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『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第61回

『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載61回 辻元よしふみ、辻元玲子

将軍にはなれるが大佐にはなれなかった

今日においても、「コロネル=大佐」というのは一つの軍人の目標であって、定年までに少なくとも大佐までにはなりたい、という憧れのランクである。実際、このランクから停年が延び、給与水準も格段に上がり、待遇がぐっと良くなる国が多い。大佐の上は将官で、民間企業で言えば重役に当たる。大佐になるということは、企業で言えば、取締役候補の部長になる、というぐらいの意味である。
王政の時代には、コロネルは連隊の指揮官であり、事実上のオーナーでもあり、世襲貴族の受け継ぐものでもあった。だからフランス軍では、わざわざルイ十四世は、叩き上げの優秀な中佐を、大佐を経ないで准将にするという特別昇進制度を作って人材登用を図った。有名な築城の権威ヴォーヴァン元帥などもこの制度で将官になれた人物である。逆に言えば、有能な人物なら准将にでも元帥にでもなれるのに、大佐にはおいそれとなれない、という事情があった。大佐はあくまでも家柄でなるものだったのである。
プロイセン軍では連隊長はシェフと呼ばれ、別格の存在であって、特定の近衛連隊のシェフは王や王子が自ら務めた。シェフの下に実際の指揮官であるオベルスト(ドイツ語で大佐)という階級があって実際の指揮を執った。シェフは全くのオーナー、だが、必ずしも名誉職ということではなく、シェフ自ら陣頭に立つことも多かった。とはいえ、連隊長と連隊指揮官が別だったということだ。シェフが携えた指揮棒は後の時代のドイツ軍では元帥だけが使用できる元帥杖となっていく。それほど連隊長は格が高く、将官相当であった。
英国においても、しばしばナポレオン戦争の時期あたりに、こんな経歴の将校がいる。つまり大貴族の子弟で、父親の領地の小作人を集めてにわかに連隊を作り、臨時中佐に任命されて連隊長として従軍、という形である。連隊というのはオーナーである貴族・領主が私的に設置できた、ともいえる。
こういうことは、十九世紀後半のアメリカ南北戦争(一八六〇~六五)のときにもまだあり、映画「グローリー」(一九八九年)で描かれた。この作品は、小作人である解放奴隷の黒人を集めた連隊を急ごしらえで作り、アメリカ初の黒人連隊を組織した大地主の息子の話である。マシュー・ブロデリック演じる大した軍歴もないその若者は、急きょ北軍大佐の階級をもらうことになる。十九世紀末まで、国家の正規軍と個人の私設軍隊の境がいまだ、あいまいだった、ということである。
正規軍が整備されるまで、アメリカではしばしば地方名士に「民兵大佐」や「民兵中佐」の階級を乱発し、市民の部隊を組織させて防衛の一助とした。住民から選任される保安官や民兵を置き、平時には過大な軍事力や警察力を中央政府にあまり持たせない、というアメリカ独特の発想に基づいている。そもそも初代大統領ジョージ・ワシントンも最初の階級は「民兵中佐」だった。アラモの戦い(一八三六年)のとき、砦にこもったわずか二百人のテキサス軍(中隊規模で、せいぜい指揮官としては中尉か大尉で十分な人数であろう)にデビー・クロケット、ジム・ボウイという二人の民兵大佐と、砦の指揮官のトラヴィス中佐がいた、というのも、いかにもアメリカらしいことで、大佐が大貴族とイコールである欧州の事情とはかなりイメージが違う。
海軍でも、大佐が艦長、という軍艦は、おおむね巡洋艦以上の大型艦であり、格が高い。それほど大佐は尊重されるものである。その仕事である連隊長というものにも、特別な意味合いがこもるのである。

日本軍向けにすっきりと翻訳

さて、十九世紀後半になって開国し、新たに近代軍隊を設けることになった明治新政府の日本は、こうして完成した西欧の軍隊制度を全面的に取り入れ、日本語に翻訳する必要があった。
それまでの日本の律令制度の中で存在した、朝廷の軍事組織である近衛府や兵衛府、衛門府、鎮守府などの官職の名前を使って日本語にしたのである。日本の武官の官職では左右の近衛大将、近衛中将、近衛少将、左近(右近)将監(しょうげん)、左近(右近)将曹(しょうそう)というのがあった。兵衛府には兵衛督(ひょうえのかみ)、兵衛佐(ひょうえのすけ)、兵衛尉(ひょうえのじょう)があった。
これらをあてはめて、上からジェネラルを大将、リューテナント・ジェネラルを中将、メジャー・ジェネラルを少将と翻訳した。その下のブリゲイド・ジェネラルは将に準ずるという意味で「准将」と名づけた(ただし、日本軍には実際には准将という階級は設けられなかった)。
その次の階級は、大・中・小で表す将官にならって、高級将校はコロネルを大佐、リューテナント・コロネルを中佐、メジャーを少佐とした。下級将校はキャプテンを大尉、リューテナントを中尉、セカンド・リューテナントを少尉とした。
その下位にある下士官のサージェントは官職の将曹から字を取って「軍曹」と名づけ、コーポラルは中国古来の軍制にあった五人隊の長である「伍長」の名を当てた。
興味深いのは最高位の軍人であるフィールドマーシャルの翻訳で、大将より上を表す日本の官職はなかったので、急遽、持ち出されたのが、仏教用語だった。仏法を守る仏の軍勢の総大将とされる大元帥明王(だいげんみょうおう)の名である。すでに中国歴代の軍隊では将官の官名として使用されてもいたので、ここから「元帥」の二文字で「げんすい」と読むようにした。
また軍の編成も、中国以来の五人隊(伍)、十人隊(什)、百人隊(旅)、千人隊(連)などの漢字をあてはめるほか、適当に大中小の文字も使用し、ディヴィジョン(師団)、ブリゲイド(旅団)、レジメント(連隊)、バタリオン(大隊)、カンパニー(中隊)、プラトーン(小隊)などと翻訳したのだった。
長い年月をかけて徐々に補足を受け、すでに完成した西欧の組織に、後で文字をあてはめたため、階級も組織も、日本語訳のほうが大中小で上下を表すすっきりとした表現となったわけだった。
旧日本陸軍においても、軍隊で最も基本的な組織は連隊とされた。徴兵のための召集令状は、本籍地にある連隊から発送され、そこに出頭することになっていた。


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