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「あめや朗読会書き下ろし作品 《案山子》」
くれぐれもご注意頂きたいのですが、これはあくまでフィクションです。
現実の土地や団体などとは一切関係ありません。
特に作中の私有地へ赴くことがないよう、切にお願い致します。
繰り返します。これはフィクションです。
もう二十年近く前の話である。
当時の私は別府のとある大学に通う苦学生で、アルバイトを常に掛け持ちしながら生活していた。
亀の井ホテルのスタッフや、パチンコ店、居酒屋など様々なアルバイトをしていたが、大学の寮を出て独り暮らしを始めたばかりの二回生の時、先輩から紹介してもらった大分市の人材派遣会社に登録してからは、日雇いでも稼ぐようになった。
特に気に入っていたのはイベントスタッフで、コンサートなどのライブの裏方を主に行う仕事だった。日給は当時だいたい八千円から一万円くらい。拘束時間はほぼ一日だが、実働時間はせいぜい三時間程度だ。
そういう現場に何度か行っていると、自然と何度も顔を合わせるスタッフが出てくる。
溝口さんは、そうした常連スタッフの一人だった。
「普段なんしちょるの。友だちと集まって飲みよんのかえ」
笑うと目の端に皺ができる、一回りも上の溝口さんは親しみやすい口調とは裏腹に、少し近寄りがたい雰囲気をしていた。
細い眉にサイド剃り込んだ頭髪、人差し指と中指にタトゥーを入れていて、夏でも長袖の下着を着ていた為、あまり溝口さんに話しかける人間はいない。しかし、当時の私はスタッフの中でも最小年、丁寧に話しかけられて無視をできるような立場にはなかった。
「サークルと研究室でそれどころじゃないです。お酒も弱いんで、飲むより食うばっかりですね」
曖昧に答えると、また次の質問がやってくる。待機時間は退屈極まりないので、どうしても話し相手が必要だった。
溝口さんの場合、他のスタッフが近寄ろうとしないので、自然と二人で仕事をすることが多かった。
とある夏の盛りの夕方、ジャングル公園で解散した所で溝口さんに捕まった。
「飯ば食いに行こかい。おごっちゃるで」
満面の笑みで、おまけに夕飯をご馳走してくれると言われたら断る理由などない。少しでも食費を節約して、教職免許を取るための講義代を稼がなければならなかった私は、頭の片隅にあった警戒心を無視することにした。
溝口さんは連日連夜、都町で飲んで遊んでいるような人だったので、連れて行ってくれた居酒屋は大変美味しかった。数ヶ月ぶりに自分が釣ったものではない刺身を食べ、半年ぶりに牛肉を食べた。
好きなだけ食べていい、と溝口さんが言うので、私も遠慮をしなかった。後から何かあれば窓から飛び降りてしまえばいいと本気で思っていた。
そんな私の様子を溝口さんは、いいちこのロックを飲みながらニコニコと眺めていた。
「派遣のバイトじゃ割に合わんやろう」
「まぁ、そうすね。でも、本分は学生なんで」
「平日も土日も働きよったら、学生らしいことなんてなんもできちょらんやろ」
「……それは、まぁ」
溝口さんの言葉は正しい。サークルと研究室を楽しみに大学に入ったが、他の時間は全てアルバイトに費やす日々はとにかく過酷だった。おまけに一度、風邪などで体調を崩してしまうと生活に直結する。
「良かったら、俺んとこに仕事にきちょくれんか?」
「溝口さんのところ?」
溝口さんは頷いてから、ちょっと手伝ってくれるだけでいい、と言ってメニューを寄越した。
「ほら、関サバや関アジも頼まな」
「いや、流石に」
私が遠慮しようとするのも無視して、店員に関サバの活け作りを注文してしまう。今更になって、私は恐ろしくなってきた。
「君なら、しんけんやってくるっじゃろ。なんも難しいことやねぇで」
「はぁ」
「明日、他ん奴と一緒に車でとある場所に行ってから、写真ば撮っちきてくれたらええで」
「撮影?」
「そう。それだけ。簡単じゃろ」
「すいません。自分まだ免許持っていないんです」
私の言葉に溝口さんは耳を疑うように首を傾げた。
「なんでな。高校を卒業するときに自動車学校に行かんやったと?」
「いや、金が貯まってなくて。卒業する前には取るつもりです」
自分で言いながら、みすぼらしい気持ちになった。
「教習所も紹介しちゃるよ。俺の紹介やったら安く通えるで。――まぁ、もう一人の奴が運転できるから心配はいらんで。君は身一つで来たらいい。ああ、でも風呂だけは入っておいで」
「自分、そんなに匂いますか」
「いやいや、そうやねぇんで? そういう決まりになっちょるから、これだけは絶対に忘れんごとな。ほら、これで温泉でも入ってうまかもんでん食い」
そういって差し出された五千円札を断れるほどの余裕を、私は持ち合わせていなかった。
「……わかりました」
「別府駅に朝八時においで。榎本ってのが車で迎えにくるごとなっちょる」
私は頷いてから、聞けずにいた肝心なことを溝口さんに尋ねた。
「そうやね。五万あげるよ」
車に乗って何処かへ出かけ、写真を撮るだけで五万円。
高額すぎて恐ろしかったが、壊れた炊飯器を買い換える余裕さえなかった私には、五万円という大金は喉から手が出るほど魅力的だった。
「そうそう。一つだけルールば覚えちょかないけんで」
溝口さんはそう言ってから、りゅうきゅうを箸で摘まんで口の中へ放り込んだ。
「撮影するもんに触れたら絶対にいかんで」
「あの、何を撮影してきたらいいんですか」
私の問いに溝口さんは答えず、空になったコップに『いいちこ』をなみなみと注ぐ。縁から溢れた焼酎がテーブルの上に丸く広がった。
「見たら分かる。ただ、おらばんごとな」
叫ぶなよ、と笑顔でそう言われて、改めて血の気が引いた。
小皿にとった柚子胡椒が、かぴかぴに渇いていた。
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