![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/168192606/rectangle_large_type_2_1e035139d5dd255cd6b0efaa964a24df.png?width=1200)
さよならを言うために。『宇宙戦艦ヤマト 完結編』
『宇宙戦艦ヤマト』が終わる―。当時のファンは、このことをどう受け止めていたのだろうか。『さらば』での言葉を反故にされた経験から信じきれなかったのか、それでも別れを告げるために劇場に駆けつけたのか。その様子を知ることは出来ないにせよ、証言や記録を見る限りだと、劇場版一作目や『さらば』ほどのアニメ史に燦然と輝くヒットを記録するには至らなかった『完結編』は、西﨑氏の思惑通りにはいかなかったのかもしれない。
ただ、令和7年にもなって初めてこの結末に辿り着いた自分は、完璧な作品ではないと眉をしかめつつも、やはり涙を隠しきれなかった。壮絶な旅の果て、幾度となく地球を救ってきた艦が、全ての乗組員の父と共に沈む。「大和」の魂を背負った艦には避けられなかった結末なのか、しかしその鎮魂を謳う映像に、音楽に、演技に、打ちのめされてしまった。本当に、ズルい一本だと思うのだ。これはもう、ある種の卒業式と言えるのだろう。
『宇宙戦艦ヤマトIII』の銀河系大戦のその後、異次元断層から別の銀河が現れ、銀河系同士の衝突によりいくつもの星々が消失していった。ヤマトは同盟国であるガルマン・ガミラス帝国を訪れるが、デスラーと出会うこともままならず、大爆発から逃げるための緊急ワープによって未知の惑星に到着した。その惑星「ディンギル」は、水惑星「アクエリアス」の接近により地表全てが水没するという未曾有の大災害に見舞われており、生存者救出を命じる古代艦長だったが、水害によって多くの乗組員と生存者の命が奪われ、助けられたのは一人の少年だけであった。さらに脱出したヤマトはディンギルの艦隊に強襲され、命からがら自動操縦によって地球へと帰還。大勢の死者を出してしまう。
責任を感じた古代は艦長の座を自ら降りるが、ディンギルはアクエリアスを人為的に地球へワープさせ、地球文明と人々を水没させた後に移住することを計画しており、地球に再び絶滅の危機が迫っていた。ヤマトは再び、地球を救う最後の希望の艦となったが、古代はその重責を負傷した身体と傷ついた心では受け止めきれなかった。そんな時、艦長として藤堂長官が紹介したのは、死んだと思われていたあの沖田十三であった―。
前置きとして、「『宇宙戦艦ヤマト』をつくった男 西崎義展の狂気」という書籍を先日読んだ際に、沖田艦長が復活するという事実を先んじて知ってしまい、狼狽したことを正直に告白したばかりである。青い地球を見て静かに目を閉じる沖田十三の姿に、旧作と『2199』で二度も涙をカツアゲされた身としては、一体どう落とし前つけてくれるのかと、観る前から喧嘩腰の態度であったことを、まずは打ち明けておきたい。
この点に関しては、沖田十三役、名優・納谷悟朗の力に完敗した、という他ない。沖田艦長が発進準備を総員に促す放送が聴こえた際、作中の全員がそうであったように、不思議と身体が引き締まる思いがした。沖田艦長の声が、艦長席でどっしり構える姿が、何よりもこちらの勇気を鼓舞するのである。沖田十三とヤマトは、切り離せないものであったことを、本能でずっと理解していたのだ。納谷悟朗の声と言葉は、何にも勝る説得力として、無謀な復活劇への違和感を塵のごとく粉砕してくれた。
艦長代理を経て、『III』でいよいよ艦長になった古代進。本作序盤での彼の失敗は、沖田艦長復活のために設けられた段取りという印象が強く、不憫だという想いもある。だがしかし、両親と兄を亡くした彼にとっての精神的な父である沖田の言葉に奮い立つ古代という構図は、一作目の決死行を経た上で成立する友情、いや、「親子愛」の結実として、胸を熱くさせる。熱血漢であり情に流される面の多い古代は、沖田艦長のような男になるにはまだ経験と年数が必要であったのかもしれない。それを埋めるように、沖田が最後の役目を、命を賭して果たす。劇場映画らしく気合の入った作画と尺で描かれるヤマト発進シーンは、やはりTVシリーズのそれよりもゴージャスで、熱のこもったものであった。
沖田の帰還もそうなのだが、本作に原点回帰の気風を感じたのは、敵対するディンギル帝国と、その結末についてである。ディンギル帝国の人々は実は太古に地球がアクエリアスの被害を受けた際に宇宙人によって救出された者たちの末裔であり、地球人とは同種の生命体である。真田さんが中盤で彼らを解析した際に、肌の色を除けば彼らは地球人類とほぼ相違ないことを語るシーンは、一作目で捕虜となったガミラス人を分析した際とそっくりの台詞を放っている。これが示す通り、ディンギル人はかつてのガミラス星人のように、己の移住先を求め攻撃してきた近似種の人間としての側面を有している、ということである。
しかしディンギル星人へは、言葉での和解の可能性はすでに断たれていて、それは彼らに極端な傲慢さと弱肉強食の思想が根付いているためである。危機の際は女子供を見捨てる冷酷さや、そもそもアクエリアスを利用して地球を滅ぼし、自分たちの惑星にしようとする身勝手さに、対話を持ち込む余地は一切見受けられない。しかも、冒頭の水没するディンギル星からたった一人助け出した少年はディンギルの総統ルガールの実子であったのだが、彼はヤマトにその恩を感じなかったどころか、ルガール自らが我が子を撃ち殺すという悲劇に対しても、涙一つ見せることはなかった。
これに対し古代は、怒りを露わにする。それでも同じ人間か!と強くルガールを糾弾する古代の言葉は、命を慈しむことも、誰かを守るために投げ捨てるような崇高さも持ち合わせていないディンギルの非情さを批判し、子を愛する感情を持たない彼らへの決別をはっきりと宣言する。異星・異文化であるから、というエクスキューズも突破して、同じ人間であったはずの彼らがいつしか失ってしまった「愛」を呼び覚ますために、彼はひたすらに叫ぶ。ぼうやの死に涙するのは、運命を違えた種族である古代進、ただ一人なのだ。
愛。西﨑プロデューサーがかつて幾度となく掲げたこの言葉が『ヤマト』の基本理念だというところに、再び『完結編』は揺り戻した。前作『宇宙戦艦ヤマトIII』で提唱された非暴力の実践とならなかった惜しさもあるが、愛を持たぬ人類のifとの闘いを通じてこのテーマに帰結したことは、一作目と環を結ぶものとして、これ以上ない納得を感じさせる。ダメ押しと言わんばかりに、なぜ地球人は他人のために死ねるのかとディンギルの少年が訊ね、森雪が「他人の幸せに尽くすこと」の教えを語るシーンまで配されている。他者を想う気持ちを尊ぶことが、あまねく銀河を平和に導くのだと『ヤマト』は声高に発する。その極地が、クライマックスで描かれる。
ディンギルとの闘いを終え地球に辿り着くヤマトだったが、アクエリアスの接近の阻止には至らなかった。古代はヤマトを自爆させ、地球へ水を送るアクエリアスからのラインを断ち切ることを提案する。それは決死の作戦であったが、沖田は自らがその役目を果たすと告げ、古代、森、真田を見送る。一人残った沖田はヤマトと共にアクエリアスに沈み、その生命を全うするのであった。
客寄せパンダと言われればそれまでかもしれないが、沖田艦長を無理やり復活させた意義は、やはりここにある。それは、若い世代の命を次世代に繋ぐことだ。沖田は古代と雪がいずれ子をなす未来を託し、その子を自身にとっての“孫のようなもの”と語った。これ以上に重たい、命のバトンはないだろう。冬月に乗船したヤマト乗組員たちは、自動操縦にて行われると知らされていた特攻が沖田の手動制御であることを知り、沖田救出のために冬月を止めてくれと叫ぶ。一方、沖田の覚悟を知る古代と雪は静かに敬礼を捧げ、真田と佐渡先生がそれに続く。その背中を見た彼らも覚悟を決め、沖田、ヤマトとの最後の別れの時間を過ごした。彼らの悲痛の叫びと、台詞による野暮な説明を省いたこのシーンは、作中屈指の名シーンであることに異論はないはずだ。
これは『さらば』の結末について西﨑氏と松本零士氏とで意見が割れ、結果として劇場版とTVアニメとで結末が分岐した件の反省とも取れるし、ヤマトを眠らせるのは沖田であるという着地には、やはり胸にくるものがある。戦い抜いた人間と艦がまるで想いを通い合わせたようにすら感じられるこの瞬間は、作り手にとっての、そして全てのファンにとっての『ヤマト』とのお別れの意を込めたシーンであるのだろう。
場面を戻すと、象徴的であったのが艦長の座を降りた古代がもう一度ヤマトに乗って闘いたいと独白する序盤のシーンで流れる「古代とヤマト」という挿入歌だ。『ヤマト』あるところにその声ありのささきいさおが熱唱する、ヤマトとは何かの問い。血肉を分けた家族のように、青春を過ごした友のように。募る想いを述べた上で「降りる」と宣言するこの歌に、制作陣が何を込めたのかを言葉にするのは野暮だろう。無論、ファンの想いをこれに託したことも。
ヤマトは兄か ヤマトは父か
それとも ヤマトはわが友か
兄なら 時には手を上げて
はげしくこごとを言ってくれ
父なら 大きな胸板を
嵐の試練に貸してくれ
友なら みじかい青春を
悔いなく一緒に燃えてくれ
さらば ヤマト もうお別れだ
おれは一人で今おりる
歌:ささきいさお
作詞: 阿久悠
作曲: 宮川泰
編曲者: 宮川泰
『ヤマト』の制作現場が決してクリーンなものでは無かったことも、その後に裁判という形で争われたことも書籍を読んで知っている。一作目から本作を作り上げた同士全てが、この『完結編』で揃わなかったであろうことも、何となく察しがついている。しかしそれでも、愛する艦に「さらば」を言うために作られた本作は別れの儀式であり、これまでの日々を「青春」と表現した想いに、後追いとはいえ滾るものを禁じ得ない。私が『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の公開初日に感じたものと同じ激情を、この映画を通じて当時のヤマトクルーは胸に宿したのではないかと、つい想像してしまう。
決して完璧な作品とは言い難い面もある。ヤマトが荘厳に沈むエンドロールの後に流れるエピローグは冗長で語りすぎるきらいがあるし、島大介が死する場面は雪への秘めた慕情を語るばかりで、『2』のテレサに全く言及しないのは、不義理にしか感じない。
しかし、それに勝る「お別れ」の意に、涙してしまった。ヤマトよ安らかに眠れ。二度と傷つくことのない、恒久な眠りへと―。
と、こうして大仰に締めたところでどうしても白々しくなってしまうのは、『復活篇』の存在を知っているからであり、今の素直な心境としては「怖い」というところだ。旧ヤマトを終わらせることも、『完結編』の余韻が崩れ去る予感にも、その全てがおそろしい。
とはいえ観ないという選択肢はないわけであり、決心がついたらまた何かを書き残す予定である。次で沖田艦長が再度復活することなどあれば、さすがに私も「降りる」だろうけれど。
いいなと思ったら応援しよう!
![ツナ缶食べたい](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/138469078/profile_0c344f352d304653e7dd505ac80b51c2.jpg?width=600&crop=1:1,smart)