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小説を書くということ

ボクは小説を書いたことがない。でも小説を書きたいと思ってペンを握った回数は、助手席に意中の女性を乗せて車のハンドルを握った回数よりはきっと多い。そもそも免許がないわけだし。

しかし小説を書きたいと思うことはあっても、実際にどうやって書くのかという話になるとまるで見当がつかない。子どもの頃から、絵でも音楽でも工作でも頭の中にあるファンタジーを表現するのが苦手だった。恥ずかしかった。クリエイティブという言葉は自分とは無縁の外来語なのだと遠ざけてきた。

村上春樹の場合、長編小説は次のような手順でつくられる。

これは『職業としての小説家』(新潮文庫)というエッセイに掲載されていた本人談の手順だ。村上春樹が長編小説を書く手順を知ったところで、世界中のハルキストたちを熱狂させる独創的な小説が書けるようになるわけはない。とはいえ当代随一の作家の小説の書き方は、少なくともボクにとってはケンタッキー・フライド・チキンやコカ・コーラの極秘レシピなんかよりよっぽど高価な代物だ。

村上春樹の長編小説の書き方

  1. 机の上にあるものをきれいに片付ける

  2. 原稿用紙10枚を毎日書く

  3. 第一回目の書き直し

  4. 二回目の書き直し

  5. 養生する

  6. 第三者の意見を聞く

  7. とんかち仕事

①机の上にあるものをきれいに片付ける

「机の上にあるものをきれいに片付ける」というのは比喩であって、定期試験前日の学生のように文字通り机の上をきれいにするわけではない。机の上をきれいにするとは「小説を書くほかには何も書かない」体勢をつくることだ。

目の前の小説以外の書き仕事が何もない状態にする。エッセイがあれば中断し、飛び込みの仕事もよほどのことがなければ受けない。〆切のない翻訳作業を気分転換に進める以外、基本的に小説を書くときは小説だけを書く。

まだそれほど売れていない時期にも、生活費のために文筆とはまったく関係のない仕事を日常的にやっていたことはあった。でも書き物の仕事の依頼は原則として受けなかった。

よほどの人気作家でもない限りひとつの小説だけを半年一年と書き続けるのはあまり現実的とは言えないだろう。だけど長編小説を書くのには莫大なエネルギーを使うだろうし、小説以外のモノを書けば書くほど作品が細くなってしまいそうな気もする。

人間には精気というものがあり、人それぞれに精気の量は決まっている。この精気なるものは抑制すべきである。抑制すればやがて溢出する力が大きく、ついに人間、狂にいたる。しかし、おのれの欲望を解放することによって、固有の気が衰え、ついに惰になり、物事を常識で考える人間になってしまう。- 吉田松陰

癒しツアー

吉田松陰の言葉にも通じる話だと思った。長編小説なんていうのは人間の創造性の極致だ。今のボクにはとても想像しえないが、それは言葉を抑制して抑制した先にはじめて現出する狂おしい世界なのかもしれない。

②原稿用紙10枚を毎日書く

長編小説を書く場合、一日に四百字詰め原稿用紙にして10枚見当(マックの画面では二画面半分)を書くのが村上春樹のルールだ。もっと書きたくても10枚、調子が今ひとつ乗らなくても10枚、タイムカードを押すみたいに、一日ほぼきっかり10枚を書く。

朝早く起きてコーヒーを温め、四時間か五時間、机に向かう。一日10枚の原稿を書くと、一か月で300枚。半年で1,800枚。主にハワイのカウアイ島のノースショアで書かれた『海辺のカフカ』の第一稿がちょうど1,800枚だったという。

なんだか芸術家っぽくはない。毎日決まった分量をこなしていくのはどちらかといえばサラリーマン的だし、一般的に我々がイメージする自由奔放で反俗的な作家像とはずいぶんかけ離れている。しかし

「小説家というのは、芸術家である前に、自由人であるべきです。」

職業としての小説家

という本人の言葉どおり、規則正しくサラリーマン然と小説を書くこともまた自由。芸術家というステレオタイプに縛られることはかえってその人を不自由にして、創造性から遠ざけるのかもしれない。

③第一回目の書き直し

第一稿を書き終えると、だいたい一週間ほど休んでから、第一回目の書き直しに入る。かなり大きく、全体に手を入れる。矛盾する箇所や筋の通らない箇所を調整するために、一か月か二か月くらいをかけて、かなりの分量をそっくり削ったり、新しいエピソードを付け加えたりする。

④二回目の書き直し

一回目の書き直しが終わると、また一週間ほど置いて、二回目の書き直しに入る。一回目よりもっと細かいところまで目をやって、丁寧に書き直していく。

想像だけど、長編小説の書き直しは、紙やすりの番手を上げながら木材を研磨していくイメージに近いだろうか。まずは目の粗いやすりで全体を大胆に磨き、目の細かいやすりで丁寧に仕上げていく。あるいはふるいにかけてきめの細かい柔らかな土を作るような。

長編小説というものには——ちょうど生身の人間と同じように——ある程度雑な、緩んだ部分だって必要だからです。そういうものがあってこそ、きりきりと締めた部分が正当な効果を発揮します。

職業としての小説家

でも均一性が求められる木材や土とは違って、長編小説の場合にはある程度雑な、ゆるんだ部分も必要。読者の息がつまらないように、どの部分のねじをしっかり締め、どの部分のねじを少しゆるませておくかを見定めることが大切なのだと。

⑤養生する

一回目、二回目の書き直しが一区切りついたら、一度長い休みをとる。半月か一か月くらい作品を抽斗(ひきだし)にしまい込んで、小説のことは一旦忘れてしまうおうと努力する。

しっかり寝かせたあとの作品は、前とはかなり違った印象を僕に与えてくれます。

職業としての小説家

製品や素材に空気を通らせたり、内部をしっかり固めたりする養生のように、作品をじっくりと寝かせて馴染ませる。作品を養生する工程は、同時に自分を養生する工程でもある。作品と一定期間キョリを置くことで、前には見えなかった欠点もくっきりと見えてくる。

⑥第三者の意見を聞く

しっかりと養生を済ませ、ある程度書き直しをしたら、第三者の意見を聞く段階に入る。村上春樹の場合、作家としてのほぼ最初の段階から一貫して、まず奥さんに原稿を読ませる。すべての種類の音楽を聴く、1970年代に買ったJBLのスピーカー・システムと同じように、村上春樹にとってそれが基準音になるからだ。

奥さんであれば出版社の編集者と違い、配置換えになることはまずない。相手から言われたことをそのまま受け入れるかどうかはともかく

「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」

職業としての小説家

というのが村上春樹のスタンスだ。

奥さんとの討論、書き直しを何度かくりかえしたのち全体のトーンを修正して初めて、編集者に正式に読んでもらう。編集者には合う合わないの相性があるけれども、指摘があった箇所は(助言とは真逆の修正であったとしても)すべて書き直す。大事なのは書き直すという行為そのものだから。

⑦とんかち仕事

あとはひたすら書き直しの作業。原稿の段階でもう数えきれないくらい書き直すし、出版社に渡してゲラになってからも、相手がうんざりするくらいゲラを出してもらう。ゲラを真っ黒にして送り返し、新しく送られてきたゲラをまた真っ黒にするというくり返し。

村上春樹は、そういう「とんかち仕事」が根っから好きだ。

ゲラが真っ黒になり、机に並べた十本ほどのHBの鉛筆がどんどん短くなっていくのを目にすることに、大きな喜びを感じます。

職業としての小説家

とんかち仕事をくり返していると、このあたりが限界だ。これ以上書き直すと、かえってまずいことになるかもしれない、という微妙なポイントがあるのだという。村上春樹が敬愛する作家、レイモンド・カーヴァーは、他の作家の言葉を引用するかたちで次のように書き残している。

「ひとつの短編小説を書いて、それをじっくりと読み直し、コンマをいくつか取り去り、それからもう一度読み直して、前と同じ場所にまたコンマを置くとき、その短編小説が完成したことを私は知るのだ。」

職業としての小説家

こうして村上春樹の長編小説は世に送り出され、時流という波に乗って遠くまで運ばれていく。

小説を書くということ

村上春樹の小説の書き方を知って、小説、もとい長編小説を書くということは、恐ろしく忍耐力を要する作業なのだと感じた。何か月も、下手をしたら何年も、誰にもその過程や成果を見せずに淡々を書き続ける。作ったそばから公開ボタンをクリックしていいねの数やコメントに一喜一憂するボクらの"コンテンツ"とは訳が違う。

小説を書くということは、小説を書かなかった方の人生をすっかり諦めること。そんな風にも感じた。はたして自分にそれだけの覚悟があるだろうか。

もちろん小説家として成功を収めれば、少なくとも経済的には豊かな人生を送れるのかもしれない。しかし純粋な小説家として不自由なく食べていける人が、世の中にどれほどいるのだろう。

小説家になることと小説家であり続けることはまったく別の話だ。これから狂人的なの努力をして何かの間違いで万万が一小説家デビューできたとして、2冊目、3冊目と小説を書き続け、10年20年と第一線で活躍する自分はまるで想像がつかない。それになまじデビューなんてしてしまったら、人員不足のカスタマーセンターの電話の待ち時間くらい鼻が伸びてしまって、もうこっちの世界には二度と戻ってこれないんじゃないか。(流石に杞憂が過ぎる。)

会社員や公務員をしながら、趣味や副業として小説を書き続ける稀有な小説家もいないわけじゃない。しかし副業として打ち込むにはあまりにリスキー。タイム・パフォーマンスが悪すぎる。本業の方である程度成功していて完全なる趣味として楽しむのならまだしも、限界ギリギリ崖っぷちの土俵際でもがく人間には、悠長に構えて遊んでいる余裕はあまり無い。

小説を書いていた時間、仕事や勉強に精を出していれば、もう少しまっとうな人生になっていたかもしれない。即金性の高いキャリアプランに時間を投資したほうが、少なくとも社会的には、資本主義社会のこの世の中では豊かに生きられたかもしれない。普通の幸せを掴めたかもしれない。人生の最期を迎えるときに、そんな風に後悔はしないだろうか。

しかし小説を書かなかったことで反対に、小説家という職業に挑戦しなかったことを後悔しながら人生の幕を閉じることになるのではないだろうか。

小説を書いた世界線のボクと、小説を書かなかった世界線のボク、一体どちらが幸せなんだろう。

〈了〉

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西村けいいち
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