万年猫 第三話
かつて天帝は聖なる十二の獣を選ぶと宣言なさり、ありとあらゆる獣たちがその座に着かんと競ったが、私は卑劣な鼠の奸計にかかり、十二の座を得ることが出来なかった。
そればかりか、無用な争いを仕掛けたとして天帝の勅によって地上へと追放されてしまった。それから数千年の時が経過したが、待てど暮らせどなんの音沙汰もない。
帰れぬものを嘆いていてもしょうがない。
犯した罪を赦されるまで、この地上で生きていかねばならぬ。
この頃、私の名前は『クム』と言った。無論、人間がつけた名前である。クムという名の意味はこの辺りの地名のことらしい。
以前はもっと東の大国にいたのだが、戦乱があまりにも酷くてうんざりしたので西へ向かうキャラバンの一行に紛れて、砂漠を越えてこの国までやってきたのだ。遙か昔にもこの辺りをうろついたことがあったが、その頃に比べたら随分と人が増えた。
この国の良いところは、とにかく平和であることだろう。よほど上に立つ人間の面倒見が良いのか、あちこちで遊ぶ子供を見かける。
「クム、クム」
私を呼ぶ幼い声がした。顔をあげて、木の枝の上から下を覗き込むと、まだ五つになったばかりのファルザームが中庭を探し回っているのが見えた。
せっかく人がのんびりしているというのに。子供の相手は嫌いではないが、四六時中一緒にいると辛くなる。逃げ出したくなる前に息抜きをするのが重要だ。
くんくん、と甘い匂いがするのは無花果の木になった実が熟してきたからだろう。
「クム、どこなの。クム」
ああ、今にも泣き出しそうだ。このまま放っておけば泣きながら庭を徘徊し続けるだろう。一度、泣き出すとなかなか泣き止まないのだ。
根負けした私は下のファルザームに向けて、ニャア、と声をかけてやる。
ハッとして辺りを見渡すが、何処にいるのか分かっていないらしい。仕方がないので身体を起こして、うんと背中を伸ばしてから枝の上から庭へと駆け下りた。
「あ、いた」
パッと顔が輝いて駆け寄ってきたかと思うと、ぐい、と強引に抱き上げられる。頬ずりされると、なんとも乳くさい。甘えたなのは、まだ母親から乳を貰っているせいだろう。
「ずっとさがしていたんだから。ほら、おうちに入ろう」
後ろ脚と尻尾が地面についたまま、家の中へと連れていかれる。扉を閉めて鍵をかけられてしまった。
「おかあさま。クム、なかにわにいたよ」
ファルザームの母親はメフリという。十五でファルザームを産んだのでもう二十歳になる。この辺りでは珍しいことではなかった。旅を終えたばかりの私が出会った頃、彼女はファルザームを身籠もっており、疲れ果てていた私に乳粥を与えてくれたのだ。
その恩義に報いるべく、ファルザームの世話をしているが、安請け合いをしてしまったように思う。仮にも神であるのだから、悪戯に人と交わるべきではないのだが、快適な寝床には代えられない。せめて猫として領分を越えないようにするしかなかった。
「ごめんなさいね、クム。休憩の邪魔をしてしまって」
私はムスッとしたままミャアと低く鳴く。
「ファルザーム。降ろしなさい。クムが嫌がっているでしょう」
メフリはいつも私の代弁者だ。彼女は人間であるのに猫の気持ちがよく分かっている。
「嫌がってないよ。喜んでるもん」
このままだと胴体が伸びてしまいそうな気がするので、身体を捻って床に手をつく。乱れてしまった毛並みを整える為に、毛繕いをしながらファルザームを睨みつける。
「ほら、怒っているでしょう? ちゃんと謝りなさい」
「……ごめんなさい。クム、怒った?」
怒ってはいない。だが、涎のついた手で頭を撫で回したり、抱き上げたりするのは止してほしい。ついでに私の美しい尾を踏むのもやめてくれ。
下履き一枚のファルザームがしゅんと項垂れている。どうやら彼なりに反省をしているようなので、これ以上は責めまい。
毛繕いを終えた私は尾を立てて、ファルザームにすり寄った。自分の匂いを身体に擦りつけておく。こうしておけば外で野犬や動物に襲われることはない。少なくとも近所の犬や猫なら私のことが分かる筈だ。
「おかあさま。クム、赦してくれたみたい」
「よかったわね。でも、クムにはクムの時間があるのだから。それを邪魔することは誰にもできないのよ」
「はい、おかあさま」
多分なにも分かっていないだろうが、返事が良いのはいいことだ。
ファルザームの父、すなわちメフリの夫は学者を生業としているが、もう長いこと家へ帰っていない。国王の命令とやらでアレクサンドリアという街へ勉学に行っているらしい。国費留学というものだ。私からすればボーッとして何を考えているのかよく分からない男だが、よほど優秀なのだろう。人は見かけによらぬ。
アレクサンドリアという街については何処にあるのかも分からないが、大昔に同じ名前の青年と出会ったことがある。左右で違う色を持つ眼が理知的な学生であった。もうとうの昔に亡くなっているだろうが、彼はどのような人生を送っただろうか。
とにかく父親が家を出て三年ほど経っているので、ファルザームはきっと父親の顔を覚えていないだろう。寂しい、と口にすることはないが、私には彼が父親を待ち望んでいることがよく分かった。
メフリも当然、夫が戻らずに寂しいだろうが、気丈に夫のいない家を守っている。比較的、平和な国ではあるが、何処の国にも悪人は存在する。せめてもう少し家族がいてくれたら良いのだが、メフリが嫁いで間もなく夫の両親は流行病で亡くなってしまったので頼ることのできる親戚がいないのだ。
とはいえ、猫に人間の事情がよく分からぬ。
ファルザームが大人になるまでは一緒にいてやるつもりではいるが、あんまり長くいると化物ではないかと疑われるので気をつけなければならない。
それから暫くファルザームの相手をしてやると、急に体力が尽きたのか、ころんと絨毯の上に横になって寝息を立て始めた。何も着ないままでは風邪をひくので、適当な布を咥えて上へかけてやる。
人間の子供は本当に手間がかかる。猫であれば半年も経てば独り立ちをして、一人で生きて行かねばならない。テリトリーの中にいたら襲いかかってでも追い出して自立を促すのが親猫の愛だ。
しかし、人間はそうはいかぬ。兎にも角にも成長が遅い。歩くことはおろか、座ることもできない。首も据わっていないので横になる以外のことはできないのだ。乳すらも与えてやらねば飲みに来ない。どう考えても、もう一年は腹の中にいるべきだろう。
「クム。おいで」
窓の側にある椅子に座り、縫い物をしていたメフリに呼ばれたので、今度はこっちの相手をしてやらねばならない。
私は彼女の膝の上が嫌いではない。太腿がしっかりしているので寝心地が良いし、いつも良い匂いがする。以前、夫が土産に市で買ってきたという薔薇の香油を髪につけているからだ。
「いつもありがとうね。クムは本当に良い子ね」
撫でるのは構わないが、私まで子供扱いするのは気に入らない。仮にも神である私が人間の娘に子猫のように扱われるのは問題であり、甚だ不敬である。しかし、彼女の撫で方は癖になるものがあった。力加減か、撫でる手の向きなのか分からないが、撫でられているとなんとも心地よくなるのだ。
そうしている内にいつの間にか眠ってしまう。
これが此処を離れられない理由の一つになっているのは間違いない。
◇
それから八年の月日が流れたが、メフリの夫はまだ帰って来なかった。
時折、便りがやってくるが、帰国する目途は立っていないという。早く国に帰りたい、という夫の文字にメフリは涙を流した。
ファルザームは十三歳となった。
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