み、そして全ての原作漫画ファンが望んだウルトラCが、おそらくこのフィルムにはあるのだ。それを確かめない限り、この旅は終われない。

 期待と不安とが4:6の今、ついに始まる、私と高橋先生との決闘デュエル。メソメソと未来に対して怖気づくのはここまで。ここからは二時間後の自分に託すとして、『遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』を知らない自分とはおさらばするとしよう。

『遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』を観た。

 どうも。『遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』を鑑賞して、咀嚼に一日を費やした僕です。昨日のテキスト、さながら自分だけのタイムカプセルみたいで、面白い試みでした。一本の映画観るのにこんなにビビってる奴おらんでしょw 以下、ネタバレ含む。

アテムリスペクトが完璧

 鑑賞前に一番恐れていたアテム出てくるの!?問題について、正解を言うのならアテムは無事我々の前に姿を表してくれた。その経緯と回数は、以下の通り。

  1. 海馬が再現したホログラムとして

  2. 集合意識から隔絶された城之内を救うシルエットとして

  3. 最終決戦にて満を持して降臨

  4. 次元の先で海馬と再会し、映画が幕を閉じる

 こうして箇条書きにすると意外と多い気がするのだが、そのどれも完璧な塩梅での再会を用意してくれた高橋先生やスタッフの皆様には、感謝を禁じ得ない。なるほど、その手があったかと。

 というのも、我々の前に初めて姿を表すアテムが「海馬の記憶から生まれたホログラム」というアイデアに膝を打つ。TVアニメでは自らエジプトに赴き、記憶の世界に介入してゾークとの決戦に参加、その後闘いの儀における遊戯VSアテムのデュエルを観戦し、去りゆく王の背中を見送った海馬。しかし原作では、バトルシティ編終了後に彼が表舞台に立つことはなく、フェードアウトしていく。

 漫画を読み進めていく上では気にならなかったのだが、なるほど、確かに海馬にとってはアテムに勝ち逃げされ、闘いの儀を目の当たりにしていない以上、その別れに納得を得られるはずもない。故に、剛三郎との精神的な決別を果たした海馬の中にあるのは、アテムへの強烈な執着である。よりリアルなソリッドビジョンシステムを開発し、闇遊戯の戦略性や不遜な態度までをも再現した人形を用意して、それを下す。しかし、その勝利は空虚なものでしかないことを、当の海馬が一番わかっている。何ら笑みを浮かべることなく、海馬コーポレーションのシステム開発陣に苛立ちを見せる若社長。

 つまり、鑑賞前にファンなら誰もが思う「アテムに会いたい」という気持ちを、一番強く抱いているのが海馬である、という前提の下に物語が動き出すのである。これは原作漫画から地続きの『遊☆戯☆王』でしか出来ないし、そのために宇宙エレベーターやエジプトでの千年アイテム回収など、持てる私財を湯水のように注ぎ込んで行われる狂気の沙汰にも、納得がいく。

 そしてその後のアテムの描写も、針の穴に糸を通すような繊細なバランスで、映画は進行していく。

 藍神によって集合意識の世界から隔絶され、周囲から認識できない牢獄から城之内を救うアテム。その際、アテムに束の間再会したことを遊戯に打ち明けようとして、しかし差し止める城之内の心理描写は実に“らしい”と思う。闘いの儀における遊戯の覚悟と涙を見ているからこその気配りは、海馬との差別化としても働く絶妙な塩梅であった。

 そして最終決戦での降臨。問答無用に泣く。海馬とのタッグデュエルによる対藍神戦、敵の繰り出す方界モンスターの猛撃にジワジワとHPを削られ、海馬は自分に勝利を託して先に敗北する(奴を呼べ……とここでもこだわってるのが瀬人様だ)。それでも諦めない遊戯だったが、ついにその身体と意識が限界を迎える。その時、あのSEと共にパズルが輝き、鮮烈な後光をまとって遊戯の身体に再臨する、我らがアテム!!

 その直前に、遊戯によって「すでに千年パズルの中にアテムの魂がない」ことが提示され、しかしそれすらも認められない海馬の意地と、藍神によって「次元を超越した」デュエルが行われている、というお膳立てを配しているのが、実に巧い。会えるのか、会えないのか。これまでの二回とはまるで異なる、真なる意味でのアテムの現世への復活。遊戯がギリギリまで歯を食いしばって、あのガンドラまでをも繰り出して、それでも届かなかった、という工程を踏まえたのも、制作陣が原作の最終回を尊重した上でのバランスであろう。正しい。圧倒的に正しい。

 この再臨におけるアテムは、なんと一切喋らない。我々が闇遊戯に求めるあの立ちふるまいは、実のところ序盤のホログラム版アテムにのみ発動するものである。そこに一抹の寂しさを感じなくもないのだが、しかしこれは直近で言うところの『THE FIRST SLAM DUNK』における「左手は添えるだけ」を(観客に聞こえる音として)言わせなかった“粋”さにも通ずるものがある。

 アテムはもう記憶を失い彷徨う少年ではなく、古代エジプトの王であり、同時に「遊戯王」である。その威厳を保つには、これしかない。もうデュエルのルールもあったものではないが、繰り出す神官のモンスターが恐らくマハードの魂を受け継いだものであるとくれば、文句も言えまい。そしてアテムが我々の前には声を発さなかったからこそ、後に遊戯がアテムと話せたと語るのが感動的なのだ。再会を喜びあうささやかな時間は、二人だけのものである。この一点に、愛を感じずにいられようか。

 まとめるのなら、アテムはもう遊戯の側にいるべきでない(遊戯の成長を無かったことにしてはならない)こと、それはそれとしてアテムがいないと『遊☆戯☆王』たり得ないことを、制作陣も承知の上で、このようなバランスに落ち着いたのだと思う。観客のアテムを求める心は海馬が引き継ぎ、遊戯は寂しく思えど別れを自分なりに受け止めて、真の決闘者デュエリストとして決戦の場に挑む。その上で、ギリギリまで頑張って、ギリギリまで踏ん張って、どうにもこうにもならない、そんな時に現れて、闇を黄金の光で照らす。原作の結末とアテム人気を尊重するのなら、これ以外はあり得ないだろう。

海馬と“遊戯”

 しつこく繰り返すが、本作は原作準拠であるからこそ、海馬はエジプトでの出来事をまるで知らない。闘いの儀を見ていないからこそ、王を真名である「アテム」と呼ぶシーンはたったの一度しかなく、「遊戯」と呼び続けている。海馬の中で武藤遊戯はただの器でしかなく、アテムが前に出た彼こそが「遊戯」なのだ。

 本作は、そこにも落とし前をつけてくれる。藍神が暗躍し、城之内や獏良が別次元に囚われてもなお、その状況もお構いなく千年パズルの完成を遊戯に迫る海馬。武藤遊戯を一人のデュエリストとして、いや、一人の人間としても尊重する気の見えない海馬は、ある意味で原作から成長しきっていない、過去に囚われた人物と言える。それこそ、未来の夢に向かって歩み始めている遊戯とは正反対で、千年アイテムを“非ィ科学的”と一蹴していた張本人が、一番それに執着してしまっている皮肉。

 そう、遊戯はすでに海馬の先を走っている。であるからこそ、藍神とのデュエルを遊戯が譲らなかった際、海馬は負けてしまう。武藤遊戯が一人のデュエリストとしての確固たる意思を持ちこの場に現れたことを、海馬自身が認められていなかった。その後展開される遊戯と藍神のデュエルを、海馬はどんな心中で見守ったのだろう。

 その答えは、次なるデュエルで明かされる。ブルーアイズの亜種?たるドラゴン族を次々と繰り出し、圧倒的破壊力で遊戯のモンスターを蹴散らしていく。しかし、遊戯はあのアテムを下した実力者。マジックカードやモンスターの特殊効果の搦手で、海馬の猛攻に怯むことなく立ちはだかっていく。その時、海馬はふと笑みを見せる。ホログラムのアテムと闘った際には感じられなかった興奮を、昂ぶりを、“器”であったはずの相手に初めて覚えている。TVアニメでは闘いの儀を見届けたことで果たされた憑物落としが、原作版準拠の本作ではここでなされるのだ。

 以前なら考えられなかったであろう、対藍神において遊戯とのタッグデュエルに挑む海馬。その際の「まだ闘えるな?」の台詞が泣ける。自分の隣に立つべきデュエリストとして武藤遊戯を見なした海馬。その傲慢さの雪解けが、なぜか親のように嬉しい。原作がやり残した(TVアニメ版は先に成し遂げた)海馬の成長とは、これだったのだ。

 映画の本当のラスト、海馬は藍神の持つ八つ目の千年アイテムを利用し、別次元にいるアテムとの謁見に成功する。彼の中で「遊戯」と「アテム」が正しく分離したとて、アテムと闘うことを諦められない海馬の、真の狂気がお目見えするシーンだが、これは制作陣から彼に贈られたご褒美だと私は受け取った。現世には遊戯、次元の先にアテムという最強のライバルが二人もいると思うと、最もハッピーエンドにたどり着いたのは社長なのではないか、という気もする。きっとセトとキサラも喜んでるさ。

削られた戦略性

 この通り、本作は漫画『遊☆戯☆王』の続編として、申し分ない着地を決めたと(新参ながら)思っている。だが、「完璧」とは言い難い部分もあり、悩ましさもある。

 『遊☆戯☆王』の本懐が「友情」を尊び、カードゲーム要素はあくまで漫画を盛り上げるギミックであることは承知している。だが、漫画を読み進む際に感じた圧倒的な熱量、少年漫画としての面白さはやはりデュエルに宿っている以上、私は本作のデュエル描写に物足りなさを感じている

 話は変わって、実のところ『遊戯王』という漫画に対し本格的に自分がハマったのは、この王国編も後半戦、決勝戦に差し掛かったラインであった。

 というのも、前述の通り私はTCG未経験なので、作中に登場するカードの全てが初対面。そのため新しいカードが登場して、それが絶大なる攻撃力を有していたり、あるいは一方的に有利な効果を秘めていても、どこかそれは「後出しのじゃんけんを見ている」ような虚しさが、実はあった。オレはこのカードを出すぜ!ならオレはもっと攻撃力の高いモンスターを出すぜ!の応酬を滑稽に感じたり、いっそのこと「聖なるバリア -ミラーフォース-」を出しまくれば勝てるんじゃね、と思ってしまったこともあった。

 ところが、高橋先生のゲームメイキングによって、その浅はかな考えは塗り替えられていくようになる。遊戯王におけるカードバトルの基本の流れは、「相手が自身のテーマにそった場作りを完了させる⇛こちらを罠にハメ、得意な戦術で追い詰めていく⇛一度は諦めかけるも、仲間やカードを信じて逆転する」というもの。そして、その逆転のロジックとは常に「相手の戦法を逆手に取って勝つ」が徹底されているからこそ、TCGに明るくなくとも面白いのだ。

 そのロジックさの成否は判断できないが、遊戯王の面白さは相手を出し抜く展開に詰まっている。要は、ケイパー(犯罪)もの、スパイ映画を観る際の快楽原理なのだ。こちらには打つ手が残されていないかのような絶望的な状況に追い込まれるが、一縷の望みにかけた大作戦がハマり、勝利を確信していた相手に敗北の二文字を突きつける、「ざまぁ」の醍醐味。これが常に担保されているからこそ、「なんか分からんけど盛り上がる」「なんか分からんけど面白い」が続く、不思議な読書体験になっている。

TCG未経験だけど、漫画『遊☆戯☆王』を読んでみた。

 本作は、デュエル描写に潤沢な時間を注ぎ込めるTVアニメとは異なり、二時間でドラマを語りきらねばならない劇場作品だ。そのしわ寄せか、本作では醍醐味であった「カードの効果を読み上げる」手順がスキップされていることがほとんどで、上掲した「後出しのじゃんけんを見ている」感じに包まれていた。

 藍神の繰り出す方界モンスターは「方界胤ヴィジャム」を相手に攻撃させることで相手モンスターを無力化させつつ、他の方界モンスターにヴィジャムを装備させることでより強力な攻撃力を得る、というコンボを組んでいる。なのだが、そういう効果があるのか、藍神はヴィジャムや方界モンスターをバトルフェイズ中に召喚したり、プレイヤーに直接攻撃が可能な特殊効果があったりと、わりとやりたい放題で、ほとんど彼の独壇場でデュエルが進行していく。

 それを打ち破るのはオベリスクの強力無比な神の力か、遊戯が繰り出す無限ループコンボしか達成しえなかった。後者こそ、私が熱狂した「相手の必殺技こそが弱点」の要素であり、しかも原作における対人形戦を思わせるコンボということでアテムの背中を見て成長した遊戯らしいタクティクス、という感動もある。だがそれ以外は強力な特殊効果を持つモンスターのインフレ試合であり、相手のコンボの牙城を崩す爽快感、「ざまぁ」感が薄味であることに、どうしようもなく食い足りなさを感じるのだ。

 これはもう、劇場アニメというフォーマット故に削るしかなかった、という要素なのだろう。もしこの醍醐味さえも兼ね備えた一作であったら、という気持ちもあるのだが、現状のドラマの感涙度を思えば、贅沢なおねだりかもしれない。

完走した感想

 『光のピラミッド』とか言う映画が配信もされてないしソフトも絶版状態なことを除けばこれにて『遊☆戯☆王』マラソン完結。タイトル通り、これまでの実人生に1秒たりとも「カードゲーム」がない生き方をしてきたが、その負い目すらを凌駕する感動を、一連の作品から得ることができた。

 『遊☆戯☆王』は勝利に至るロジックの完成度と友情の物語で

 『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』がそこに演者の濃すぎる熱演と劇伴がさらなる魅力を付与し

 『遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』は一度完結した物語を経て、新たなる脅威を乗り越え未来へと進んでゆく若者たちを描いた。

 長大な話数ということもあり、一つの大河ドラマを観たような、達成感に似た清々しさ。何より、遊戯たちが自分の夢に向かって歩き出す、そんな前向きなビジョンと共に作品を閉じてくれたことに、感謝の意すら感じている。アテムを大事に想いながら、寂しささえも飲み込んで歩いていく。20年来のファンも、この映画を観た時、同じ心境だったのではないだろうか。

 たくさんのデュエリストに囲まれながらの一年間、牛歩のような歩みでも、見捨てずに鼓舞してくださった全ての先輩方と、高橋先生と、『遊☆戯☆王』に関わられた全ての人に、ありがとうの意を込めて、終わろうと思う。本当にアツいデュエルでした。

 そういえば、まだ自分のカードを1枚も持っていないのだけれど、記念に持つなら何がいいだろうか。デザインが大好きな『デーモンの召喚』か、文脈を読むなら外せない『死者蘇生』か、やっぱり『ブラック・マジシャン』か。何にせよ、デュエルの場で相対することがあったら、お手柔らかにお願いします。

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