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小噺「散策」

 窓の外から聞こえてくる、けたまましい音で目を覚ました。

 強引に金属を切断する甲高い音が、タワーマンションの上層階まで響いている。文句の一つでも言ってやろうかと顔をあげると、枕元の携帯電話は午前十時を表示していた。世間的にはとっくに一日が始まっている。

「土日まで工事をしているなんて、よっぽど切羽詰まってんなぁ」

 隣に新しく銀行が出来るとかで、半年ほど前から工事をしているが一向に完成する様子がない。俺はそういうことにあまり詳しくはないが、少し時間がかかり過ぎているような気がする。大抵の場合、建築現場では土日の工事をやらない。

 ベッドから身体を起こして部屋を出ると、平べったい自律型掃除機がドアの前で待ち構えていた。

「……なんだよ」

 機械の癖に妙に当たりが強い。しょっちゅう人の小指を轢いていくし、休みの日にはこうして俺が起きるのをこれ見よがしに待ち構えている。

 ピー、ピーと非難がましい音を立ててから掃除機が俺の部屋へと入っていく。このままドアを閉めて閉じ込めてやろうか、とも思うが、そんなことをすれば大野木さんに叱られるので止めておいた。

「おはようございます」

 リビングのテーブルで大野木さんが既にパソコンに向かって何かしている。珈琲の香りがするから、ちょうど淹れ直した所だろう。

「おはよ。早いね。休みの日くらいダラダラしたらいいのに」

「終わらせてしまいたいタスクがあるので。千早君こそ寝過ぎでは? もう昼になってしまいますよ」

「休日は惰眠を貪るって決めてんの。これこそ有意義な過ごし方ってやつだ」

 欠伸をしながらソファへ横になろうとして、大野木さんから顔を洗ってくるように言われた。

「せめて身支度くらい整えたらどうです。顔を洗って、髭を剃ればやる気になりますよ」

「俺、髭とか生えねぇもん」

「……そうでしたね、なんて羨ましい」

 いつも手入れをしているので全く分からないが、大野木さんはこう見えて、髭が生えやすい体質らしい。正直のところ少しだけ憧れるのだが、本人はそれなりに気を遣っているのだろう。

「体毛が薄いのってあんまり嬉しくねぇけどな」

 洗面所へ向かい、歯磨きを終えてから適当に顔を洗う。洗顔料は棚にある、いかにも高そうな奴を勝手に使う。買った覚えがないので、きっと大野木さんのものだろうが気にしない。なくなれば、また自分で買い足すだろう。

「少し髪が伸びたな。いい加減、切らねぇと」

 前髪が長いのは面倒だが、短すぎると目つきが悪いと言われるし、塩梅が難しい。大野木さんのようないかにも役人みたいな髪型はどうやって注文しているのか。少しだけ気になった。

 リビングへ戻ってみると、大野木さんの言った通りなんだか身体のエンジンがかかったような気がした。折角の休日に寝てばかりいるのは勿体ない気持ちになってくる。

「俺、ちょっと出かけてくる」

「え? まだ朝食も食べていないじゃありませんか」

「昼飯までには戻るよ」

「相変わらず急ですね。昼食はパスタにする予定です。千早君が戻ってきてから取り掛かることにします。それまでは私も仕事を勧めておきましょう」

 適当に相槌を打ちながら、部屋から着替えを持ってきて廊下で着替えてしまう。寝間着を洗濯籠へ放り込んで、斜め掛けの鞄に貴重品を入れる。靴下は面倒だから履かない。靴よりもサンダルくらいがちょうどよかった。

「また散歩ですか?」

 玄関までやってきた大野木さんが心底呆れた様子で言うので、俺は口を尖らせた。

「散歩は趣味なの。大野木さんだって急にそういう気持ちになったりすんだろ?」

「なりませんよ。野良猫じゃないんですから」

「ま、とにかく昼までには帰るよ」

 マンションを出てから、まずはどちらへ進むかを決める。別に何処へ行ってもいいのだが、気分の問題がある。より行きたい方向を考えて、今日は商店街の方にした。駅前の繫華街も良いが、休日は人でごった返しているので避けるべきだ。正直、金を出してまで人の多い所へ行こうという人間の気が知れない。

 商店街を馬鹿正直に大通りから進むのはよくない。とにかく通行人が多いので、地元の人間しか通らない脇道を進むのがいい。ちょうど商店街の裏手だ。ここらは喫茶店や個人商店の八百屋、酒屋などが乱立しているディープなスポットだ。

 大野木さんは不思議がるが、俺の散歩に目的なんてものはない。というか、散歩をするのが目的なのだから当たり前だ。強いていえば、面白い発見を探している。人間、自分が暮らしている街のことはよく知っているようで、実はほとんど知らない。大野木さんのような県職員でさえ、家の近所に銭湯があったり、妖しいラーメン屋があったりすることは案外知らない。

 俺は昔から自分の住んでいる場所がどういう所にあるのかは、把握しておかないと気が済まない。なので、あちこち散歩して回る。知っている場所が増えると、愛着が湧く。自分の街だという気持ちになれるのがよかった。

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