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母が、家族が怖かった。たぶん今でも。

不登校児だった。
保育園、小学校、中学校、高校に至るまで。高校は結局中退した。
わたしは家族の持て余しものだった。


幼少期の嫌な記憶は消えない。
保育園に行きたくなくて泣いて泣いてえずく自分。
言うことを聞かないとお尻を叩く母。
何かあると「もう知らないからね!」と憤慨して、すごい物音を立てながら家中を掃除する母。物音が怖くて怖くて部屋で小さくなっていた。
どうしても学校に行けないでいると「自分で電話しなさい!」と受話器を押し付けてきた母。小学校3年生くらいだっただろうか。
寝起きに小さなおやつをもらってなんだか幸せだなと思っていたら、それは学校に行くのと引き換えだったらしく、学校には行きたくないと言ったら烈火の如く怒った母。「お菓子まで用意してやったのに!」と。
お菓子を与えることと学校へ行くことに何の因果関係があるのか今でも分からない。
不登校を「病気」だと言って有名な小児科へ連れて行かれ、検査を受けて、しかしそれで何が変わるはずもなく学校には行けないまま、ただ「自分はおかしいのだ」と苦しんでいた自分。
泣いても、吐いても、頭が痛くてもお腹が痛くても無視してテレビを見ていた母の後ろ姿。
両親も兄もわたしが仮病を使っていると思っているようだった。

階段から転げ落ちて首でも折れれば死ぬだろうと、階段の1番上の段で1時間以上も座り込んでいたのは中学校に上がったころだっただろうか。居間からは楽しそうなテレビの音と家族の声が聞こえていた。
どうして学校に行かないのか、明確な理由を欲しがって問い詰めてくる母。
いじめられていたわけではない。
先生は好きな人も苦手ない人もいた。でも関係なかった。
勉強は嫌いだったし、中学に上がると途端に成績が落ちたけれど、それだけが不登校の理由ではないように感じていた。
自分でも本当に、学校に行けない理由が分からなかった。

答えられずにいると、何とか言いなさい!と激しく怒られた。萎縮して余計に言葉が出なかった。わたしには場面緘黙症の気があるように思う。
自分の辛いことについて話していて思わず涙がこぼれたとき、「ああもう、泣かないでよ」と心底嫌そうに言った母。本当に、本当にものすごくショックだった。以来今でも泣くのは苦手だ。
父の愚痴を延々と聞かせてきた母。
わたしを束縛しようとした母。

友人が若くして亡くなり、憔悴しきって部屋にこもっていたわたしを呼びつけて、「心配したんだから顔くらい見せなさい!」となぜか怒った母。


思い返せばわたしは母が怖かった。家族の目が怖かった。


虫垂炎になって激しい腹痛に苦しみながら「病院に連れていってほしい」と兄に頼んだら、「また仮病かと思ったらマジで顔色悪くて笑った」と言われたこと。お医者さんが、手術をするから親御さんに連絡をと言ったときも兄は「マジか」と笑っていた。
学校に行かないわたしの生活に頑なに触れようとしない父。
目を吊り上げて怒る母の顔。
まともに進学できなかったわたしを馬鹿にしていた兄。
どうしても忘れられないのだ。
特に、一番接することの多かった母の態度はわたしを終始追い詰め続けた。

学校に行けないことや辛くてたまらない出来事を、「そうなんだね、辛かったんだね」と肯定してもらったことが一度もない。

そのくせ大人になるにつれて母はわたしを束縛しようとした。
無自覚なのだろうが、確実にわたしに依存していた。部屋で好きなことをしているところへ「お菓子買ってきたよ」と子供じみた言葉で釣ろうとしたり、なぜ部屋から出てこないのかと拗ねたり詰ったりしてみせた。
三十路を越えてからようやく自立しようとする娘を拗ねた顔で引き留めようとする母に、呆れと微かな怒りを覚えた。


両親は恐らく普通の人たちだ。
普通に学校に行き、普通に大人になり、普通に就職して、普通に結婚して子供をもうけた。その人生の中で、「なぜ自分は周りと同じことができないのか」と苦痛に思ったり疑問を感じたりしたことがないのだろう。
わたしは彼らにとって異物だったはずだ。思うとおりに育たない子供。普通でない子供。彼らも苦しんだだろうとは思う。
だが、わたしは本当に家族が怖かった。学校に行けなかった日は家に居場所がなかった。兄から見下されていたのも薄々感じていた。
それがどうだ。
就職し、ようやく家を出るとなった途端に「出ていかなくてもいいのに」と言わんばかりの態度をとる。お見合いの話が出たりすると父は明らかに不機嫌になった。幼少期のわたしをあれほど苦しめた家族が、わたしが家を出ることなど考えてもみなかったと態度で表す。
日本的機能不全家族という言葉を知った。それぞれの「役割」をこなすのに必死になってどんどん生きづらさを増し、互いを縛り続けることになる家族の関係性。
堪ったものではない。
はっきりいってわたしは両親の老後の面倒を見る気はないし、未だに実家でふらふらしている「子供部屋おじさん」と化した兄の面倒を見る気もない。
結婚して子供を産み孫の顔を見せてやるような義理もない。
家庭なんてくそくらえだ。


それでも、「家族が嫌いだ」と言ってしまうことに強い抵抗を覚える。
親に、兄に、何かあったら面倒を見てしまう未来が見える。
子供なのだからそうせねばならない、と、誰かに植え付けられた常識のようなものが心の中に根を張っている。


楽しかった記憶だって少なからずあるのだ。
たくさん旅行に行ったこと。他愛のない話で盛り上がり笑い合ったこと。たくさん本を読んでもらったこと。
なぜだろう、いま家族と離れてやっと安心しているのに、「あの頃のように仲良しでなければならない」とわたしの中の何かが言うのだ。
嫌ってはいけない。
見放してはいけない。
顔を見せに帰ったり、定期的に親孝行しなくてはならない。
孫の顔を見せられないなんてわたしはなんて親不孝者なんだ!!

……相反する感情が未だに、こんな歳になっても自身を縛り付けている。
女なのだから親元から遠く離れるのは良くない、とどこかの常識が言っている。就職して上京するのだといった年下の知人に出会うまで、県外に出るなど頭に過ったこともなかった。
地方の因習に縛られた女だ。
親戚の集まりでは女だけが立ち働き、男たちはただ座って料理が出てくるのを待ち、酒を飲んで騒いでいる。子供だからといって例外はなかった。上手く立ち回れないわたしはおろおろしたものだ。
早く結婚して子供を産んでね、お母さんが面倒見てあげるからね、と10代のころから言われ続けていた。
今考えると吐き気がする。
親類の中で結婚していないのは恐らくうちの兄妹だけだろう。
親を喜ばせるために結婚するなんて絶対に嫌だ、子供も欲しくない。
でもどうしても、「自分は親不孝をしている」と痛みを伴うほどに思う。
辛い。


知人から、娘が不登校気味で、と相談されたことがあった。ぶしつけな質問だと分かっているけれど、不登校児だった当時のあなたはどんな気持ちだったの、と。
知人にも娘さんにも力になれたらと思って色々と話をした。けれど過去を話すわたしの顔は引きつっていなかっただろうか。できるだけ笑顔を浮かべたつもりだ。
当時の自分は今でも心の中に住んでいる。
苦しみを抱えて。ひとりきりで。
こうして吐き出していかないと息が止まりそうなほど。

酔って友人と家族の話をしていて泣いてしまったとき、「頑張ってきたね」と慰められて、わたしが子供のころ欲しかったものはこれだと感じて余計に泣けた。
たったそれだけで、家族と距離を置くことへの罪悪感がかなり減った。
たぶん子供のころのわたしをちゃんと慰めてあげないといけないんだろうと思う。家族に拒絶感を覚え続ける子供の自分を。
どうしたらいいのか、考え続けている。



長い話を読んでくれてありがとう。
わたしの長い苦しみに時間を割いてくれてありがとう。
どうか、誰もが何にも怯えずいられる日が来ますように。

今日は母と出かけます。
複雑な気持ちのままで。

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