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"間” を愉しむ
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どうも。人間って、外気に触れる時間がめっきり減ってしまったなぁ~とわけもわからないことを考えてしまった、じーもです。
今回は "間” について考えてみたいと思います。「あいだ」とも読めますし、「ま」とも読めます。「けん」と読んだ方もいるかもしれません。まぁ、それはさておき(いつものパターン 笑)。
「わかりやすさ」と「わかりにくさ」の間
私は本を読むのが好きです。といってもこんなに好きになったのはほんと最近です。ということで、まずは本を読むことで考えてみたいと思います。
私はどちらかというと、いえ、はっきりと。小説などの文学作品ではなく、ビジネス書などを好んで読みます。第一の理由として、理解しやすいから、です。
あまり読んでいないので、好きな方からすれば怒られるかもしれませんが。文学作品の中には、書いてあることを理解しようとするだけで精一杯になることが多かったんです。中学生のころ、風の又三郎を読んでみたのですが…途中で断念してしまいました。当時の国語の先生にも、雰囲気を楽しむことができればいい、と教えてもらいました(中学生ですからね)。
推理小説などもあると思うのですが。なんだかしっくりこなくて。高校生になっても、私がよく読んでいたのは、星新一さんのショートショートでした。要するに、あまり長い文が読めなかったわけで。(笑)
で、3~4年前からビジネス書にはまり始めたんです。きっかけは、千田琢哉さんの「大切なことは、好き嫌いで決めろ!」でした。何を隠そう、この本、活字が苦手な自分に優しい構成になっていまして。とてもスタイリッシュな文量なんです。だから、読めました。内容も現実世界に即して理解しやすいものでしたから。
と、ここまで、「わかりやすさ」を軸に本を選んだり、楽しんだりしてたんです。でも、最近。というか大きく感じたのは今日なんですけど。(笑)
ある種の「わかりにくさ」も必要じゃないのかな、と思ったんです。実は、今までも、すべては理解できないけれど、なんだか惹かれる本がありました。著者で言うと、為末大さん(諦める力や限界の正体、ウィニング・アローンなど)や平野啓一郎さん(私とは何か)です。基本的にはわかりやすいのですが、深いところまでは理解しにくいところがありました。
でもそんな本って不思議と読み返したりするんですよね。「次こそは」みたいな。そこから、もしかすると、本で考えても楽しみ方は一つじゃないぞ、って思ったんです。
私で言うと、「わかりやすさ」と「わかりにくさ」の間に何かヒントがあるんじゃないか、って。そう考えると、実は他のことでも当てはまることが見えてくるんですよね。
「慌ただしさ」と「静けさ」の間
もしかすると読んでくださっている方がいるかもしれませんが、私は今、いろいろとやりたいことがありまして。
でも最近、また改めて、自分のしたいことやどんな空間が理想なんだろうって考えてるんです。というか、なんとなく考えることがずっと続いてるんですけど(行動していないだけかもしれない…)。で、最近考えているのが、「慌ただしさ」と「静けさ」の間にある、ゆる~い空間。
慌ただしいというのは、仕事や自分のやりたいことに熱中して熱くなっている状態。静けさというのは、(静かに集中ということもあるかもしれないけど)ぼんやりと時間や空間に身を任せているような、そんな状態。リラックスした自然体に近いのかもしれません。
挑戦できる人が集まる場にしたい、リラックスしたい人が集まる場にしたい、とかではなく。両者が存在していて、それを許容できる空間を作りたい、みたいな。だって、挑戦してる人もたまにはリラックスしたいし、リラックスしてる人もたまには熱くなりたい。ただ、お互いに押し付けることなく、認め合える。そんな空間ができたら素敵だな、って思うんです。
という風に考えると、"間” の愉しみ方ってけっこうあるんじゃないかと思ってます。
ちなみにこの記事でもいろいろ書いてます。今言ったことと変わってるかもしれませんけど。(笑)
和を奏でる
実は、これは和楽器で奏でる音楽にも表れていて。私は、一応、都山流尺八の師範ではあるんですけど(芸名もあります)。本曲という独奏曲(いわゆるTHE・尺八!!って曲です)や古曲なんかは、洋楽と一番違う点は"間(ま)”にある、って聞いたことがあるんです。
洋楽はメロディーやハーモニー、リズムなどが三要素、とも言われたりしていますが。和の音楽では、全く音がない無音状態でも、"間(ま)“として音楽の一部なんです。
そう考えると、日本人ってたぶんそういった余韻、というかわびさびというか。なんだか繊細な感性をもっている気がするんです。つまり、昔から日本人は、「間」を愉しんできたんじゃないか、って思うわけです。
よく考えてみると「ししおどし」とかもそうですよね。何かメロディーがあるわけじゃない。だからといって無音でもない。なんだか"間(ま)”が強調されて愉しまれている例の一つだと思うんですよね。
"間” のおもしろさ
今の世の中、白か黒か、みたいなところから「グレーもあるよ。」「何ならオレンジどう?」みたいに選択肢が増えつつあると思うんです。
でも同時に、未だに二項対立で白か黒か、みたいなところも多いに残っていると思うんです。それはたぶん、わかりやすいから。現状みんなに共通認識ができているから、そのままの方が楽なんだと思うんです(それは悪いとかではなく。生物として、現状維持の方を選びやすいという特性もあるとかないとか…)。
でも、インターネットが様々な人とのつながりを促進し、多様性が叫ばれるようになってから、少しずつ変化していると思うんです。ほんとに少しずつかもしれませんが。
だからこそ、"間” を愉しむ、ってけっこうおもしろいことかもしれないな、と感じ始めています。
ちなみに、「生きるように働く(ナカムラケンタ)」という本の中でも、「間の人」という表現が出てきます。境界線をあいまいにしている、という意味合いだったように思います。
実は「一緒に冒険する(西村佳哲)」でも、「障害は間にあると思う」という言葉が出てきます。したいという欲求と対象の間に障害は生まれる、というような内容だったと思います。
どちらの本で出てきた内容も、個人的にはとても興味深く感じられました。まぁそんなこともあって、"間” について考えるようになったのかもしれません。
よかったら皆さんも、たまには黒か白かではなく、"間” について、愉しんでみませんか?
最後に。
さて。今回は"間” について少し考えてみました。私自身、高校でも理系なのに生物と日本史(多くの理系生徒は物理と地理)を選択してみたり。小中と野球部だったのに高校では文化部である邦楽部に入って大学ではまたバレーボール部に入ったり。いろいろと中途半端にしてきたことも影響あるかもしれません。
中途半端というのではなく、二つの物事の境界線に立つ、いわゆる"間”の人になっていたのかもしれない。と考えると、なんだか自信がもてますしね。(笑)
以上。今日もお付き合いいただきありがとうございました。よければまたお会いしましょう。では。