『スーツ=軍服!?』(改訂版)第53回
『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載53回 辻元よしふみ、辻元玲子
四、ネクタイと、色彩や柄の章
①クラヴァット普及までの謎
◆真相はルイ十三世か、十四世か?
今のネクタイの直接の源流は、クラヴァットというもので、その発端はフランス軍に登用されたクロアチア傭兵のスカーフ、というのが一つの定説だ。
これにはいくつかのバリエーションがあり、「ルイ十三世がクロアチア兵のスカーフを見て、側近にその名を質問し、クラヴァット(クロアチアの)という名を教えられた」というのがよく聞かれるパターンだが、ほかにも、「ルイ十四世の護衛兵が広めた」「ルイ十三世の時代に、フランスにやって来たクロアチア傭兵を見て、王太子のルイ十四世が側近に質問した」、あるいはルイ十三世は完全に省略され「ルイ十四世が閲兵していて質問した」など、など、である。
また、クロアチア傭兵の逸話には必ず添え書きとして、「その起源は古代ローマ軍の兵士が首に巻いたフォカーレというスカーフである」という話もよく出回っている。それは一種の護符、お守りのようなものだった、あるいは演説者が喉に巻くものだった、という説明付きで。
本当のところはどうだったのだろう。
◆ローマ軍のフォカーレ
最初に、古代ローマ軍のフォカーレfocaleについて見ておこう。
ファッション関係ではなく、ミリタリー系の文献を見ると、ローマ兵士のフォカーレというのは基本的には、ファッションではなくて、ヘルメットが首筋に当たってすれるのを防ぐための摩擦緩和用の布と説明される。ローマ軍のヘルメットも時代と共に変化してきて、だんだん首筋から後頭部を守る張り出しが大きくなり、また重くなってきた。三浦權利『西洋甲冑武器事典』によれば「攻城の際の落下物から首の後ろを保護するために、旧式の兜より錏(しころ):首当てが大きくされた」とある。
このため兜は必然的に重くなり、首に当て布を巻くことが必要になった。護符とかお守りの意味があるのかないのか、それについては日本語の文献にはよく出てくるのだが、はっきり言って分からない。ただ、赤い色というのが軍神マルスの勝利の色で、それにあやかってフォカーレも赤い布だったのではないか、と推測されており、その意味では必勝祈願というニュアンスもあったかもしれない。
フォカーレの根拠として取り上げられるのはトラヤヌス帝の記念柱に描かれた彫像である。マルクス・ネルヴァ・トラヤヌス帝(五三~一一七)はスペイン属州出身の初のローマ皇帝で、長年、ローマに抵抗してきたダキアに侵攻、五年にわたる戦いでダキア王デケバルスを打倒し、この地を服属させたうえで「ローマ人の地」という意味のルーマニア、と改めた。そして、一一三年ごろにダキア遠征の勝利を記念して建立したのが、問題の高さ三十八メートルもある記念柱である。その柱には確かに何種類か、ネクタイのようなスカーフのようなものを、首に巻きつけているローマ軍団兵士のレリーフが刻まれている。
ただ、少し前の時代のローマの詩人、セネカ(前四~六五)やホラティウス(前六五~前八)の書には、フォカーレというのは雄弁家が喉を守るためのもので、兵士などがするものではない、老人か軟弱な連中がするものだ、という記述がある。屈強な兵士なら少々重かろうが鉄兜ぐらい支えられる、ということだ。「演説家のためのもの」という説はそのへんから出てくるのだろう。
では、どうしてトラヤヌス記念柱の兵士はフォカーレを巻いているのか。そこは推測だが、記念柱なのだから兵士たちは英雄として、パレード用の盛装で描かれているのではないか、というのである。実用がどうこう、というよりは儀礼用の軍装だったのではないか、というのである。
ローマ軍のフォカーレがクロアチアの兵士のネッカチーフに直接、結びついているという記述が世の中には多いのだが、はっきりそれが源流といえるのかは疑問だ。先のトラヤヌス帝記念柱の話で出てきたダキアは今日のルーマニアで、クロアチアもその近隣地域であるから、ローマの風習が伝わっていて不思議ではない。とはいえはっきりした根拠は見当たらないようだ。実際にはクロアチア人の源流はペルシャにあり、スカーフのようなアイテムもペルシャが起源なのではないか、という説も近年は見られる。