雨水、夕暮れと海
それは僕の知りうる限りの、最高の夕暮れだった。
世界は汚れに満ちていると思っていた。腐敗した世界に美しさなど欠片も落ちているはずは無いと思っていた。生とは辛苦であり、呼吸のひとつひとつは世界への溜息であると。人生の根幹は不運であると。
不変的な日常の中、気まぐれの散歩の中で、突如、眩むほどの美しさに出逢った。生まれてきたことの意味が、この夕暮れに凝縮されているのだと崇拝してしまう程の。
波の音が聞こえる。
雪も溶け、極寒が和らいだ季節。
駅から遠い海岸線。真昼のような人影はなく、砂浜から少し離れた国道に車が列を成している。ヘッドライトが巨大な蛇のように連なっている。
夕日の刺すような眩しさはなく、太陽は既に沈んだ後のようだ。だが、西の空は茜。黄昏。薄明。トワイライト。二月末の、春を予感させるような茜色の地平線を、ぼうと眺めている。
波音だけがさざめく砂浜はあまりに静かで、僕を取り巻く昼間の都会の喧騒なんて虚構なのではないかと思う。僕が普段生かされている世界と、この鼓膜を撫でるように擽る優しい海が、まったく同じ世界に共存しているだなんて、僕の勘違いであるように思う。
そう、何かの間違いで、こんな所に来てしまったんだろう。月並みだけれど、天国に近い場所、とでも云うような。
だって余りに、僕の知る世界とは乖離している。光のすべてが、その反射が、柔らかくて、優しい。
押しては返す波が、その度砂浜を濡らして、海水を含んだ浜は薄明を映し、虹色につやつやと煌めく。
空が、海が、浜が、世界が、柔い虹色に染まっていく。
薄明の寿命は僅かで、瞬きひとつの間に世界の表情は変わってしまう。地平線の朱は燃えるように彩度を増す一方、見上げた空は闇色を孕み始める。見上げた空にかかる月が輪郭を持ち始めて、白く輝く。夜の訪れを明示する。月から零れたような星が2つ、海に向かって落ちていくように光っている。
身じろぎもせず、世界を見た。一瞬たりとも、目が離せなかった。視界にうつる全てが優しくて、僕はこれを忘れてはいけないと思った。忘れたくないと思った。このまま、世界が止まってしまったらいい。
世界をうつしたこの虹色の浜に溶け込んでしまいたい。足元からとろりと溶けて、砂々の隙間に染み込んで、海になれたのなら。やがて訪れる夜更けの底で、安らかに眠れるはずだ。
永遠と呼べるような安らかな休息が、そこにはあるだろう。