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ある綴方の授業 高井有一『真実の学校』から


 昭和七年(1932年)ごろの、秋田県のある教室での授業の様子を、作家の高井有一氏が、小説の中で再現したものを以下に引用します。教師・鈴木は、実在の人物です。当時、時間割には「綴方」の時間がありました。現在、作文や綴方を書く公式な時間割はありません。そういった時間割は文科省が定めています。

しかし、こういった授業は、現在も心ある生活綴方教師によって受け継がれています。この夏(2024年)の、全国作文教育研究大会でも、引用のような心ふるえる報告を聞きました。

 綴方の時間は週に二時間ある。そのうち、一時間は生徒に文章を書かせ、あとの一時間を出来上がつた作品についての話合ひに当てるといふ形を、彼は基本にした。教壇に立つて、初めに、
「今日は、どんな事書くか、考へて来たか」
 と呼びかけ、何か言ひたさうにしてゐる子を指して、
「新蔵、話してみれ」
 と促す。たどたどしく喋るのを、頷きながら聞いてやる。二、三人そんな風にさせるうちに、子供たちの気持が、少しづつ書かうとする方へ向いて来るのが判る。
「どうだ、みんな何書くか、判つたべ」
「おら、判らね」
 と叫ぶ子があつたりして、教室は一時ざわめく。彼はしばらくそれが鎮まるのを待つてゐる。
「せば、始めれ」
 鉛筆を握る子供の横顔を一人ひとり見やりながら、彼はふと、彼等の熱心さが、不思議に感じられる。授業時間は短く、多くの子供は、なかなか時間内に書き切つてしまふ事が出来ない。残りは家へ持ち帰つて書かなくてはならないのだが、彼等はそれを厭がらず、家の仕事に追はれる間の、僅かの暇を偸(ぬす)んでは、少しづつ書き継ぐのであつた。一篇の綴方が、一週間もかかつて書かれるのは、珍らしくなかつた。
「先生、おら、昨夜寝ねえで書いたで」
 と朝早く、教員室へ駆け込んで来る子がある。さういう子の書いたものは、概ね秀れた出来映えなのであつた。自分の指導が適切であつたために、子供たちが綴方に意欲を持つやうになつたのだとは、彼には思へない。彼はむしろ日頃は言葉遣ひが荒く、野卑としか見えない子供の裡に隠された表現欲に、たぢろぐ想いをした。
 話し合ひの時間には、生徒のうちから進行係を選んで、その子に段取りを任せ、鈴木はなるべく口を挟まないやうに努めた。先づ、予め選んであつた綴方や詩を、それを書いた子供が朗読する。
 
 おばあさんが行つた   
           斎藤謙一
あんな遠い北海道から来て
まだ長くゐれといふに
おばあさんは涙をこぼしてゐた
僕は何となく涙が出た
おばあさんは停車場につくと
「北海道さ おえどえがねか(おれと行かないか)」といふ
僕は歯をくひしばつた。
汽車に乗つたおばあさんは
手にハンカチをぎつちりつかんでゐた
汽車は勢をつけて走った
おばあさんは
白いハンカチを
いつまでもいつまでも ふつていた
僕は見えなくなるまで
じつと立つてゐた
 
 窓際に寄せた椅子に腰を降して、鈴木は甲高い声の朗読を聞く。斎藤謙一の父親は、反物の荷を担いで近くの村を売り歩く糶(せり)呉服だつたが、身体を壊して商売を止めたあと〈三百〉をやつてゐた。これは町の揉め事の仲裁をしたり、簡単な法律相談に乗る仕事である。格別貧しいのではないが、謙一の家は明るさが乏しかつた。謙一にとつて、遠くに住む祖母の訪れは、いつになく気持の浮き立つ出来事だつたのであらう。その華やかな日々が終つてしまつたあとの、揺れ返しのやうな淋しさが詩に滲んでゐるのに、鈴木は打たれてゐた。
「みんな、訊きたい事あつたば、謙一さ訊け」
 進行係の子が促すのを待つてゐたやうに、代る代る謙一に質問が浴びせられる。
「謙一、お前のばつちや、お前とこめんけがつて(可愛がつて)呉れただか」
「んだ、めんけがつて呉れた」
 謙一の耳朶がみるみる赧くなる。
「お前、ばつちや、好きだべ」
「好きだ」
「停車場さ行つたとき、お前、涙出たつけか」
「出ねえ、出さうになつたども、一所懸命頑張つた」
「ばつちや、どうした」
「泣いた。おらが見ててしよしく(恥しく)なるくらゐ、泣いた。だども、おらは頑張った」
「母さんたちも、送り行つたんだべ」
「んでねえ。おら、一人して行つた。一人して行きたがつた」
「なして」
「なしてだか、判らね。なしてだか、ばつちやと二人の方、よがつた」
 謙一が半ば口ごもつてかう言ふと、教室に笑ひが漂ひ、釣られたやうに謙一も笑つた。彼にも自分の感情の動きが把めてゐなかつたのだらう。
「訊く事ほかになかつたば、今度は感想言つてけれ」
 と進行係の子が言ふと、直ぐにあちこちから手が挙つた。子供たちが、やうやく話し合ひの呼吸を呑み込んで来た様子に、鈴木は満足した。謙一が羨しいと言つた子があつた。
「おら、ばつちやと一緒に住んでるども、おらのばつちやなば、こつたに優しいものでね。お母とこ、叩いたりするしよ」
「謙一のばつちやは、北海道さゐるからいいんだべ」
 このあたりから、話が俄かに活気づいたのは、それぞれの家の生活を思ひ返したせゐであろう。
「おら、停車場で泣いた事があつたつた」
 謙一と家が隣で仲の好い子供が、いかにも大切な事を打ち明けるやうに言ひ出した。
「おらも、謙一と同じに頑張つたども、いけなかつた」
「お前も、ばつちや送つただか」
「んでねえ、おらは叔父、おらのお父の舎弟だ人送つて行つたなだ」
 彼の叔父は象潟に住んでゐたが、思ひがけず召集令状を受けて、本家筋に当る彼の家へ挨拶に来たといふ。満州事変が始まつてゐた。
「出征はめでたい事だからよ、近所の人さもかたつて(加はつて)もらつて、酒飲んだつた。おらだとて、叔父が立派な兵隊さなるかと思つたば、嬉しかつたで。だども、飲み方終つて、停車場さみんなと送り行つて、叔父に、お前さももう会えねえか知れねえつて言はれたば、なしてか泣けて来て、いけなかつた、何として」
「おらの従兄も、兵隊さ行つた」
 競ふやうに言ひ出す子があつた。
「その家の人が、別れるのやだくて泣いたとて、おらの父、みつともないと、ごしやいて(怒って)たつた」
 生徒同士の遣り取りは、だんだん謙一の詩から離れて行つたが、鈴木は好きなやうに喋らせておいた。子供たちの裡に、普段は捌け口のない屈託が潜んでゐるのを、彼は知つてゐた。彼が声をかけるのは、勝手な言ひ合ひが一しきり過ぎて、教室の気分がだれて来た時である。
「謙一の詩のどこがいいだか」
 と立上つて彼は言ふ。
「どつたな風に書いたとこがいいだか、よく考えてみれ」
 子供たちは顔を見合せ、囁き合う。しばらく間を置いて、
「しまひのとこがいい」
 といふ声が出る。
「僕は見えなくなるまで、じつと立つてゐた。このとこだな。このとこが、なしていいだか」
 鈴木は教室を見廻した。
「それを考へるのが、一ばん大事だぞ」
 謙一がばつちやを好きで、別れるのを厭がる気持がよく出てゐるから、といふ答が出るまで、そんなに時間はかからなかつた。
「んだな」
 と鈴木は、子供たちがやつと、自分が導かうとした場所にまで辿りついたのにほつとして頷いた。そしてそのあと、出会ひの倖せと別れの悲しみを描いた物語について話してやり、
「人間なば、みんなこつたな辛い目に遭つて成長して行くなだ。お前たちも、人の心の奥まで考へてやれる人間にならねば駄目だ」
 と言つて、授業を締め括つた。
 この授業の過程を通じて、子供たちは他人の心の痛みを、少しでも自分の痛みとして感じる事を学んだだらう、と彼は信じた。
 かうした手探りに近い活動を続けてゐたのは、鈴木正之一人とは限らない。六畳一間の北方教育社の、半ばを埋めてしまふくらゐ沢山の記録や報告が、各地の教師から寄せられて来てゐた。綴方は子供に現実を生き抜く力を与えるものでなくてはならず、作品指導は同時に生活指導であるべきだ、といふ認識で同人だちが一致するのは、昭和十年代に入つてからであるが、その方向を目指す動きは意識的ではない部分を多く含みながら、昭和七年ごろには、あちこちに現れてゐたと言つていいであらう。

高井有一『真実の学校』104p.-109p.、1980年、新潮社

 私はこの高井有一の小説の数ページに生活綴方教育の「源流」を発見し、嬉しくなりました。その嬉しさは、そのままそのページをキーボードで打ち直す意欲になりました。そして雑誌・北方教育の復刻版をAmazonで検索して、購入してしまいました。決して安価ではありませんでした。

鈴木正之の実践記録や論文があれば、早速読んでみたいと思いました。北方教育社同人の成田忠久や佐々木昂、加藤周四郎らの熱量を早く感じとりたいと思いました。また別の記事で、紹介できればと思っています。




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