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「役割」に縛られた君へ、血濡れの祝福を。『機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season1』

 売っていない。ここにもない。どこにいるの、私の娘は。

 そんなわけで、外出する度に玩具店に立ち寄ってしまうのは、ひとえに「HG ガンダムエアリアル 1/144スケール」が欲しいからだ。搭乗者を守るように縦横無尽に動くシールドビットに一目惚れして以来ずっと探し続けているが、年末から続く品薄は我が町では解消されていなかった。そして、この品薄は今後も続くだろう。きっと、赤色の塗料と一緒に。

 というわけで、昨年冬からずっと心奪われ続けたアニメ『機動戦士ガンダム 水星の魔女』が、12話をもって最初のシーズンを終えた。ジャンルを学園モノへと変え、『ウテナ』を思わせる決闘システムを配置し、女性をトロフィーとして扱う価値観を否定する第一幕。そこから視野を広げ、親から子に向けられる「支配」「従属」にそれぞれのキャラクターが向き合っていく第二幕。そして第三幕、GUND技術による医療事業の拡大に向けた「株式会社ガンダム」の起業に踏み出した若者たちの前に再び立ちはだかるきな臭い大人の事情は、アニメのジャンルそのものを「戦争」へと傾けていく。その果てに我々が見たのは、スレッタとミオリネの深い断絶、あるいはタイムラインを埋め尽くす悲鳴であった。

 『PROLOGUE』を除けば、『水星』は人が死なないガンダムであった。人権意識の欠片さえ感じさせない、人間ですら「所有」のカテゴリーに当てはめてそれらを奪い合うアスティカシア高等専門学園の倫理は、非道ではあったがそこにはルールがあり、規律がある。不当に命を奪われるような環境になく、相手のブレードアンテナを折ってしまえばその場はお開きだ。

 ところが、戦場はそういうわけにはいかない。銃で撃たれれば人は死ぬ。モビルスーツに乗っていたって、戦力差や機体性能に差があればそれは少しだけ頑丈な棺桶と大差ないだろう。そしてそのことを、スレッタ・マーキュリーは当然理解している。母プロスペラが襲撃者を殺害した際、彼女は床に散った血を見て怯えるだけの、年相応の少女だった。決闘における強さとは、兵器としての信頼性を担保するものではない。彼女はいかに「魔女」と呼ばれど、戦争の最中ではか弱い少女だった。

 では、スレッタ・マーキュリーを「人殺し」に変えてしまった要因はなんだろう。12話を観た方に今さら言うまでもないが、ひとえにそれは「お母さんにそう教わったから」だ。グエルが親の庇護を離れ自分の足で歩く人生を少しずつ歩みだし(その結末の悲惨さにはここでは触れない)、ミオリネはお飾りの靴を自ら脱ぎ捨て、父親に経営者として台頭に見てもらうために階段を上がった。そんな中、スレッタだけは、何も変わらなかった。お母さんに言われたから学校に行って、お母さんに言われたからエアリアルに乗って、お母さんに言われたから敵を殺した。ただ、それだけのことなのだ。

「役割」を選んだミオリネ、
「役割」から抜け出せないスレッタ。

 現状の結末を見て、どうしても不穏な予感が頭から離れない。繰り返しになるが、あの場でスレッタが(傍から見えれば)無慈悲に敵兵を殺せたのは、「お母さんに言われたから」であり、「花婿を守るため」だ。裏を返せば、スレッタは大義名分さえあれば、人を殺める決断を躊躇なく行える、ということだ。それは、人間が繰り返してきた歴史の再生産であり、私たちの中にも眠る普遍的な“悪”そのものの発露と言える。だからこれは、「戦争」を描き続けてきたガンダムシリーズが内包するものであり、主人公の手が血に濡れることも宇宙世紀やその他の世界線でも繰り返し起こされてきた、ありふれた結末だったのかもしれない。

 問題は、人の死に怯えていたはずのスレッタは、「お母さんに言われたから」「花婿を守るため」であれば、人を殺めた際の罪悪感や恐怖に蓋をすることが出来る、というところにあるのだろう。良心を痛めることなく、ミオリネを守れたことに屈託なく笑い、ミオリネが自分に向けた表情と言葉の意味を理解できない。心が麻痺しているのか、あるいはそういう心の動きを知らずに生きてきたのか。なんにせよ、一日3回のメールでわかり合おうとした彼女たちの間にはどうしようもないがあることを、最後の最後に見せつけられるのである。これで満足か大河内。

  母プロスペラに授けられた、エアリアルのパイロット=魔女という在り方に忠実すぎるスレッタ・マーキュリー。母親からの愛と庇護を求め震えるだけの少女は、与えられた「役割」に徹することで一人前の決闘士に、あるいは兵士になる。そして末恐ろしいのは、ミオリネの花嫁という立場もまた、スレッタにとってはミオリネから与えられた「役割」である、とみなすこともできるのだ。

 スレッタからミオリネに向けられた感情が何なのか、それが親愛や恋愛でないとは、私も思いたくはない。思いたくはないが、もしも仮にこれまでの全てが「花婿とは花嫁を何人からも守る者」という教えや学びにそって起こされた行為だとするのなら、スレッタはミオリネの花婿をただただ忠実に演じきっている、ただそれだけの存在になってしまう。だからスレッタは戸惑うことしかできない。窮地から命を救った、立派に「花婿」として花嫁を守りきった。なのに返ってきた言葉は「人殺し」だ。

 ミオリネは今、お飾りのトロフィーを脱し、世間知らずのお嬢様という外部からのイメージを跳ね除け、立派な会社経営者となった。それはデリングや学園から与えられたラベリングを跳ね除け、自ら選び取った生き方だ。エアリアルを守るため、社員の人権や生活を守るため、責任ある立場を自ら務める。彼女はもう、支配に負けない力を自らに内包しているのだ。

 一方のスレッタは、今なお誰かの傀儡であり、与えられた役割を果たす機能でしかないように見える。今思い返せば、学校に通ったことのない彼女が「やりたいことリスト」の項目をあんなに挙げられるだろうか。「学校とは『友だちをあだ名で呼ぶ』場所なのだ」と誰かから教わったものを箇条書きにしただけだったとしたら、それはスレッタの自由意志などではなく、誰かに“そうなる”ように仕向けられただけに過ぎない。

 無論、これはただの想像であり、事実や設定とは異なるかもしれない(単に見落としもあり得るので、その場合はご指摘いただきたい)。一視聴者として願うのは、スレッタがミオリネへの感情を自分の言葉で言語化できるようになること、自分で自分の立場や生き方を選べるようになること、その二つだ。お母さんにも縛られない、魔女が魔女で無くなることが作品の結末だとしたら、それはささやかな成長であり、ハッピーエンドになるだろう。

 ただ、『水星の魔女』及び大河内一楼のことだ。私のぬるま湯の如き予想など、かすりもしないだろう、という予感は常にある。そんなありきたりのエンドマークじゃ、もはやスレッタとミオリネの関係は取り返しがつかないだろう。無論、傷を負った登場人物も、GUNDにまつわる諸々も、何もかもぐちゃぐちゃになってしまった今となっては、この風呂敷を畳む方法なんて何一つ思いつかない。

 全ては4月までお預けだ。その頃にはエアリアルのプラモが手元にあるといいのだけれど。


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