※読書会資料 舞城王太郎「淵の王」論 不知の王殺しの物語

はじめに
今回は舞城王太郎の「淵の王」論。論と言えるほどのものになるかはわかりませんが、一考察として、出来る限りのことはして行きたいと思います。
さて、この「淵の王」という小説において前提としたいことが三つあるので、それを最初に問うところから始めたいと思います。

一、「存在しない存在」三人の謎の語り手は何者であったか。
二、「形の無い暗黒の穴」とは何か。
三、「淵の王」とは何者であったか。

そして、それらを前提として考えたいことが、この小説がどういう結末だったのか、どういう物語だったのかということです。
まず、事実的に結末を見ることはできます。それは、次の引用部分になります。

「じゃあやっぱり、どこまでいっても中途半端ってくらいが人間らしさってことだな。極めることを目指してろくなことにならねえってのはお前が証拠だ」
 男は言う。
「す、す、好き好き、好きにしろしろ」
 で、穴の中に戻ろうとするその裸の男の頭をあんたは竹内敦之のシャベルで殴りつける。バン!バン!バン!傷だらけの男の髪の短い頭がひしゃげ、血を噴き出しながら潰れる。
 そしてその暗い球とともに虚空に消える。
 え?今の、……どうして?
 あんたが言う。
「好きにするよ。これが俺の、この二年間の集大成ってとこだな」

ここにおいて悟堂は謎の男を倒します。
しかし、これは物語内においていささか唐突な行為であり「中村悟堂」の語り手も「え?今の、……どうして?」と驚いています。「里佳ちゃん」も同様に、「え……今の何……?全然意味が判らない……」と言っています。小説内の人物にこの行動の理由は判りません。
今回の目的はこれらの「不思議」の解明をしていきましょう、ということです。小説内人物には出来なかったことが我々には出来、判らないことが判ると思います。何故なら、私たちは物語を俯瞰して見ているからです。作者と同等の位置にいる読者として。

前提1、三人の語り手は何者だったのか。
この問いに関して先に結論を言うと、「中島さおり」の語り手は堀江果歩であり、「堀江果歩」の語り手は中村悟堂であり、「中村悟堂」の語り手は中島さおりだと考えます。これにはいくつかの状況証拠があります。

※以降、短編名を指すときにはフルネームで「中島さおり」、人物名を指すときには「さおり」と便宜的に区別します。
※語り手となった人物指す際には「さおりX」のように表記します。

一つずつ確認していきます。まずは「中島さおり」に登場する語り手を「果歩X」と考える根拠について、次の引用部から読み取ります。

「ロ、リー、タ」みたいに艶かしくはならないけれど、ふふ、あなたのお父さんとお母さんはきっとその響きが好きでつけてくれたんだろうね。
ナボコフの名作の書き出しを私は知ってるけどあなたは知らない。あなたは十八歳で、キューブリックの映画も見たことがない。それどころかスピルバーグの名前すら聞いたこともない。映画なんかほとんど見ない。(中略)映画が教養になるかどうかは判らないけど、あなたほとんど本も読まないものね。マンガすら。

この描写から読み取れることは、「さおり」が知らないことをこの語り手は知っているということです。具体的には、ナボコフを読んだことがあり、キューブリックやスピルバーグを見たことがあり、マンガを読む、おそらくは教養深い人物であるということです。この時点では分からないことですが、「堀江果歩」まで読み進めていくと(あるいはこの物語を周回していると?)、半ば強制的にこの人物の正体が「果歩」であると想像させられます。「堀江果歩」から引用します。

君はたくさん本を読む。
君のお家にはお父さんのお父さんが買い揃えた『世界文学全集』と『日本文学全集』が全巻並んでいて、君はとりあえず中学生になったらそれを全部読むんだと宣言し、挑戦する。

で、由起の本棚からお勧めされて君が持ち帰ったのはマンガだ。『ガンツ』全巻。

これらの描写から、消去法的に「中島さおり」の語り手は「果歩」(あるいはそれに近い「果歩X」)なのではないかと想像させられます。
ただし、映画に関してはジブリの映画にハマった描写があるのみで、とりわけキューブリックやスピルバーグを見たという描写はありません。少し調べてみましたが、『世界文学全集』にナボコフの「ロリータ」は収録されていなかったかもしれません(「要約 世界文学全集〈1〉」には収録されているのはわかりました)。なので確定はできませんが、可能性はありそうです。

加えて、次の事実確認として、この「中島さおり」の語り手は女性であることがわかっています。

彼氏の西村三奈想くんとは去年の春にセックスしている。それが杉田浩輝くんに彼女ができてすぐだったってタイミングについてはツッコミなしだ。女の情け。

語り手には性の自認があり、それは「女」であることがわかります。それゆえに「女の情け」と言うことが出来ます。後の展開で「杉田くんへのお別れは私の恋の終わり」と言っていたことも、語り手の性について強調していると思います。
この点においても消去法的にではあるが、この語り手に「果歩X」という立ち位置を当てはめたくなります。しかし状況証拠はこれだけです。一旦可能性として「中島さおり」の語り手は「果歩X」と仮定します。

次です。「堀江果歩」の語り手が「悟堂X」である可能性について、模索していきます。次の引用は性別について。

俺は男で、理解が遅いか最終的にできなくて、女子に比べると常に幼い。

第一に、この語り手は「男」であるとわかります。加えて性格を見ていきます。

さて俺も立派にならなくてはならない。
俺の立派とは何なのかという問題は、……まあ俺が解決するしかない。

何やら立派になりたいようですが、立派になるとは何かはわかっていないようです。この少しいい加減な感じは「中村悟堂」における「悟堂」に対する痛烈な批判がヒットするように感じます。

悟堂さ、執着とも違くて、……ただ約束を守んなきゃって使命感って言うか、それよりもっとシンプルな、責任感よりも単純な、何て言うか……正義感じゃなくて、……やるべきことをやらなきゃ、ぐらいのぼんやりしたもので動いていない?

多分、悟堂って……抽象的な概念とか、シンプルな原則に囚われる人なんだと思う。

「立派にならなくてはならない」と言ったはいいもののどうなりたいのかはわかっていない感じが「シンプルな原則」に囚われている「悟堂」に近しいものを感じます。

また、「堀江果歩」における次のような語りも「悟堂」的と見ることが出来るかもしれません。女性観についてです。

顔40点身体90点で堪らん女の子だった君は三十六歳で処女のまま、最終的に終わりを終える。

この語り手は「果歩」を最終的に点数付けした上で「処女」であるという余計な情報を足さざるを得ない人物です。
「中村悟堂」における「悟堂」は、「チンチン主義でキンタマの世話しかしないクズ裸ん坊野郎」であり、バツイチの「斉藤さん」に対して「《傷物》」とか言ってしまうような人物なので、「処女」であるかどうかについても言及しかねないとは思います。傷物って言葉、一般的には非処女を指して使う言葉だとは思いますので。

またこの点数について、一度は「こういうことに点数をつけちゃいけません!」と言っていましたが、最終的に「顔40点身体90点で堪らん女の子」という語りをしてしまう辺り、「シンプルな原則」=点数付けはいけないこと、という「正義感」のような何かにとらわれつつも、いまいち理解していない馬鹿な悟堂って感じがします。

悟堂に関してはこんなところでしょうか。最後に「中村悟堂」の語り手「さおりX」説について考えていきます。

まず第一に「悟堂」を呼ぶ時の二人称が「あんた」です。ちなみに「果歩X」は「さおり」を「あなた」と呼んでいるので、ここには語りの区別が見られます。
「さおり」に限った話ではないですが、「中島さおり」において福井弁が出ている方々は他人を「あんた」と呼ぶことがあります。とりわけ「さおり」の言葉を一部抽出してみます。

「あんた、必要のない人手伝ってそんな追い込まれてそのまま死ぬつもりなんか?」

「あんたの子供預かっていとちが大変なんでないの?そんな……」

「今ここであんたが選ぶんや。伊都か家族か。……私、あんたの旦那に前に電話もらってお金せびられたとき、気が付いたんや。(中略)そんでそれは、あんたしかいんやろう。あんたは優しさのつもりでいるんかもしれんけど、それは甘やかしや。あんたは杉田をとことん甘やかして壊してしもうた。ほんでこれからあんたの子供も甘やかしてムチャクチャにしてしまうんやろう。」

ここからまた、消去法的にこの語り手が「さおりX」であると想像できます。加えて、次の「中村悟堂」における語りが「さおり」と「さおりX」の語りをほぼ一致させます。

それは小さな光。
小さな白い光が闇の渦の中に一本すうっと光線を伸ばしている。
私たちはその光の道を進まなくてはならない。

続いて、「中島さおり」において「さおり」は唐突にこう言っていた。

「私は光の道を歩まねばならない」

「光の道」という同じ言葉がここで現れます。これは「さおり」と「さおりX」を繋ぐ上で最も理解しやすいマーカーだと思います。ここにおいてようやく、「さおり」=「中村悟堂」の語り手(「さおりX」)であることがほぼ明確になり、これによって、小説の仕組みとして、各短編の語り手が次の短編の語り手を担っていることも演繹的に考えられると思います。

さおりを見る果歩→果歩を見る悟堂→悟堂を見るさおり→さおりを見る……

仮定を確定させます。
「中島さおり」の語り手は「果歩X」であり、「堀江果歩」の語り手は「悟堂X」であり、「中村悟堂」の語り手は「さおりX」である。
ここが考察のスタート地点として、押さえなければならない最重要な前提部分であると思います。

前提2、「形の無い暗黒の穴」とは何か。
現在仮に「形の無い暗闇の穴」と呼んでいるそれが初めて登場したのは、「中島さおり」においてです。

笑顔のままガタガタと前後に震える子供の背後に、真っ黒の影が立っている。朝日のさしこむ窓の前に、ありえないヒト型の闇が立ってこちらを見ている。
え……何これ……?

私の存在しない頭を私に近づいてきたその闇がかじる。
私の存在しない身体を、腕も足も胴体も、その闇がガリガリと噛み砕き、飲み込んでいく。
私は存在しない生命を失い、存在しない存在を失い、その謎の闇の中で無くなる。

「ヒト型の闇」「謎の闇」。次に、「堀江果歩」における「謎の闇」について見てみます。

あるはずのないグルニエに続く階段が天井から引き落とされていて、それを登る。(中略)
真っ暗な、見たことのない屋根裏部屋に待つのは、半身だけの少女でもなく、黒髪の女でもなく、言葉のおかしくなった広瀬順でもなく、闇より暗い深黒の、何でもない、形も無い暗黒の穴だ。
俺は見つめ続ける。
君は悲鳴すらあげることがなく、食べられる。消える。無くなる。

そのただひたすら暗いクズよ、お前はお前の筋書きの中で堀江果歩という素晴らしい命を終わらせたのかもしれないが、いいか!物語では最後の最後、唐突な展開で文脈をぶっ飛ばして何かが起こることだってあるのだ!

「形も無い暗黒の穴」「ただひたすら暗いクズ」。最後に「中村悟堂」においての描写を確認します。

飛び出してきたのは全裸の……男!?黒いモジャモジャ陰毛に囲まれたチンチンがブラブラ停まらないまま立ち尽くしているのは相手もあんたとあんたの包丁を見て驚いているからだ。

その女の視線を追って、あんたも見る。
登ってきた階段の向こう側、屋根の隅の上空に暗く丸い穴が空いていて、真っ暗な闇のモヤがドクドクと吸い上げられていき、消えていく瞬間を。

「黒いモジャモジャ陰毛」の「男」。そして「暗く丸い穴」「真っ暗な闇のモヤ」、それは「路地裏の真っ暗坊主」とも呼ばれています。「黒いモジャモジャ陰毛」「男」は、「闇」と極めて近い位置にいながらも実体があり過ぎる感はありますが、一旦同じものとして捉えておきます。
さて、形があったりなかったりするその「闇」が何なのか、登場人物は明確に言葉にすることができません。しかし、その存在について、全く手がかりがないわけではありません。その「闇」がもつ時間性について「堀江果歩」から見てみます。

「グルニエ見つけたの?登った?」

「え?」
(中略)
「堀江さん、時間ってどうなってるんだと思う?過去と今と未来って、俺らにとっては流れるものだけど、実際に、俺らがどこかに留まっていて、そこを時間が通過しているのかな?それとも過去も未来もなくて時間の経過は一冊の本みたいに全て書かれて全部一緒に存在してて、何かが開いてるページ、あるいはその何かが読んでいる文字、そういうのが今ってこともあるかな?」
「………?何の話?」
(中略)
「あなた、誰?」
「ひひひ広広広広瀬じゅじゅ順順順順」
「………」
「……嘘が苦手なんだ。ごめん。俺は君を食べるし、食べたし、今も食べてるよ。グルニエは暗い」

「闇」の存在が物語に現れるとき、登場人物の言葉がもつれる特徴を持っています。「きゃーっきゃぎぎぎぎぎぎぎ」「ぎぎっっぎぎっぎぎぎぎぎ」「ぎぎぎぎぎぎっぎぎぎぎぎぎ」「ひひひ広広広広瀬じゅじゅ順順順順」「あはは。まあねねねねっね、ねねねねねねね」「布団ふふふ布団布団布団。ご、ごごごっごごご悟堂くん悟堂くん悟堂くん悟堂くん」「おお、本本本本当本当本当本当ですね本当ですね」「まさか、《おもちゃ》おもちゃって斉藤の赤赤赤赤赤赤赤赤赤」。
その特徴の現れ方において、この「広瀬順」は「広瀬順」の言葉を侵した何かであると考えられます。
そして、その何かが語る時間観、「過去も未来もなくて時間の経過は一冊の本みたいに全て書かれて全部一緒に存在してて、何かが開いてるページ、あるいはその何かが呼んでいる文字、そういうのが今」は、作中時間の話ではなく、明らかにこの小説を小説として読んでいる我々の時間を指しています。
我々は「堀江果歩」の物語に存在しない「グルニエ」が「中村悟堂」の物語において存在していることを知っていますが、この「闇」は我々と同じ次元で行動をしていることになります。
それゆえに、この「闇」について、作中人物は数々の名前で名指し、語り損ねています。作中人物の次元に寄り添う限りにおいて、これ以上語ることは叶いませんが、この次元の違いを整理すること自体はできると思います。

要するに、この存在は認識外の存在であるということです。それを説明する言葉は哲学・思想の世界でいくつかあると思います。今回は、どれか一つで説明することはしませんが、可能性を示しておきたいと思います。

例えば、神と呼ぶことが出来ると思います。神学的な概念に詳しくないので詳しい説明はできませんが、人と神の関係、被造物と創造主の関係に近いと考えられます。人には物事の意味がわからず、神にはその意味がわかる。そのような関係。
あるいは、カントにならって、「物自体」と考えることもできると思います。それは認識外のものを指す言葉です。対照関係を示すとしたら、「物自体」と「現象」。我々は「現象」を見聞きし感じることはできますが、本質、「物自体」は不可知であるとする考えです。「闇」という現象は感知できる一方で、それの本質は決してわからない。その意味において、「闇」は「物自体」の戯画化と捉えられます。
ジャック・ラカンは、そのカント概念に寄り添ってか「現実界」という言葉を使います。「物自体」と「現実界」は近い概念です。「現実界」は、「想像界」と「象徴界」において捉えられない世界、と表現されますが、簡単に言ってしまえば、イメージにも言葉にもできない領域のことです。「闇」をさまざまな言葉で表現するしかないのは、「闇」が言葉において語り損ねる何かであり、また「闇」としてしかイメージできない何かだからです。

これが不可知論と呼ばれるものの幾つかの名指し方であり、作中人物の次元に寄り添った限りでの幾つかの言語化となります。この次元違いの「闇」が何かをここでは説明しきれませんが、「闇」は不可知論的な何かであることを前提としたいと思います。そしてこの前提が次の問い、「淵の王」とは何か、に深く関わってきます。
我々は作中人物の次元でこの小説世界を見る必要がないので、実はもっと正確な言葉で「闇」を名指すことができると考えています。

前提3、「淵の王」とは何か?誰か?
この小説内に「淵の王」という言葉が登場しません。しかし、言葉にされないまでも、「淵の王」という存在を見出すことは出来ると思います。
まず第一に淵という言葉について。深淵や淵源、絶望の淵という言葉に見られるように、深みや根源、暗いところに通じる言葉です。この言葉は、前提2で扱った「闇」に近いものであると思います。よって、「淵の王」は「闇」と関係する何かとします。

加えて(第二に)、前提2の引用部にあった次の文章が、「闇」の存在に関する説明であると同時に、「王」という言葉の意味に辿り着く言葉だと考えます。

「堀江さん、時間ってどうなってるんだと思う?過去と今と未来って、俺らにとっては流れるものだけど、実際に、俺らがどこかに留まっていて、そこを時間が通過しているのかな?それとも過去も未来もなくて時間の経過は一冊の本みたいに全て書かれて全部一緒に存在してて、何かが開いてるページ、あるいはその何かが読んでいる文字、そういうのが今ってこともあるかな?」

ここでは、「時間」を「一冊の本」に例えています。つまり、これをベタに読むのであればこの小説世界は明言されないメタフィクションであり、作中人物は自覚なきメタフィクションの住人である、ということです。
ここにおいて、それを「読んでいる」存在と同次元的に捉えられる存在は一人想像できます。この小説の中に「王」はいない。「王」という言葉はない。しかし、小説世界外に「王」の言葉は常に既に刻まれています。
つまり、舞城“王“太郎。こいつこそが王である。淵の王である。そして淵とは不知(不可知論)であり、登場人物の知られざる存在としての作者を示しているのだ。

よって、「淵の王」=舞城王太郎と断定します。

本論の目的(前提部のまとめ) 「淵の王」=「作者」殺しの物語

「闇」=「淵の王」=舞城王太郎である。この短絡によって、物語の結末について一旦の意味を与えることが出来ます。すなわち悟堂の最後の行動について。

「す、す、好き好き、好きにしろしろ」
 で、穴の中に戻ろうとするその裸の男の頭をあんたは竹内敦之のシャベルで殴りつける。バン!バン!バン!傷だらけの男の髪の短い頭がひしゃげ、血を噴き出しながら潰れる。
 そしてその暗い球とともに虚空に消える。
 え?今の、……どうして?
 あんたが言う。
「好きにするよ。これが俺の、この二年間の集大成ってとこだな」

作中人物にとっては不明の存在を殺す、という、謎の帰結でしかありませんでしたが、我々にとっては少し違います。これは「悟堂X」の達成でもあったはずです。「悟堂X」は「堀江果歩」において、その闇に対してこのように言っていました。

殺す!
お前を殺す!
(中略)
そのただひたすら暗いクズよ、お前はお前の筋書きの中で堀江果歩という素晴らしい命を終わらせたのかもしれないが、いいか!物語では最後の最後、唐突な展開で文脈をぶっ飛ばして何かが起こることだってあるのだ!
どうしようもないアホのクソ穴め、お前が彼女に仕掛けた恐怖の展開を、俺が逆手に取ってやる。俺がお前の恐怖になるのだ。

ここで「悟堂X」は、「堀江果歩」の物語が「物語」であると半ば自覚しつつ、「暗いクズ」が「筋書きの中で堀江果歩と言う素晴らしい命を終わらせた」と言う。そして、「彼女に仕掛けた恐怖の展開を」「逆手に取って」「暗いクズ」を殺すことを誓っています。
「悟堂」は実際に「中村悟堂」という物語の「文脈」を「ぶっ飛ばして」、また「闇」を通過して「裸の男」を殺しました。それは「中村悟堂」という物語においては唐突な出来事ですが、「淵の王」という物語の一短編として眺める「読者」にとっては、「悟堂X」=「悟堂」という高次元の文脈においてやるべきことを成した結果と言えます。

言ってしまえば、この物語はメタフィクションとしては「作者」殺しの物語ということになります。

作者殺しとは何か?その文学的なテーマについて、ロラン・バルトは「作者の死」というとても有名な評論の中で、エクリチュール(書かれたもの)の開始地点として「作者の死」を位置付けています。

おそらく常にそうだったのだ。ある事実が、もはや現実に直接語りかけるためにではなく、自動的な目的のために物語られるやいなや、つまり要するに、象徴の行使そのものを除き、全ての機能が停止するやいなや、ただちにこうした断絶が生じ、声がその起源を失い、作者が自分自身の死を迎え、エクリチュールが始まるのである。

「断絶が生じ、声がその起源を失い、作者が自分自身の死を迎え」る。ここで言っていることは、「作者」という存在の否定です。この「作者」とは書かれたものの全てに意味を与えると想定される(それは神のように)存在です。そして、その作者を否定する(起源を失う)形で「エクリチュール」が始まります。

「エクリチュール」とは直訳的には単に書かれたもの、という意味ですが、書かれたものが「エクリチュール」と名指される時、その文章は作者が与えた以上の意味を持つものとして扱われます。それ──ある文章が作者が与えた以上の意味を持つこと──は時に、誤配、誤読と呼ばれるものですが、われわれは既にそれをしていましたし、「エクリチュール」の場としてこの小説を読んでいたと思います。

具体的に言うと、「存在しない存在」として書かれた何者かに積極的に名を与え(「さおりX」「果歩X」「悟堂X」)、違う形に捉え直して読んだ(誤読した)ことや、「形の無い暗黒の闇」に「淵の王」の名を与え、作者=舞城王太郎の地位を与えたことは、まさしく書かれたこと以上の高次の文脈を押さえる作業でした。我々は「作者」に死を与え、「読者」として小説に意味を与えていました。

よってここからは、より具体的に「作者」を真に殺すために、何ができるのか。いかに「作者」を殺し得たのかを考えたいと思います。

本論1、語りを奪って殺す〜 語りの主(導)権を簒奪する物語〜

本論の目的は、「悟堂」による「淵の王」=「作者」殺しという結末から逆行して、いかにして「作者」を殺したかを探ることとしています。そして、それがどのように為されるのかと言えば、やはりまずは小説を読むしかないと思います。

ここで重要な手がかりは、語り手の“驚き“の部分にあると思います。この物語は語り手に大した力がなく(何も知らないという意味で)唐突な出来事が起こるとわかりやすくびっくりしてくれます。
「えっ!?何今の……」「え……何これ……?」のような形で、「今」「これ」に問いを投げかけることが多いです。
語り手の驚きが生じるのは、世界が、物語が壊れる時、あるいは文脈を外れたことが起こる時だと考えられます。すなわちそここそが高次元の文脈が発生している合図です。その例のほとんどをここで読み直してみます。

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う〜ん他に何かあるかな?なんてところで唐突にさおりちゃんが言う。

「私は光の道を歩まねばならない」

えっ!?
何今の……
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「きゃーっ、ぎゃぎぎぎぎぎぎぎ」

その異様な笑い声を振り返ると(中略)真っ黒な影が立っている。朝日のさしこむ窓の前に、ありえないヒト型の闇が立ってこちらを見ている。
え……何これ……?
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「はは。って言うと思った。じゃあ怖い話は抜きにして、忠告。……怖い想像が悪い影響を持つって、まさしく堀江さんに起こっていると思う。堀江さんはもっと楽しく、明るく、気持ちよく生きてってね。(中略)怖いものを排除していった方がいいと思う」
「………?」
「と言いながらも、人の想像力にどんだけ規制をかけられるか判んないし、これから堀江さんマンガ家になるみたいだから、いよいよそんな制限できないだろうし、……だから、ひょっとしたらどっかで自分の怖い想像力に立ち向かわきゃいけなくなると思う」
「……お化けが怖いとか、克服しなきゃってこと?」
「もっと具体的で実際の話だよ。お化けと戦って、勝たなきゃならないかも」
うん?と俺は思う。
何言い出してんだこいつ。
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「そうだったね。……それでそのときのことなんだけど、私、たぶん広瀬くんが言ってた《私が怖い想像で悪い影響を私自身に与えてる》ってどういう話だったのか、気付いたと思う」
「グルニエ見つけたの?登った?」

「えっ?」
と君が言い、俺は言葉を失う。
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えっ?階段脇に隠れて奇襲の方がいいんじゃない?
と私は戸惑うが伝わらないし間に合わない。そいつが階段上に現れる。
わあっ!と私は悲鳴を上げてしまう。あんたも一歩後ろに退く。
飛び出してきたのは全裸の……男!?黒いモジャモジャ陰毛に囲まれたチンチンがブラブラ停まらないまま立ち尽くしているのは相手もあんたとあんたの包丁を見て驚いているからだ。
あのハイヒールは何なの!?
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その女の視線を追って、あんたも見る。
登ってきた階段の向こう側、屋根の隅の上空に暗く丸い穴が空いていて、真っ暗な闇のモヤがドクドクと吸い上げられていき、消えていく瞬間を。
何これ……?
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「斉藤んち買って、福井に住もうかなって。風光明媚ないいとこだからさ」
えっ!?
はあ!?
何言ってんのあんた!何考えてんの!
さすがの斉藤さんも驚くが理解も早い。
「………!私んちのお化けと虹ちゃんの居場所が関係あるかもって思うの?」
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「裸族って、あははは。そうかー……まあ不思議な話に全部筋が通るかどうかなんて判らないしね。じゃあさ、こういうのはどう?(中略)私が囮としてあの家に戻るのが一番手っ取り早いんじゃない?」
「ええっ……!?」
はああ!?
出たよ……こういうのこそ斉藤さんの怖いとこで、何考えてるの?危ないじゃん!
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「望むところです。……そしたらあなたたちのところにも地獄の穴が口を開けるでしょう。俺のところにもあの暗い球がやってくるかもしれない。でもそのとき、俺は俺の好きな人を救い出すチャンスがある」
私は驚きと得心の衝撃でしばらく言葉が出ない。
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「おお、本本本本本当本当本当本当です本当ですね」
と言ってあんたは目を剥き、口元を押さえる。
何今の?
ーーーーーーーーーーーーーーーー
私から見ても顔は何ともなってないと思う。あんたは死産だって経験してない。脳梗塞なんて起こりえない。
普通

「悟堂!」

えっ
私もあんたも一瞬硬直する。
何今の声。女性の声。
湯川さん!?
ーーーーーーーーーーーーーーーー
アツアツご飯 杯

何これ……。
何言ってるの?
これ、復縁を求めるメールになってる?
あんたには理解できたらしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「もしもし!?どうしよう悟堂くん!どうしよう!里佳ちゃん竹内の車に、ひか、轢かれ、轢かれちゃったみたい!あああ!どう、どうしよう!どうしよう!」
(中略)
私の、私にしか聴こえない泣き声で、私は耳が塞がっている。
えええ?こんなふうにして最悪なことが起こるの?(中略)どうして、里佳ちゃんに、東京にいるのに、こんな酷いことが起こるの!?
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「それ話してよ、今」
「え?なんで?怖い話?今?」
「うん。ここで、今」
「……わかった」
何で!?
私には意味が判らない。
何でここで、今、怪談なの!?里佳ちゃんの一大事なんだよね!?どうして!?
何してるの!?
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「す、す、好き好き、好きにしろしろ」
 で、穴の中に戻ろうとするその裸の男の頭をあんたは竹内敦之のシャベルで殴りつける。バン!バン!バン!傷だらけの男の髪の短い頭がひしゃげ、血を噴き出しながら潰れる。
 そしてその暗い球とともに虚空に消える。
 え?今の、……どうして?
 あんたが言う。
「好きにするよ。これが俺の、この二年間の集大成ってとこだな」

「え……今の何……?全部意味が判らない……」
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文脈外の何かが起こることのほとんどは、作者=闇が物語に介入してくる瞬間だと思います。しかし、いくつか例外もあります。
第一に、主人公を導くような言葉が差し込まれる時です。「光の道」「お化けと戦って、勝たなきゃならない」「悟堂!」などがそうです。第二に、悟堂と斉藤さんの状況理解の異常な速さなどもあります。

とりわけ、面白いのは「悟堂」の行動について。

飛び出してきたのは全裸の……男!?黒いモジャモジャ陰毛に囲まれたチンチンがブラブラ停まらないまま立ち尽くしているのは相手もあんたとあんたの包丁を見て驚いているからだ。

「全裸の」「男」(ここでは「淵の王」とする)は、悟堂の持つ包丁を見て驚いています。驚きがあるということは予想外の出来事であったということです。

その包丁でどうするの?まさか相手のこと殺すとか?

結末から見れば、「悟堂」はこの時点から本当に殺害を目指していたのかもしれません。

あんたが廊下をまっすぐに歩き出すので私は慌てる。ちょっとちょっと、ドアを調べながらゆっくり行きなよ!

語り手のその反応はごもっともですが、やはり「悟堂」は初めから躊躇なく「三階」の「グルニエ」を目指していて、後々の展開を見ても「地獄の穴」に敵がいることを最初から知っているように行動しています。また「包丁」や「シャベル」など殺傷能力のある得物を即座に使用する奇妙さがあります。
これは何故か?おそらくは「堀江果歩」の世界の気分を引き継いでいるからだと思います。それはまさしく「読者」を通して。

他にも奇妙な発言とその理由は、「読者」の視線をもとに意味づけられると思います。
「広瀬順」が「お化けと戦って、勝たなきゃならない」と言うのは、我々が謎の存在に食われる「果歩X」を見てきたからではなかったか。
「光の道」がバラバラになった「悟堂」を繋ぐことが出来たのは「中島さおり」の物語において「光」が輪郭を与える効果を知っていたからではなかったか。
「里佳ちゃんの一大事」において「怪談」を始めるのは、語り手以上に敵の性質を知っていたからではなかったか。それはやはり「読者」を通して。

抽象的な存在として、介入してくる良い何者かがいる。それは物語を破壊する「淵の王」=「作者」とは区別して、「読者」の名を与えたいと思います。
「淵の王」=「作者」の語り(=「筋書き」)を「読者」の語りによって奪うこと、これが「作者」殺しの第一の側面であると考えます。

もちろん、ここでいう「作者」と「読者」は実在の作者や読者とは区別しなければなりません。

本論2、イメージを与えて殺す〜形を奪う闇と形を与える光の物語〜

「作者」殺しのために、第二に何ができるのか。そこで注目したいのが「闇」と「光」のイメージです。
「作者」=「淵の王」に対して「闇」「黒」「穴」「悪」「間」「魔」などの様々な暗いイメージが付与されていたことに対して、登場人物に対しては「光」や「白」の属性が付与されることがありました。例としては「光の道」や「ウサギちゃん大草原」があります。
この対照的な関係において「闇」は「かじる」「噛み砕き」「飲み込んでいく」などと「存在しない身体」をイメージとして破壊していました。一方で「光」は形を与えるものとしてイメージされていました。
それは「中村悟堂」において闇に食われた「悟堂」が「光」によって再生したシーンに現れています。

それは小さな光。
小さな白い光が闇の渦の中に一本すうっと光線を伸ばしている。
私たちはその光の道を進まなくてはならない。
でもあんたはもうほとんど無くなりかけていて、でもだからこそ、そもそも無い私にもあんたを触ることができる。
あんたを集める。僅かな欠片も残さずに。
そして全部抱きしめる。
まとめて抱え、私はあんたとともに光の中を行く。

ここにおいて闇は形を奪い、光は形を与えるという対比が行われています。また、この「光」の効果については「中島さおり」における「光と闇の間」の出来事も象徴的に響くように感じます。

あなたは下校途中に忘れ物に気付き、同じ集落に住む子たちと別れて一人で取りに戻り、薄暗いクラスに入って何だか怖くて、まだ日の光の残る外に出たらホッとしたけど、そこで夕方の光と闇の間に捕まってしまった。(中略)それに圧倒されて足を止めてしまったのが黄昏の罠で、夕日が落ちるにつれて影が延び、日の照らす部分が追いやられるように、まるであなたから逃げるようにして遠ざかる光景をあなたはじっくりと、でもほんの少しの間にしか感じられないくらいにぎゅっと、見せられる。それで寂しくなって、でもふと気付くと小学校周りの集落の道は夜の暗さになっていて、怖くて、あなたは身動きができなくなる。でもそこにいてもいつか必ず真っ暗な夜に飲み込まれるし、あなたが頼りにできる明かりは完全になくなってしまうのだ。

その後「真っ暗な夜」に「飲み込まれる」「さおり」を「杉田くん」が見つけ「黄昏の魔術を簡単に解いてしまう」。「命を吸い上げられそうな薄暗さ」をものともせずに遊んでいた「杉田くん」とともに帰る。「杉田くん」が「家の明かりや街灯に照らされて明るくなったシルエット」を取り戻すの見て、現実に戻ることができる。
このエピソード自体は怪談チックなそれではなく、おそらくは少し怖い田舎の夜の話でしかありません。しかしこの「光と闇」の対比──形を奪う/形を与えるの対比によってこそ、第二の「作者」殺しがなされると考えます。

何度か確認しているように、「作者」=「淵の王」にはさまざまな呼称が存在しました。形があったりなかったり、実体があったりなかったりする様に不気味さがありました。

「中島さおり」においては「ヒト型の闇」「謎の闇」。
「堀江果歩」においては「形も無い暗黒の穴」「ただひたすら暗いクズ」。
「中村悟堂」において「黒いモジャモジャ陰毛」「男」「暗く丸い穴」「真っ暗な闇のモヤ」「路地裏の真っ暗坊主」「暗い球」など。

前提2でこの点に触れた時、深くは追求はしませんでしたが、なぜ「ヒト型の闇」から「形の無い暗黒の穴」になり「男」が現れるのでしょうか。順番がおかしく無いでしょうか。
そしてそもそも、この順序で眺める必要性があるのでしょうか。「作者」=「淵の王」は「中村悟堂」世界にある「グルニエ」を「堀江果歩」に登場させて「読者」を混乱させてきました。それと同様に、物語をもっと都合よく組み替え、文脈を与え、形を与えるのがそもそもの「作者」殺しなのではないか?

その考えに照らすと、順序は、このように組み替えられる。

「堀江果歩」において突如登場した「形の無い暗黒の穴」は「悟堂X」によって「ただひたすら暗いクズ」としての人格を与えられる。それにより、「中島さおり」において「謎の闇」は「ヒト型の闇」にまでなり、ついには「黒いモジャモジャ陰毛」「男」の姿まで変態する。(そして殺害される)

スタート地点が「堀江果歩」における「形の無い暗黒の穴」であると考える根拠がある。この「形の無い暗黒の穴」のイメージはおそらくは「果歩」の持っているイメージから来ている。何かといえば、「果歩」が読んでいた漫画「ガンツ」だ。ガンツと言えば黒い球体である。

そしてそれは確かに、球に例えられることもあった。

真っ暗坊主。坊主はボールだ。球。
暗い球。

形を与える「光」の文脈に照らすのであれば、物語は順番に流れていない。そして、語り手の語りによって、少しずつ「淵の王」が実体を帯びたからこそ、「悟堂」による「作者」殺しがイメージとして成立するのだ。

結び 本当に「作者」殺しは成し得たのか?〜所在不明の物語について〜

「気にしなくていいよ。人生に起こる不思議とか謎の一つ。どうでもいいんだ。余計な追求するなってのが、不思議とか謎が送るメッセージだよ」

「悟堂」はこのように言っていたが、本論の探究は「不思議」や「謎」を少しでも減らすことでした。しかし、それが完全に達成されるわけではない。余す事なく「不思議」を消し去ることはできない。

例えば「白」について、「光」の文脈とともに「闇」に対して対照的な表現として受け取ってきましたが、その「白」いものが全て本論の文脈において説明できるわけではありません。例えば、「堀江果歩」に登場するお化けについて、

「(前略)ふと見たら、ぼおっと白く光る小さな女の子がそこにいたんだって。(後略)」

あるいは、「白ワンピの女の人」(「黒髪の女の人」とも表現される)や「白骨死体」の物語。「じ」「け」「せ」「ま」「た」についての謎も不明のままである。「白骨死体」のモチーフは湯川さんとしても登場している。
あるいは住所について。基本的に舞城の小説では「福井」か「調布」周辺以外の住所が登場しないのだが、今作の最後のページでは「東京都三鷹市新川1−18−6」「コーポ菊池104号室」とある。調布の近くだ。他にもこの物語では何度か住所が示される。61p「武生」の「ヴィラハピラ越前の304」107p「調布市仙川橋3−5-12、ミ・カーサ仙川203号室」。調べてみると、存在しない住所であるとわかる。しかし面白い発見もある「調布市仙川橋」は存在しないが、上仙川橋というものが「三鷹市新川」からものの5分の位置にあったりする。意味ありげで、「淵の王」の移動過程が割り出せるかも、と考えたが、そんな感じでもない。意味づけはできない。
ここからわかることは「読者」の次元においても、不可知の領域が確保されているということで、そしてそれを知る必要はないということだ。

「気にしなくていいよ。人生に起こる不思議とか謎の一つ。どうでもいいんだ。余計な追求するなってのが、不思議とか謎が送るメッセージだよ」

「どこまでいっても中途半端」であること、である。十分に謎は解き明かしたし、その謎を解き明かす形で、救われざる存在に光を照らし、読み込んだ。謎それ自体が重要なのではなく、謎を中心に、その過程において愛を見つけることが重要なのだ。十分にそれをした。

おわりに
くう〜疲れましたw(以下略)
長い間語りたいと思っていた小説ではありましたが、うまく説明できる気がしなくて、ずっと放置してきました。ようやく、ある程度は自分の納得のいくところまで言語化できました。
二人称小説という特殊な形態についてや、「暗黒の穴」の表現について、根本的に、どうしてこんな形にしたの?っていう疑問が残ってはいるのですが、それは謎のままにして、意味を考え続けたいと思います。次は、今回のこの論の流れを「舞城王太郎研究班」のチャンネルにてざっくり動画化してみて舞城ファンの反応もみてみたいと思います。それでは、さようなら。

補足1:闇は殺す、光は生かす

「光」の文脈において「中島さおり」において「さおり」が暗闇に喰われなかったのは何故か?ということを説明できると思います。「中村さおり」において「さおり」を見つめる「果歩X」はこのように言っています。

綺麗な子だ。肌の色が白い。真っ黒な髪がほぼ全てまっすぐに下りている。日の光やデスクのライトに当たると顔の産毛が肌の上に白く光って浮かぶ。それを私はウサギちゃん大草原と呼んでいる。胸がうーってなるほど可愛いのだ。

顔の産毛を見ていることから、顔の輪郭を見ていることがわかります。すなわち形。そして「中島さおり」の最後のシーンにおいても「さおり」が傷付けられることはありません。

私の大好きなさおりちゃん。
ウサギちゃん大草原も今は血に濡れているけれど、それは拭われ、乾き、また美しく輝くだろう。

この結末を導いたのはおそらく、「果歩X」が「さおり」のことを「白」と「光」において語っていたからだと考えられます。さおりの語りが形を与えていたのだと、イメージとしては読むことが出来ます。あるいは、我々がその文脈を読み取る限りにおいて、「さおり」の救済はなされると考えられると思います。「私たちはその光の道を進まなくてはならない。」

補足2:物語内物語
ちなみに「ガンツ」という物語は、ざっくり要約すると神の如き力を持つ何者かが黒い球(それが「ガンツ」と呼ばれる。中には裸の男が入っている。)を通して人間にサバイバルをさせる話で、人が理不尽に一瞬で死ぬ点が見どころのバイオレンスエンターテイメントです。「怖い想像が悪い影響を持つ」という言葉もありましたが。神の如き存在が黒い球と男を通して、作中人物に死を与える構造は「淵の王」に似ているような気もします。

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