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「われは熊楠」岩井圭也著ブックレビュー:2024年8月30日付日高新報掲載

 和歌山市駅の近くに百年以上続く酒造会社がある。ここが世界的博物学者・南方熊楠の生家である。父の弥右衛門は荒物商や両替商を営み一代で財を築いた。酒造会社はその余力として始めたものである。長兄の弥衛兵が跡を継ぐが放蕩が激しく、三男の常楠が跡を継いだ。次兄の熊楠には「天狗の生まれ変わりじゃ」と世人が例えるほどの学才があった。例えの一つは十二か国語を自由に操れたということである。この学才に惚れ込み三男の常楠は生涯を通じて熊楠を支え続けた。
 熊楠は和歌山中学(現・県立桐蔭高等学校)から大学予備門(現・東京大学教養課程)へと進む。しかし、そこは熊楠にとってつまらないところであった。熊楠は研究を進めるべくアメリカやイギリスへと赴いた。イギリスでは知己を得て、大英博物館で研究を続けた。その研究や生活のすべては常楠からの仕送りであった。帰国後の那智勝浦での粘菌採集や田辺市での研究生活も同様であった。
 そんな熊楠に朗報が届く。生物学に造詣が深い昭和天皇からのご進講の依頼である。昭和天皇は赤坂御用地で新種の粘菌の発見もされていた。そのせいもあって南方熊楠を粘菌研究の第一人者として知っていたのである。
 昭和四年六月、雨降る田辺湾に戦艦大和が入港した。この船の中で熊楠はご進講したのである。熊楠にとってこれほどの名誉なことはなかった。父にも弟常楠にも恩返しができたと思った。
 本作品は第171回直木賞候補作であるが受賞はならなかった。これを考えて見ようと思う。本作品は博覧強記的に南方熊楠を捉えているように思える。ゆえに作品としての弱さを感じた。司馬遼太郎のように「日本人とは何か?」、と同様「熊楠とは何か?」と、問いかければ受賞していたのではないだろうかと愚考する。
 熊楠は死の床で、昔食べた握り飯のことを思い出していた。
 -常楠の握り飯(にんにこ・紀州弁)は、うまかった。そう思い出し、熊楠は瞼を閉じた。

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