花鏡游月
この世の憂さを晴らそうと呑む酒ほど、虚しいものはない。
酔いが覚めてしまえば、現実に打ちのめされるだけ。
茹だるような夏の夜に、ひとり虚しく酒に溺れている自分が酷く情けなかった。恋人を作り、家族を設けている友人たちが立派な大人に見え、そうではない自分は子供のままのような気がしてならない。
電信柱の影に蹲りながら、悪態を吐く自分の有り様が嫌になる。頭は痛むし、指先は痺れる。このまま死んでしまいたい、と何度思っただろう。
不意に、どこからか笛の音が聞こえてきた。
顔を上げると、石畳の路地の先に鳥居が見える。小高い丘の上まで石段は続いているらしい。こんな場所に神社があるとは知らなかった。
太鼓の音に、笛の音がいかにも楽しげだ。夜祭りの日だったのか。
酒で軋む頭を抱えながら立ち上がり、飲みかけの缶ビールを口に含んだ。生ぬるいビールほど不味いものはないが、このまま捨ててしまうのは勿体無い。
酒の肴でもあればいい。
石段を一段ずつ登りながら、頭上に吊るされた提灯を眺める。どういう意味があるのか知らないが、奇妙な紋様の家紋ばかりがずらりと並んでいる。
「百足に鬼、こっちは顔のない女か? 気味が悪いな」
それにしても人がいない。今が何時なのか分からないが、どうやらもう祭りは終わってしまったらしい。しかし、それにしては相変わらずお囃子の音は聞こえてくる。
「夜店が閉まっていたら、苦労して階段を登る意味がないなあ」
もう随分登ってきた。下から見ると、そうでもないようだったのに、実際に登ってみると遥かに長い。酔っていて息は上がるし、足が鉛のように重たかった。
それから暫くして、ようやく石段を登り切った。
「ああ、やった。くそ、登りきってやったぞ」
ゼェゼェと息を吐きながら、街の夜景でも眺めてやろうと背後を振り返ると、そこには何もなかった。塗り固めたような漆黒の闇が広がるばかりで、さっき登っていた筈の石段すら淡く闇に呑み込まれているように見える。
「なんだ、これ」
呆然としながら目を凝らすが、何も見えない。仮に街全体が停電していたとしても、此処まで何も見えないなんてことがあるだろうか。
氷水を頭からかけられたように、急に酔いが覚めていくのを感じた。
引き返した方がいい。
慌てて階段を駆け降りようとした所で、俄かに水の音がした。見れば、足元で小さな波が打ち寄せて白く弾けるように砕ける。ハッとなって顔を上げると、強い磯の香りと共に黒々とした海が広がっていた。波の間に鳥居が一列に立ち並び、その間に吊るされた提灯が夜の海を淡く照らしあげている。
「嘘だろう」
悪い夢でも見ているのか。
幾らなんでも飲みすぎた。こんなものが見えてしまうほど飲んでいたなんて。しかし、どこからが夢なのだろうか。あの電信柱で蹲っていた時か。それとも石段を登り始めた時だろうか。
背後からは変わらず、お囃子の音色が響いている。
振り返ると、石畳の先に大きな門があり、その奥に拝殿が見えた。遠くてよく分からないが、そこには幾つかの人影があり、どうやらお囃子はあそこから聞こえてくるらしい。
ほんの少し先に小さな店が一軒だけ残っていた。
すがる思いで近づいてみると、木製の大きなたらいの中に数匹の金魚が泳いでいる。店の幟には『金魚スクイ』とある。
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