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【つながる旅行記#175】日本郵船 氷川丸の長い歴史を知る
過去2回に渡って見てきた氷川丸だが、今回で最後だ。
氷川丸の設備はしっかり見たので、次は歴史について学んでいこう。
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さて、氷川丸が建造されたのは1930年。
欧米との貨客船競争に対抗するために日本郵船が作った船のひとつだ。
氷川丸が担ったのはアメリカのシアトルへの航路。
シアトルへの処女航海は5月17日に出発、5月27日に到着した。
・・・
(そもそもシアトルってどこだ…?)
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そんな氷川丸のサービスの良さは評判だったらしく、その後も日本とシアトルを繋ぐ船として活躍した。
前回話した一等特別室がチャップリンや秋篠宮夫妻に利用されたり、宝塚少女歌劇団などが帰国する際にも氷川丸が使われたそうだ。
アメリカでは「ハイカワマル(HIKAWAMARU)」として親しまれた。
(この間違った呼称は初めてシアトルに到着したときのラジオで広まったらしい)
……しかし1941年、シアトル航路の閉鎖が決定される。
なぜかといえば、戦争が始まるからだ。
同年11月には、氷川丸は大日本帝国海軍に徴用されることとなる。
だが、これは既定路線であった。
ワシントン海軍軍縮会議によって空母の保有数を制限されたことに対する対策として、日本郵船の生み出した氷川丸を含む多くの大型貨客船は、有事においては改造を行って航空母艦として利用することが建造時から想定されていたのだ。
結果的に、氷川丸は病院船として使われることになる。
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塗装も病院船仕様に変更され、水木しげるも行ったあのラバウルや、インドネシア、パラオ、サイパン等々で活躍し、3万名以上の傷病兵を運んだ。
病院船であろうと軍船の近くにいると攻撃対象にされるようで、氷川丸は計3回ほど触雷を受けつつも、どうにか生き残る。
だが徴用された民間商船の多くは護衛すら付けられていなかったため、総トン数100トン以上の船舶約2500隻の約90%が沈められた。(亡くなった船員の数は、軍人よりも民間人の方が多い)
日本郵船の生み出した氷川丸の姉妹艦も次々と戦没する中、氷川丸はどうにか沈むことなく、舞鶴海軍工廠で終戦の日を迎えることになる。
だが、終戦後も氷川丸は休むことなく働き続ける。
終戦したとはいえ、南の島々には飢餓状態の日本兵が大量に取り残されている状況だったのだ。
氷川丸は2万人に及ぶ軍人を南の島々から日本に運び、続いて約8000人の民間人を日本に送り届ける「引揚船」として活躍することになる。
そう、あの舞鶴引揚記念館で知った引揚船である。
氷川丸は旧満州や北朝鮮にいた日本人を救出するべく働いた。
しかし満州や北朝鮮はソ連と国境を接している場所。
ソ連軍は日本の降伏後に一気に攻め寄せ、多くの民間人犠牲者を出した。
氷川丸はそんな過酷過ぎる状況の中で必死に逃げてきた人々を、博多や名古屋へと運んだのだ。
そして氷川丸の仕事はまだ終わらない。
この前ララ物資を紹介したが(#171参照)、戦後の日本の食料・物資不足は尋常ではなかった。(成長期をこの時代に過ごした人は露骨に身長が低いらしい)
氷川丸は活躍の舞台を北海道航路に移し、食料や石炭を運んで戦後の日本を支えたのだ。
運んではいけない統制品(小豆やするめ)を持った人も運びまくりだったので、闇船なんて呼ばれたりもしたが、そんなこと言ってる状況じゃなかったのだろう。
都市部ではあらゆる闇に頼らねば生きられなかった時代の話である。
そして1950年を過ぎ、連合国の支配下にあった日本の船舶の統制もやっと解かれ始め、氷川丸は日本郵船の船として再びシアトル航路に復帰する。
今度はアメリカと日本の交換留学生を運ぶ船として。
船内での会話はすべて英語が使われ、ディスカッションも頻繁に行い、もはや船の中から留学が始まっていたなんて話もある。
第1回の交換留学生には、ニュートリノの観測でのちにノーベル物理学賞を受賞することになる小柴昌俊さんも参加していたそうだ。
戦争を乗り越え、戦後の混乱期にも国民を助け、アメリカとの架け橋として最後まで活躍し続けた氷川丸。
30年もの激動の航海を終えて横浜のシンボルとなった彼女は、
今日も静かに、横浜を見守っている――
なるほど……
めっちゃ凄い船じゃん……!
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いやちょっとこれは、来て大正解すぎた。
舞鶴やら引き揚げやら、今まで自分が触れてきた情報とも噛み合う部分があって、なんだかもう本当に満足度が凄い。
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ああ、やっぱり知識って大事だな。
そしてそんな歴史上活躍した存在を直に体験できることの素晴らしさ。
ありがとう氷川丸。そして保存してくれた人たち。
いやー、横浜観光してよかった。
あと、カップヌードルミュージアムが休みで良かった。
カップヌードルミュージアムに行っていたらここに来ていなかったかもしれないし。
人間万事塞翁が馬だ。
そんな感じで、次回へ続く…
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