月は食べたらおいしいのか?
9月17日の夜は、いい月が出ていました。5歳と9歳になる2人の娘といっしょに自宅近くの見通しの良い通りに出て、しばらく中秋の名月を眺めていました。
ところで、月はだれにとっても同じように存在しているのでしょうか。というのも、月を眺めながら、弱視の娘は、自分と同じように月を見ていないと思ったからです。
月の見え方のちがい
私は矯正視力が1.2ですが、9歳の娘は矯正しても0.4程度。はっきり月の輪郭とクレーターが見えている私と、ぼやっと見えている娘との違いを思いました。そうなると、全盲や視覚障がいのある人にとっての月は、私の見ている月とはちがうのだと再認識させられました。
月を眺めているときです。5歳の娘がぴょんぴょん跳ねながら、こんなことを言いました。
「ああ、うさぎに会いたいな〜」
9歳の娘が笑いながら返します。
「月にうさぎはいないよ〜」
この会話を聞いていて、月にウサギがいることを本当に信じていられるのは、何歳までだろうと思わずにはいられませんでした。小学校1年生くらいの子たちに聞くと、「いる派」と「いない派」に分かれます。6年生くらいになると、誰一人として月にウサギがいると信じている子はいなくなります。
感性的な認識と理性的な認識
月にウサギ・・・この「感性的な認識」は、国や文化によって違うようです。月がウサギに見えるのは、中国や日本。ヨーロッパではカニに見えたり、人の横顔に見えたり、中東のほうでは吠えるライオンと捉えるそうです。
月を観ながらヨーロッパの子たちは両手をチョキにしてカニさん歩きをし、中東の幼い子たちは「がお〜」と吠えるまねをしているかもしれないな〜と、想像してしまいました。
月には大気がなく、生命が存在できない・・・これは「理性的認識」と言えます。科学の進歩によって月の観測や月面探査ができるようになり、現時点の月には生命が存在しないことが確かめられています。
9歳の娘は、この学問的・科学的知識を知りません。なので、9歳の娘の認識は「悟性的認識」と言えそうです。この認識のちがいについては以下の記事も参考にしてください。
同じような事例にサンタクロースは存在するのか、という問いがあります。9歳の娘はまだサンタクロースをはっきりと信じています。子どもによっては6年生くらいまで信じている子もいます。
月にウサギということは早い段階で信じなくなるのに、サンタクロースはそれと比較して信じ続けている。このちがいは、子どもたちの内面(願いや要求)にあるように思います。
サンタクロースは存在し続けてもらわないと困る。だって、プレゼントがもらえなくなるのだから。こういった意識的・無意識的な内面の働きが、認識や認識の発達に影響を与えているのでしょうか。
またはサンタクロースを信じ続けてほしいという大人の願いも影響しているかもしれません。それらの願いは、子どもとの日常会話やメディア表現となって、子どもの認識の発達に何らかの作用を及ぼしているのでしょうか。
「名月を とってくれろと 泣く子かな」
中秋の名月といえば、小林一茶の名句があります。幼い子(または一茶)の「感性的な認識」があったからこその感動が、しみじみと伝わる句です。この子は、なぜ泣いているのでしょうか?
月があんまり美しいので、手で取りたい。それで泣いているのでしょうか。または、一茶がまだしゃべれない乳児の我が子の心情を代弁するかたちで「とってくれろ」と表現したのでしょうか。
私もはじめはそう読み取りました。そのあとで、この子は月を見たときに、その
月をとってくれという願いをもつような認識だったのかと、はたと疑問に感じたのです。「月」を大人の見る月としては認識していなかったと考えられます。
むしろこの子がほしかったのは、お供えしてある団子だったのではないか。この子はまだハイハイくらいの乳児で、ハイハイの視点からは団子も月も同じに見える。一茶は団子を食べている。その様子を見た子が、食べたい食べたいとせがんでいる。まずしい一茶のくらしなので、たくさんの団子はありません。もっと食べたいと要求して泣いているのかもしれない。または、月を空に浮いた団子ととらえて、月が食べられると思った。それほど腹を空かせていた・・・こんな想像は無理があるでしょうか。つまり、月と団子の区別がついていなかったのではないかとも思うのです。
「お父さん、太陽ってなに味かなあ?」
私の娘が4歳くらいのときのことです。車に乗りながら、夕方、西に傾いた太陽をみて、娘が発したのがこの言葉でした。
「お父さん、太陽ってなに味かなあ?」
「なに味だろうねえ。なに味だと思う?」
「う〜ん、びりびりレモン味じゃない?」
私は娘のこの答えに感動してしまいました。
「そうかあ、びりびりレモン味かあ。食べてみたいねえ」
「うん。太陽に行って、食べてみたい!」
一茶の句になぞらえれば、
【太陽を 食べてみたいと いう子かな】
という俳句が生まれる出来事でした。
子どものつぶやきは「詩」だ
大きくなった娘は二度と、本心から太陽の味を想像し、食べてみたいと言うことがないでしょう。幼児期の感性的認識は、いずれ悟性的・理性的認識に発達していきます。
この時期だからこその認識、そこから出てくる「表現」が愛おしいと思うのは、認識の発達が遡行しないからです。理性的認識に至ると、そうでなかった認識に戻ることはできない。この時期だけの、希少性のある「つぶやき」。だからこそ愛おしいと感じるのです。
このつぶやきのような表現は文字化すれば「詩」だと思います。そのときどきで子どものつぶやきをメモをして、文字化しておく。そんなことを続けていれば、我が子のつぶやき詩集ができあがるでしょう。ぜひ、おすすめです!