『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第73回
『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載73回 辻元よしふみ、辻元玲子
◆生半可な知識での批判は・・・
「硫黄島」の話題の続きである。
小笠原は暑く、硫黄島はことに熱暑の地。実際はほとんど上着など着ず、シャツ姿のいわゆる防暑服だったと思う。いやむしろ、在陣中は、ほぼ裸だったのが真相ではないかとも思う。イーストウッド監督の映画の中で、栗林司令官が島内の視察に歩き回るシーンでは、栗林はシャツ姿の防暑服になっていた。また、歩き回る際には乗馬用の長靴(ブーツ)ではなく、歩きやすいアンクルブーツに脚絆(ゲートル)に変更していた。このあたりはなかなか芸が細かくて、衣装担当の人のリサーチに感心したが、しかし面白いことに、当時の写真を見ると、そのいかにもありそうなことが事実ではなく、実際の栗林は、略装の時も乗馬ブーツで通していたようである。騎兵科出身の栗林は、ロングブーツに愛着があったのだろう。
一方、硫黄島の戦闘は四五年の二月であり、小笠原といえども真夏の盛りではないから、また過剰に「暑かったはず」と強調するのも違うと思う。事前に偵察に当たったアメリカ側の水中工作員は、海水の冷たさに苦労したという。一方、硫黄島守備隊で斬り込みに参加した人の手記を読んだことがあるが、戦死前提のため軍服の襟の階級章を二階級特進して取り替え、突撃していった、というような記述を見たことがある。つまり上着を着ていた、ということで、ずっとハダカであったように強調するのもまた、思い込みなのだろう。
さてそれで、「着任のときの礼装はともかく、戦闘開始の時の礼装はいかがか」という意見があろう。しかしあれは映画上の演出というものだろう。欧米の文化を知り洒落者でもあって、さらにアメリカに対して敬意を抱いていた栗林の内面を表現する「彼にとっての対米開戦の礼装」という意味合いに思った。少なくとも、映画の中では軍用行李(トランク)に、栗林は家族への手紙や手記、それに勲章や階級章のスペアなどを入れて乗り込んでいて、最後は自分の階級章を軍服から外し、行李に収め、それを副主人公である一兵士に託して「焼却しろ」と命じるのである。
つまり、狂信的なステレオタイプの日本軍人ではなく、アメリカの文化も熟知しており、ルックスにも身の回りにも気を使うあか抜けた司令官、として描きたかったということ。当時の栗林について、生存者も少なく、最後がどうであったかもはっきり分かっていないのだから、そのへんの演出が入り込むのは全く問題ないと思う。別にドキュメンタリーではないので、そういう史実の大枠を逸脱しない範囲の、演出的ウソも許されるのではないだろうか。
それよりなにより、公開当時に気になったのは、なまじい「参謀肩章」なんて知識を生半可に知っていて、鬼の首を取ったように批判する輩が多いことだった。
そういう者がまた、「ところで胸に着けている星型の勲章は何? アメリカの勲章?」なんて書いていたりした。あれは「隊長徽章」というのだよ、若者よ、と教えてあげたくなったものだ。
かつて、陸軍大学を出たエリートだけがああいう形のバッジを「陸大徽章」として胸に着けた。形が江戸時代の古銭「天保通宝」に似ていたので「天保銭」と呼ばれ、そこから陸軍ではエリートを「天保銭組」、そうじゃない人を「無天」と呼んで差別した。例の二・二六事件というのも、無天の将校の天保銭エリート組に対する怨嗟が遠因の一つである。
だが、二・二六事件以後、あからさまなエリートの記号である天保銭は廃止となった。そしてなぜか、同じデザインのものを今度は指揮官の目印として採用した。三根生久大『陸軍参謀』には「陸大卒業を示す徽章は、菊座は銀、星章は金で、どっしりとしたいぶし銀の光彩を放っていたが、昭和十一年の五月に廃止され、その後は部隊長徽章として用いられた」とある。なんでそんな紛らわしいことをしたのか知らないが、エリートから徽章を取り上げ、隊長と呼ばれる最前線の責任者にあえて同じものを着けさせて、ガス抜きを図ったのかもしれない。
つまり、昭和十一年(一九三六年)以後は中隊長とか連隊長とか、長と名のつく者がつけるメダルとなった。すなわち、スタッフじゃなくラインの人である、という意味だ。
栗林は兵団長、師団長なので、その資格での隊長徽章を着けているのである。
◆「戦闘服」の普及は戦後のこと
さて、ここまで映画「硫黄島からの手紙」の話題にふれながら、「第二次大戦当時、ほとんどの国には戦闘服などというものは、まだなかった」と書いてきた。ここで戦闘服、いわゆるバトルジャケット、というものについて取り上げておこう。
そもそも軍服というのは、戦闘で着る服である。とはいえ、昔の刀や鑓の時代の戦争では、軍服=鎧兜であったのは世界共通である。これが、鉄砲、飛び道具が出てきて、さらに威力を増してくると、どうせ銃弾の貫通を防げない甲冑は重いだけであり、値段も高いので、結局、着なくなるのである。それがちょうど、ルイ十四世やチャールズ二世が新しい服装を導入した十七世紀と重なったのである。
当時、銃や大砲に使用された黒色火薬はもうもうと煙を上げた。そんな中、敵も味方も分からないような状況で、はっきり指揮官に見分けがつくように、派手な色彩のそろいの衣装を着るようになったのが軍服の始まりである。そもそもは十七世紀初めにスウェーデン軍が採用したものが、国家が正式に定めた軍服の始まりだった。
十九世紀初め、ナポレオンの時代には、派手な色の軍服花盛りとなり、そのまま二十世紀の初めまで色とりどりの華やかなままで推移する。しかし、煙が出ない無煙火薬の普及、ライフルの登場による命中精度の向上、射程の増大により、あんな派手なものは着ているわけにいかなくなり、十九世紀の半ばには、目立たないカーキ色の軍服が登場する。そして第一次大戦のころまでに、世界中の軍服がカーキ色や灰色などを中心とした、目立たない色に変化した。
が、この時期になっても、装飾や色使いを簡略化させただけで、基本的には通常の軍服のまま、戦闘に出ていたのである。
そのまま、日本を初め、ドイツ、ソ連などの軍隊では第二次大戦の最後まで、戦闘専用の服というものは採用しなかった。