
[ためし読み]『植民地の偉大さと隷従』「これは植民地主義礼讃の書なのか? ―序に代えて」から「一.今、なぜサローか」
フランス植民地主義が最も隆盛を誇った1931年に公刊された本書。執筆したアルベール・サローは、第三共和政期フランスを代表する植民地理論家です。サローは本書で植民地事業の偉業や栄光を誇示しながら、同時に植民地統治にかかわる内省や葛藤を吐露しています。
ともすると、植民地主義を礼讃しているかのように読めるタイトルの本書ですが、訳者は「われわれとしてはサローが生きた時代の風潮、思潮がいかなるものであったのか、本書を通して読み取るべきであろう」「著書表題にある隷従は、植民地化された現地住民が宗主国に隷従するという意味では全くない。その点については、サロー自身が本書の中で明示的に述べている(本書八二頁)。宗主国への隷従といった意味に解釈するのは端的に言えば誤解、ないし曲解である」と言います。
本書を読み解くヒントを訳者が語る「これは植民地主義礼讃の書なのか? ―序に代えて」から「一.今、なぜサローか」を公開します。
【目次】
これは植民地主義礼讃の書なのか? ―序に代えて 小川了
一.今、なぜサローか ←公開
二.フランス植民地史と本書の位置
三.本書に見られるいくつかの特徴
1 植民地主義という語について
2 フランスの植民地統治=利他主義に基づくという主張
3 強制労働について
四.ロスロップ・ストッダードへの「心酔」
五.植民地開発のジレンマ
第一章 問題の所在
第二章 ヨーロッパによる植民地開発の発展
第三章 植民地大国フランスの義務
第四章 フランス植民地帝国の創設
第五章 植民地統治の基本原理
第六章 植民地事業がもたらす恩恵
第七章 揺り戻しの大波
終章 白人の責務
訳註
訳者あとがき
人名索引
事項索引
◇ ◇ ◇
これは植民地主義礼讃の書なのか? ―序に代えて
本書は、今さら断るまでもなく翻訳書である。翻訳書たるもの原著の著者が主役であること、論を俟(ま)たない。である以上、本書の原著者アルベール・サローの筆になるものを書物の初めに置くのが本来の礼節を弁(わきま)えたやり方であるかと思う。訳者もその点に関しては相当に思い悩みもした。その上で、敢えて原著の翻訳に先立ってこの「序に代えて」を置かせていただくことにはそれなりの理由がある。その理由を端的に言えば、本書のタイトル、つまり「植民地の偉大さと隷従」という表現を目にしたとき、読者はまず「植民地の偉大さ」という表現からして本書は〝植民地主義を礼讃するものであろう〞という印象をもち、さらにそれに付け加えて「隷従」という表現を目にするとき、それは〝植民地化された人々の(宗主国への)隷従〞を意味するものであろうという印象を抱かれるのではないかという問題に関わっている。じつのところ、確かに本書はのちに述べるようにフランス植民地主義の絶頂期に出版されたものであることをまずは認めておかねばならない。フランスによる植民地活動の「栄光」、それを支えるフランス精神の精髄、そういったものが詳述されている。その事実を確認した上でわれわれが注目すべきは、本書中の随所で披歴されている著者A・サローの植民地統治の諸側面に関するじつに真摯な考察であり、事実の検討、内省についてである。サロー自身の言葉を見てみよう。サローは植民地化に反対する人々の言説として、植民地化とは他者を服従させ、その上で従属化された人々に属するはずの富を収奪する行為であって、純粋道徳という観点からしてそれは誤りであると主張することを紹介した上で、植民地化という事業は「抽象的な道徳という観点からして単純に正当化し得ない」ものではあるが、「人間が生きていく上で避けることのできない接触によって具体的に起こる現実の状況をしっかり検討した上で議論」(本書八八頁)をするべきであると述べている。サローは単純に植民地活動を礼讃する植民地主義者なのではない。読者は本書中で植民地活動への反対論者が言うところの議論をいくつも目にするであろう。サローはそれら反対論を吟味し、みずからの植民地現地での統治活動を検討、内省した上でみずからの立場、意見を表明しているのである。その意味で、本書を単純な植民地主義礼讃の書と見なすのは誤りである。そもそもアルベール・サローという人は政治的には急進左派に属する人であって、植民地反対論者から遠く離れた位置にいた人ではない。反対論者たちの議論を熟知した上で〝後(おく)れたる人々〞には手を差し伸べねばならないという信念のもとで自己の世界観を形成している。サロー自身の言葉では植民地活動は「生身の人間として(原住民に)接し、温かみのある、豊饒にして積極的な創造活動」(本書一七四頁)なのである。フランスの植民地活動はとりもなおさずフランス人に特有の資質とサローが言うところの利他の精神に基づく、人類の連帯のための活動なのだと言う。サローはこの人間としての〝善意〞なるものを信頼し、疑っていない。その善意なるものが、善意の対象になっている人々にとって迷惑千万なものになる可能性にまでは思い至っていないようである。われわれとしてはサローが生きた時代の風潮、思潮がいかなるものであったのか、本書を通して読み取るべきであろう。
もう一つの問題、つまりサローの著書表題に含まれる「隷従」という言葉が意味するところについては本書の全体を通して何度も言及されているが、その都度、隷従が意味するところは少しずつ違っている。それらが具体的に意味するところについては、読者諸賢各々が本書を読み進める中で発見する楽しみを味わっていただきたいと思う。ただ、その発見の一助になればという思いもあり、訳註においてそれぞれの隷従が意味していると訳者が考えるところを記しておいた。いずれにせよ、著書表題にある隷従は、植民地化された現地住民が宗主国に隷従するという意味では全くない。その点については、サロー自身が本書の中で明示的に述べている(本書八二頁)。宗主国への隷従といった意味に解釈するのは端的に言えば誤解、ないし曲解である。
上記二点を明言した上で、本書はフランスの植民地主義を礼讃するものではなく、フランスの植民地活動の現場の様子、また植民地現地での統治に実際に従事していたアルベール・サローという人間がどのような内省と葛藤、さらには現実の植民地活動とみずからの世界観との齟齬、矛盾とさえ言えるものを意識しながら、時代の思潮と対峙していたのか、それらについてまず理解の鍵となるいくつかの要点を述べておきたいがために、この「序に代えて」を本書冒頭に置かせていただく次第である。亡きアルベール・サロー師の寛恕と、読者諸賢の了解を賜りたい。
一. 今、なぜサローか
アルベール・サローによる本書原著『植民地の偉大さと隷従』(Albert Sarraut, Grandeur et servitude coloniales, Paris: Editions du Sagittaire, 1931)の発行は一九三一年、つまり現時点(二〇二〇年)から遡るなら八九年前に発行された一書であり、もはや「古書」という部類に属するだろう。
本書全体をざっと「斜めに」早読みした場合、読者は心のうちに次のような思いを抱かれるかもしれない。つまり、先に記した通り、本書は一面からすればフランス、及びヨーロッパ諸国による植民地経営を称賛し、植民地に暮らす住民の「後(おく)れ」をことさらに強調し、その後れた地域にフランス、そしてヨーロッパ諸国が文明をもたらすことが世界人民の利益のためにいかに重要であるかを説き、その上で、植民地現地の住民たちからいかなる反抗、抵抗があろうともヨーロッパによる植民地支配を何としても死守しなければならない、そのことを主目的に読者に訴える本ではないのか、という思いである。そのような恐れがある著書を現時点でわたしが敢えて翻訳出版しようとしたことの意味、そのことについてまず説明しておきたい。
本書発行の一九三一年、フランスでは国際植民地博覧会がパリ郊外ヴァンセンヌの森にて盛大に開催されている。この博覧会にフランスは文字通り国家の威信をかけて、フランス植民地の偉業、栄光を対外的に誇示すると同時に、他方ではフランス国民に対しフランスの植民地事業の偉大さを強く認識させようとした。本書はこの国際植民地博覧会の開催に合わせて発行されたものであり、フランス領インドシナ植民地連邦総督や植民地大臣というフランス国家の要職を歴任し、フランス植民地理論の第一人者として自他ともに認められていたアルベール・サローにその執筆が委託されたものであった。
したがって、そこで扱われているテーマはフランスの植民地事業の栄光を讃えることが主になっているのは当然である。が同時にアルベール・サローは、その事業に伴う多くの困難(それが隷従という言葉で表されている)を率直に披瀝しているのである。そうすることによってサローはフランス国民にフランス国の植民地事業擁護への奮起を促そうとしている。しかし、現時点で本書を読むとサローが言うところの困難は植民地経営という事業が本来的、内在的にもつ諸矛盾を図らずも示していることがよく理解されるものになっている。つまり、本書を現時点で翻訳出版する第一の意義は、ヨーロッパ諸国(及び一時期の日本)による植民地経営を賛美するためではなく、植民地経営という事業が本来的、内在的に包含せざるを得ない矛盾、そのことについて今一度考え直す機会として本書は貢献し得ると思うためである。
確かにアルベール・サローはインドシナ植民地連邦総督を務め、また本国においては植民地大臣までを務めた人であり、したがって彼がフランスにとっての植民地の重要性、そしてフランスが植民地経営をすることが現地住民にとってもいかに重要なことであるか、確信していたこと自体は疑念を生じさせるものではない。その点については本書中の随所で彼が強調している通りである。しかし、彼は同時に本書中の随所で、当時のフランスでは、というよりすでにその半世紀ほども以前からなのであるが、植民地支配を激しく批判する人々が数多くいたことに言及し、そういった批判に対する反論をせざるを得ないみずからの立場を率直に認め、実際に随所で反論をしている。ただ、その反論には植民地支配について彼自身が苦悩する姿が垣間見えるのである。アルベール・サローという人の中にはみずから信ずるところと、それに対して激しく批判する人がいるという事実を前に真摯にみずからの立場を検討し、吟味し、誤りはないか見極めようとする姿勢がうかがえる。そういった記述を読むと、フランス植民地主義がその隆盛を誇った一九三一年という時期にあって、フランス人の多くが、またフランス知識人たちもが植民地というものをどのように見ていたのか、擁護する視点から、あるいは逆に批判する視点から、どのように見ていたのか、それを知ることができる。
しかし、実際のところ、サローが本書中で一つの章立てをして詳述しているように、彼が本書を執筆していた当時、植民地各地では「揺り戻しの大波」が沸き起こっていた。のちにも述べるが、その大波は世界大戦(第一次)直後から徐々に激しさを増していたのである。フランスについて見た場合、大戦に際してフランスがその植民地から多くの青年を前線での兵士として、あるいは後衛地域での労働者として呼び寄せたことが一つの直接的な原因になっている。サローは本書最終章で、大戦に際しての植民地出身兵士・労働者のフランスへの貢献を高く評価し、大仰に思えるほどに讃える記述をしているが、それは「揺り戻しの大波」を嘆く記述の裏返しであり、彼らを讃えることで彼らに矛(ほこ)を収めてほしいと願う気持ちの表れであるようにさえ見える。
ともあれ、サローがいかに自身の苦悩を表明しようとも、またフランスにとっての植民地の重要性を強調しようとも、歴史の流れを変えることはできない。揺り戻しの大波は、再度起こった世界大戦(第二次)を挟んでのち、植民地の独立として具体的な形をとっていく。一九五五年のバンドン会議、さらにそのわずか五年後にはアフリカで一七もの地域が植民地状況を脱し、独立を達成することになるのである。その時、サローは存命であった。どのような思いで、この急激な歴史の動きを眺め、みずからが記した「植民地の偉大さと隷従」を嚙みしめていたであろうか。
この点に関連して申し添えると、先に本書は一九三一年刊の「古書」であることを記したが、じつのところ本書は二〇一二年、パリ在のL’Harmattan 社より復刻出版されているのである。二〇世紀が終わりを迎えようとしていた一九九〇年代の後半ぐらいから、フランスのみならず、イギリスなどかつて植民地帝国を誇った国々においては、植民地支配、さらにそれ以前の大西洋奴隷貿易、奴隷制に関する議論が多くなされるようになってきた(詳しくは平野[二〇一四年]を参照)。奴隷貿易、そして植民地支配を受けた側からの補償や賠償、謝罪の要求が高まっていたことと関連しているが、ヨーロッパ諸国では一方でヨーロッパの統合が論じられると同時に、過去への向き合い方について真摯な議論がなされていたのである。A・サローによる本書が復刻出版されたことも、当然このような流れの中での一事象としてとらえられよう。植民地支配を反省的に検討、考察しようとする場合、植民地支配のさなかにあった人がいかなる考えに基づいて支配の正統性を論じ、またその支配にはいかなる困難が伴っていたのかを知るためには原典の再読は当然ながら不可欠であることが多くの人に認識されていたからこそである。サローが言うところの植民地事業の偉大さとそれに伴う諸困難を理解すること、それはフランスの植民地支配がその頂点に達したかと見られた一九三〇年代初めにおいて、支配する側の人々がいかなる認識に基づいて支配を正当化し、にも拘らず支配される側の人々が「支配の正統性」を理解しようとしないのかということに苦しみ、葛藤していた様子をうかがい知るに十分である。
少し視点を変え、旧植民地諸国が現代の時点で達している状況から考えてみよう。
一九五五年、資本主義圏にも共産主義圏にも属さず、非同盟諸国や第三世界諸国とも呼ばれた有色人諸国二九か国の代表がインドネシアのバンドンに会合した第一回アジア・アフリカ会議において、基本的な考え方として反植民地主義が提唱され、実際、その五年後にはアフリカ大陸において一七もの国が植民地状況からの独立を達成した。
バンドン会議開催時において主役の一人であった中華人民共和国は建国から六年を経たばかりであったのだが、その中国は二一世紀に入った今や世界の覇権国になろうとしている。他方、アフリカ諸国はと言えば、このところのTICAD(日本政府主宰によるアフリカ開発会議)に鮮明に見られるように、現今のアフリカ諸国は援助対象の国々という段階を脱し、活力ある投資対象として、官主導の政策より民間部門の進出が重要と論じられるようになっている。将来を見据えて、対等の相手としてやっていこうという姿勢が重要になっているのである。実際、アフリカ諸地域における携帯電話の普及率の高さは現地(特に地方部)での調査を基本とする文化人類学者らの報告を見ても驚くほどであり、さらにキャッシュレス決済をする人の率が現今の日本よりも高い地域さえあるというのである。
アルベール・サローの手になる本書を読むとすぐに分かることだが、サローの時代においてヨーロッパ諸国が植民地を経営する根拠として挙げられる理由は二つであった。一つは自国の産業発展、及び人々の日常生活に欠かせない第一次資源の供給地として植民地は重要なのであり、そして、多分それ以上に重要極まる根拠として考えられていたのは本国での生産物の捌(は)け口、市場としての植民地であった。一次資源の獲得地、そして自国産品の市場としての植民地獲得にヨーロッパ諸国は死活的重要性を見出していたのである。サロー自身の言葉で言えば、ヨーロッパの列強国にとって「それはまさに生存のための競争であった」(本書一〇九頁)のだ。そういった植民地獲得競争の中で、サローは本書中で日本の台頭に注意を促すと同時に、中国について次のように述べている。「五億人もの人口を擁する中国が、その長い眠りから覚め、日本の例に倣い、というよりも日本からの指導を仰ぎつつ、産業力を増し、広大な土地が生み出す資源とその地下に眠る膨大な資源を活用するようになるとすれば、どうなるであろうか。中国には安価にして、無限というほどの労働力がある。中国がそれをいつまでも眠らせておくことなどあろうはずがない」(本書二四四頁)というのである。これはまさに慧眼という他はない指摘であって、現時点(二〇二〇年)における中国の活力の強さには誰しもが瞠目するであろう。サローの時代、フランスにとってアフリカと並ぶ重要性をもつ一つの植民地域であった中国、その中国は今や世界の覇権国の一つであり、中国がアフリカ諸国のインフラ整備のために供給している資金額は世界一だというのである。
ここに挙げたわずかな事例を見ても分かるが、サローの時代におけるヨーロッパ諸国領であった植民地は現代において驚くほどの変化を遂げている。原著出版から九〇年に満たない時間の中でこれほどの変化が起こっているのである。
その一方で、第二次世界大戦後に至るまで植民地経営を続けたヨーロッパ諸国の現状はどうであろうか。少なからぬ困難、というより混乱、そして展望のなさに直面している観がある。それらの困難のうちでも当面、根本的解決という展望が見えないという意味でアポリアとさえ思える問題が、かつての被植民地諸国や打ち続く戦乱下の諸国(これらの戦乱もかつての植民地状況を遠因としているケースが多い)からの移民、難民、避難民、そして密入国者の到来であるように思える。これら移民、難民の到来に対して、「国是」として国境を閉ざす国がある。その隣の国では初めのうちは積極的に受け入れたものの、直面する問題の多さ、複雑さにおののいているようである。受け入れ派と受け入れ拒否派の人々が対峙し合うケースも見られる。自国第一主義という言葉が政治家の有力な支持基盤になっている。ポピュリズムを背景にして、独裁とも言うべき体制をとる国もある。そうした中で、かつての被植民地諸国、地域からの人々の流入は止まる気配を見せてはいない。このアポリアを生み出した元凶がヨーロッパ諸国による植民地経営と無縁であるはずはない。アルベール・サローによる本書を読むと、このアポリアの淵源がいずこにあるのかが理解される。現代世界の難問中の難問を理解するためにも一九三一年刊の本書を読むことには意味がある。
他方で、もう一つ別の問題もある。植民地主義という言葉に古めかしさを感じる人が多いかもしれない現代の時点において、しかし、「植民地」が実在しているのも事実なのである。確かに、植民地(英語でcolony、フランス語でcolonie)という直接的な語は用いられていない。しかし、フランスには海外県(département d’outre-mer)というものがある。アンティーユ諸島中のマルティニック、グアドループ、そして南米大陸北東部に位置するギュイアンヌ(フランス領ギアナ)、及びインド洋上に位置するレユニオン島がそうであり、マダガスカル島北部とアフリカ大陸の間の海上にあるマヨット島もフランス海外県の一つである。特に、マルティニックとグアドループは一六三五年という早い時期にフランスに領有されたことからフランスの「古い植民地」とも言われているものである。県ではないがサンピエール・エ・ミクロンをはじめとする海外准県(collectivité d’outre-mer)とされるものもあり、さらにもう一つ別のカテゴリーとして、フランスの海外領邦(pays d’outre-mer)という特殊な地位を与えられているフランス領ポリネシアとニューカレドニアもある。
これら現代に残るフランス海外領土の多くでは住民側から現時点での独立は求められておらず、フランス領土として残る旨の意志が表明されている。詳しく述べる余裕はないが、そこにはフランスが二〇世紀半ば以降、実施してきた生政治が大きく関わっているであろう。ともかく、「植民地」から「海外領土」へという流れの奇妙さを理解するためにも、植民地統治最盛期とも言える一九三一年発刊の植民地統治理論である本書をまずは精読する必然性がある。
ところで、ここに述べたフランス海外県や准県、そして領邦のうち、フランスの「古い植民地」とされるマルティニック島から、まさに国際植民地博覧会が開催され、サローの本が出版された一九三一年その年に一人の若き留学生がパリに到着している。その名をエメ・セゼールという。エメ・セゼールは国際植民地博覧会には何の興味も示さなかったというが、本の虫であった彼が、当時出版され多大の読者を引き付けていたサローの著書を読まなかったはずはない。パリ到着からわずか四年後の一九三五年、セゼールはやはりパリに留学していたフランス領西アフリカ植民地セネガル出身のレオポル・セダール・サンゴールなどと共に『黒人学生』という新聞を発行、フランス植民地政策の非を論じている。セゼールの植民地政策への批判、攻撃はその後発行された長詩中や、論文中でも繰り返されている。要は、植民地統治が本来的に内包する現地文化の「破壊」に対する絶対的な非受容の姿勢である。
アルベール・サローは本書中でフランスの植民地統治がいかに現地住民の福祉の向上、文化の開明に心血を注いでいるかを強調している。フランスの善意と人類愛を強調しているのである。まさに、それゆえに植民地現地の住民たちがなぜ「揺り戻しの大波」を起こすのか理解できないでいるようである。植民者として、現地住民の文化に混乱を起こしていることが彼にはどうしても理解できなかった。植民地支配の中核にいた理論家は、みずからに課せられた「隷従」から逃れることができなかったのである。
以上、簡略ながら現代という時点でサローの著書を翻訳することの意義いくつかについて述べた。
二.フランス植民地史と本書の位置
次に、この「序に代えて」の本論に入る前にフランス植民地史という大きな流れの中での本書の位置がどのようなものであるのか、その概略を述べておきたい。
本書中でアルベール・サローは、「フランス人の基本的性格、それは利他主義者ということにある」とし、「その精神は国境を越え、人々すべての間で正義、連帯、そして互いに助け合う精神が地球上の全人類社会で実現されることを望む」という。その上で、「特有の知的好奇心の強さ、それあるがゆえにフランス人はより広い、未知の世界への進出を好み、その新世界にも善なるものをもたらさんと欲する」(本書一三二‐一三三頁)というのである。ところが、サローは彼の最大の著書であると言ってよい前著(Sarraut 1923: 12)において、フランス人一般の性格、気質はcasanier という言葉で特徴づけられると言っている。基本的性格としては、むしろこちらの言葉の方がフランス人の特徴を表しているのではないかと思われるのだが、自分の家にいるのが好き、出不精である、外の世界を見るよりも自分の身近な世界の内に閉じこもっている方が好き、という性格である。フランスという広大で、かつ平たく、概して雨量に恵まれた肥沃な土地を耕し、身近に穫れる産物で暮らしていればそれで良しということであろう。
その一方で、冒険心に富み、外の世界に関する好奇心に満ちた人々が相当数いること、これもまた当然のことである。一般のフランス人が外部世界に関する情報に触れようとする場合、こういった好奇心に満ちた人々と、外的世界への進出を任務の一つとする軍人に頼るのが常であった。
一五世紀末、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマによって新世界アメリカと東洋に至る海の道が開かれたのち、一七世紀前半、ルイ一三世治下の宰相リシュリュー、その後を受けたコルベールは海のかなたに多大な富があることを認識し、海外との取引、そして植民地の開拓に乗り出し、フランスはヨーロッパにおける列強国の一つになった。しかし、その後のフランスは全体としてヨーロッパ内での問題に対処する期間が長く続いた。一八世紀末の大革命、その後の混乱も大洋を越える活動にブレーキをかけたであろう。
一八七〇年から翌年にかけてのプロイセン(ドイツ)との戦争に負けたことが一つの転機になった。この「序に代えて」においてのちに詳述するが、敗戦直後、フランスが偉大であろうと欲するのならば、海外への進出、征服は必須のことと人々を鼓舞する思想家が現れる。また、軍人など遠隔の地に出かけ、その地で経験するさまざまな冒険、現地人との接触の様子を文学として世に発表する者が多く現れ、出不精なフランス人一般にしばしの夢を見させるものとして大いにもてはやされもした。軍人を中心に植民地開拓はなされていたのである。
そうして一九一四年、ヨーロッパ諸国は大きな戦乱に入ることになる。その戦乱に際して、フランスはすでに所有していた広大な植民地から人的、物的な「支援」を得ることになった。その支援はフランスが半ば強制的に押し付け、求めたものであったが、戦後、フランス人の多くは植民地の存在、その広大さとそれがもたらす恩恵の大きさを強く意識することになる。フランス人の「内に閉じこもる」性格に変化がきざしたと言えよう。また、気づけば、コーヒーや砂糖をはじめとして自分たちの日々の生活に植民地産の物品はもはや欠かせない状況にもなっていた。
と同時に、この四年余りも続いた大戦に際して、フランス本土に呼び寄せられた植民地出身青年たちの側について見ると、植民地現地ではあたかも横暴な神であるかのように尊大に、格の違う人間として振る舞っていたフランス本国人たちが、本国での戦争の現場において植民地人である自分たちと同じ弱さ、悩みをもつ人間であることを身をもって知り、同時に、では自分たちはなぜ低く見られ、かつ低位者として扱われなければならないのかについて疑問をもつようになった。大戦後、一九二〇年代のフランスにはかなりの数の植民地各地出身者が残っており、またそれら植民地から密航などの手段をもって新たにフランスに来る人も相当数あり、そういった人々を中心にフランスの植民地支配に反対する運動がフランス国内、特にパリで目立つようになる。大戦中の一九一七年に起こったロシア革命の影響も大きかった。また、植民地各地においてもフランスの宗主国としての支配に疑問をもち、反抗的な運動を起こす人が現れるようになっていた。植民地においてフランスがおこなったさまざまな開発計画、現地民への教育、そういったものが現地民の意識を目覚めさせ、知識を高め、そのこと自体がフランスの植民地支配に対する疑問をもたせることにつながっていったのである。現地の開発に力を注げば、そのこと自体がフランスの統治に反対する現地住民の意識を目覚めさせるというジレンマである。
一九二二年、本書の著者であるアルベール・サローは植民地大臣の任にあったが、「フランス領植民地活性化総合計画」という大法案を国会での審議に提出した。フランスが有する広大な植民地、フランス領アンティーユ諸島、西アフリカ、赤道アフリカ、インドシナ、オセアニア、ニューカレドニア各々の開発の現状と今後の開発計画に関する緻密具体的、かつ壮大な計画である。その計画法案は、同年にマルセイユで開催された植民地博覧会に合わせて上程されたものであった。それから約一〇年後、フランスはヨーロッパの他の植民地経営国にも呼びかけて国際植民地博覧会という大祭典を催した。アルベール・サローによる本書が緊急執筆、公刊されたのは、まさにそのような事態が進行しつつあるさなかのことであった。
国際植民地博覧会はパリ市に接する南東部郊外のヴァンセンヌの森にて一九三一年五月半ばに幕を開け、一八〇日の期間後、一一月半ばに幕を閉じたのだが、この間にサローの著書は版を重ねること一〇度に及んだという(Cooper 2012: viii)。わたしがこの翻訳のために個人的に参照したのは第一三版のものであるが、その出版年は一九三一年であるから、同書は植民地博覧会がその年一一月半ばに幕を閉じたのちも、年が暮れるまでの一か月半の間に少なくとも三度は版を重ねたことになる。驚くべきペースで売れ続けたことが分かる。
このようにサローの著書がフランス植民地事業の繁栄、隆盛を誇る博覧会開催に連動するものであるのは確かだが、その内容を一読すれば分かるように、じつのところは世界に広がる植民地のあちこちで現地住民、サローの言葉に従えば「原住民」(les indigènes)であり、かつ「保護民」(les protégés)であるのだが、それら植民地現地人が植民地支配に対抗して立ち上がる気配を見せ、そこに社会主義革命を経たロシアが手を伸ばし、現地人たちに「入れ知恵」どころか、蜂起を目指した策動をするために情勢はいよいよ不穏、フランスは、そしてヨーロッパ諸国は一致して何としても植民地を守り抜かねばならぬ、というものである。つまりはフランス国民に植民地事業隆盛の慶びを共有させるための一書というよりも、危機に直面し始めた植民地防衛のために広く国民一般に奮起を促す書なのである。本書を締めくくる最後の言葉をご覧になるがよい。サローは言っている。「フランスの善き支配、それがもたらす真に道徳的な力」、「その義務完遂の意志あらんことを」、「それはヨーロッパの隷従、同時にそれこそはヨーロッパの偉大さ」(本書三四三頁)と叫んでいるのである。死に瀕した白鳥の雄叫びのように聞こえないだろうか。(後略)
【著者紹介】
アルベール・サロー(Albert Sarraut)
1872年(普仏戦争敗戦の翌年)7月、フランス、ボルドーにて生まれる。パリに進出後、急進社会党に属し、植民地統治問題に関心を深める。インドシナ植民地連邦総督を二度務め、その後植民地大臣、海軍大臣、内務大臣、国務大臣、さらに首相の要職を各々数度にわたって歴任した。第三共和政期フランスを代表する植民地理論家であり、1923年に発表した『フランス植民地の開発(La mise en valeur des colonies francaises)』は675頁に及ぶ大著であり、その中でサローはフランス領植民地各々の資源、開発状況等を詳説しているが、植民地での衛生環境、社会教育環境を充実させる必要を強調している。1962年11月、パリにて没した。
【訳者紹介】
小川了(おがわ・りょう)
1944年生。東京外国語大学名誉教授。西アフリカ、セネガルを中心にした民族学・歴史を専攻。著書に『第一次大戦と西アフリカ―フランスに命を捧げた黒人部隊「セネガル歩兵」』(刀水書房、2015年)、その他。
【書誌情報】
植民地の偉大さと隷従
[著]アルベール・サロー [訳]小川了
[判・頁]四六判・上製・372頁
[本体]2700円+税
[ISBN]978-4-904575-84-0 C0022
[出版年月日]2021年1月6日発売
[出版社]東京外国語大学出版会
※肩書・名称は本書の刊行当時のものです。