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生活綴方的教育方法とは何だろう その③

前回の解説記事から時間が少し空いてしまいました。自分でも忘れてしまうので、以下に前回記事を添付します。その①、その②まできて、今日はその③です。小川太郎の「生活綴方的教育方法」のとらえ方を、1968年発行の小川太郎著『生活綴方と教育』から読み取っていきたいと思います。


生活綴方は、生活を書くだけでよいのか?

 小川は著書のなかで、生活綴方的教育方法についての「教育のあらゆる領域で生活綴方を書かせたり、つかったりしようというだけの、形式的な主張」を批判的にとらえています。

 「生活綴方は国語科作文とはちがう」「生活綴方は生活指導の方法という限定されたものではない」という当時の主張を小川は援用し、生活綴方教育方法には教育活動のすみずみまで規定する一般的なものがあるという考え、を支持しています。


生活綴方は自由とリアリズムの教育

では、その一般的なものとは何でしょうか。小川太郎著『生活綴方と教育』にはこう書かれています。

 「生活綴方的教育方法の本質は、いくつかの要素をもっているように思われる。結論を先に言えば、それはなによりも自由とリアリズムの教育であるということである。」(p .34)

 「生活綴方のリアリズムは、現象を現象として正確にとらえ、事態の中から本質的な部分を誤りなく見出すリアリズムである。」(p .34)

 「ふつうそれは、『ものごとをすなおに見る』『じっと見つめる』『概念くだきをする』というようなことばで表現され、『いつ・どこで・だれが』という要求の形でも言いあらわされている。時間と空間の中で、事実を事実として、一切の先入観ーーベーコンのことばで言えば偶像ーーの支配から自由になって認識することである。」(p .34)

 これらの記述だけでは、理解がかなり難しいです。【現象と本質】【概念くだき】【ベーコンと偶像】【認識】という用語の理解が必要になります。

【認識】については、別の記事でも解説していますので、こちらをご覧ください。


本質と現象


 【本質と現象】・・・「個々の事物をそのものとしてなりたたせている基本的で普遍的なものを本質という。本質があらわれたものが現象である。本質は現象のいわば奥にあるので、それを直接認識することはできず、現象の研究を通して認識しなければならない。『もし事物の現象形態と本質とが一致するならば、すべての学問は余計なものとなろう』とマルクスはいっている。事物は本質と現象との統一としてとらえられねばならない。認識は、現象から本質へ、さらに深い本質へとすすむ。本質は法則と同じレベルの認識段階にあるといえる。」(『社会科学総合辞典』、618p .1992年、新日本出版社)

「本質と現象」について辞典で調べてみたのですが、上の記述のようにさらに専門用語が出てきて、もっとわからなくなるパターンに陥りましたが、なんとか理解に努めようと思います。

 ここで言っている「本質」とは、物事が本当に何であるかという、【それがなければそれにはならない】部分を指します。私たちは物がどのように見えるか(それを「現象」と呼びます)から、その物の本質を理解しようとしますが、本質は簡単には見えません。それは現象の背後に隠れているからです。

 例えば、りんごを見たとき、その色や形は現象ですが、なぜりんごがその形や色を持っているのか、その理由は本質です。マルクスという人は、もし私たちが物の見た目だけでなく、その本質もすぐに理解できたら、多くの学問は必要なくなるだろうと言っています。つまり、私たちは物から深く掘り下げて、その本質を知ることが大切であるといっています。

 「生活綴方教育方法のリアリズム」とは、現象から本質を知るリアリズムと言い換えてよいかもしれません。これは、感性的認識から悟性的認識へ、そして理性的認識への発展と言えそうです。

概念くだき

 生活綴方は、認識の発展のための「端初におけるリアリズムである」と小川は述べています。その例として「概念くだき」を挙げています。

 「概念くだき」という言葉は、1952年初版の国分一太郎著『新しい綴方教室』に登場しています。国分は子どもらしくない美文口調の文章からの「解放のしごと」として「概念くだき」を提案しています。以下の文章を古い型の美文調として著書の中で紹介しています。

   
 
 秋になった。すずしい風が吹くようになった。空も青くすみきって、小川の水も、そこの小石まで見えるようになった。山では、栗がころげおちるし、ぞう木林には、きのこもでる。天神山のもみじも、美しく色がついてきた。小鳥の声もたのしそうだ。みんなが、げんきになる秋だ。朝起きて、かおをあらっていると、すがすがしい空気が、わたしの胸にすいこまれる。いどのところのコスモスの花も、さかりになった。わたしも、げんきをだして、べんきょうしよう。運動もしっかりやって、からだをじょうぶにしよう。秋はほんとうによいきせつだ。

   
 わたしも、この文章をパソコンに打ち直しながら、はて、子どもは本心からこんなことは思わないだろうし、このような事実を心を動かしてとらえるだろうか・・・と確かに思いました。国分も「こんなものは、けっして、綴方ではない。生きた生活から、うまれてくる文章ではありえない」と言い切ります。そして、上のような作文を【概念主義】としています。

 では、このような文章から、どのように解放していくのが「概念くだき」なのでしょうか。上の作文と対置させるように、次の作品を国分は提示します。

  かやをはずしたこと

 わたしのいえでは、ゆうべから、かやをはずしました。すずしくなって、かがいなくなったからです。かやをはずしたら、なんだか、ざしきが、ひろくなったようで、へんてこでした。六つになる妹などは、おもしろくて、なかなかねませんでした。二年生の弟と、ざしきを、ぼんぼんはねまわっているので、おとうさんに「ここは、運動場ではないぞ。だまって、はやくねろ、こら」としかられました。
 いままで、なんどのおばあさんのかやにねていた私も、こんどは、みんなといっしょにねるようになりました。それで、子どもが三人と、おとながふたりで、五人ねるのです。
 おばあさんが、なんどから出てきて、「まるで、すいかばたけみたいだな。あたまがごろごろしていて」といいました。それから「ああ、ああ、ことしはかやにねられたけど、来年は、またかやにねられるかなあ」とひくいこえでいいました。おばあさんは、ぜんそくが、ひどくて、たいへんよわっているのであります。ことしの冬は、死ぬかもしれないなどと、じぶんでいっているのです。それで、来年は、かやにねられないかもしれないなどというのでしょう。去年も、そんなことをいいました。わたくしは、おばあさんが、来年も、かやにねられるように、長いきをしてくれればよいなあとおもいました。
 わたくしも、ゆうべは、かやをはずしたので、いろりばたのでんきの光が、じゃまになって、すこしねむられませんでした。それでも、すずしい風がふく、もろこしばたけの方でないているコオロギのこえをきいていたら、ひとりでに、ねむらっていました。

 国分は上記の作文を示して、「実物教材を示して、概念の目をくだいていくことが、子どもたちには、なによりもたいせつなのだ。・・(中略)・・じぶんで、みたこと、きいたこと、したこと、おもったこと、考えたことーーこれをかくのだと思いこませていくのである。」と指摘しています。

 それに加え、じぶんだけしか経験しないことも積極的に綴方の題材として取り入れていくことを「個性に即した指導をするのに大切なこと」と述べています。(上掲書、34〜35p .)

 1952年出版の本に「個性に即した指導」という言葉があるのには新鮮な驚きがありました。令和の日本型教育が言うところの「学習の個性化」にもつながる考え方です。

 概念ではなく、具体的事実に目を向けさせること、それをじぶんのことばでかくこと・・・こうして子どもたちは「死んだ概念にひきよせられる目と心をうちくだかれる。事実にそくした目と心をひらかれていく。」(同書、35p,)のです。これが国分の言う概念くだきです。

 概念的・観念的な考え方ではなく、あくまで具体的・現実的な考え方を大切にする、言いかえれば「子どもの生活の目と、コトバを大切にする綴方をおもくみる」(同書、36p .)ことが、「端初としてのリアリズム」のために必要な心がけと言えます。

ベーコンのいう「偶像」

 ベーコンという人物を『岩波教育小辞典』(五十嵐顕、大田堯、山住正己、堀尾輝久編、1982年、岩波書店)から引いてみます。

 Bacon,Francis 1561~1626 ジェームズ1世の時代のイギリスの思想家。ロンドンに生れ、ケンブリッジ大学に学ぶ。デカルトとならんで近代哲学の祖といわれており、とくに経験論に対する彼の影響は大きいが、教育理論に対しても、間接的ではあるが、深い影響をあたえた。ベーコンはスコラ的な学問の不毛を攻撃し、イドラ、諸々の偶像からの人間の解放を主張し、またそのエッセイの中で、教育は幼年の時代の慣習であるといっているが、そのほかに直接には教育理論は展開していない。しかし、彼の〈発見の科学〉という自覚に立つ近代科学的方法論、すなわち帰納的方法、人間の生活条件改善のための科学の自覚は、その後の教育理論に影響を与え、事物の直観に立って認識を発達させることや、自らの疑問から思考を発展させていくことの重視など、教育上のリアリズムの潮流を支える理論的役割を果たしたものとみることができる。ドイツの教育者ラトケ(W.Ratke,1571~1635)やコメニウスはベーコン主義者であった。(236p .)

 ベーコンの「発見の科学」という考え方は、科学的な方法、特に具体的な例から一般的な法則を導き出す「帰納的方法」を重要視していました。これは、人々の生活を改善する科学の発展につながり、その後の教育理論にも大きな影響を与えました。ベーコンの考えは、物事を直接見たり体験することや、自分の疑問から考えを深めることの大切さを教えています。たしかに、ベーコンの理論は、生活綴方的教育方法のリアリズムの裏付けとなりそうです。


 そして「偶像」ですが、以下の説明はウィキぺディアを参照しました。

「イドラ」や「偶像」という言葉は、フランシス・ベーコンが使った用語で、私たちが物事を正しく理解するのを邪魔するような、間違った考えや先入観を指します。ベーコンは、これらの「イドラ」が科学的な思考や理解を妨げると考えていました。彼は特に四種類の「イドラ」を説明しています:

  1. イドラ・トライブ(種族の偶像):これは人間自体の感覚や感情に関する限界や誤りを表します。たとえば、人は感情によって判断が曇ることがあります。

  2. イドラ・ケイヴ(洞窟の偶像):個々の人の性格や教育による偏見です。つまり、人それぞれの背景が考え方に影響を与えることを指します。

  3. イドラ・マーケット(市場の偶像):言葉やコミュニケーションによる誤解や誤りを意味します。言葉の不正確さや誤用が誤解を生むことがあります。

  4. イドラ・シアター(劇場の偶像):古い理論や哲学、または間違った学問的な思想に基づいた誤りです。受け入れられているが誤った理論に基づいて人々が考えることを指します。

 ベーコンは、これらの偶像を理解し、克服することが科学的発見には不可欠だと考えていました。最近の心理学の分野でいうところの「認知バイアス」がかかったような考え方を「偶像」ととらえてもよいかもしれません。

 生活綴方教育方法のいうところのリアリズムは、こうした偶像や先入観、バイアスのかかった考え方の支配から自由になって認識することであると言えそうです。

美も醜も、善も悪も

 小川はこうも述べています。生活綴方は「子どもの中の偶像を破壊し、すなおにありのままに生活の事実を見つめるように導く教育の方法である、だから生活綴方には、概念をくだかれた子どものリアルな認識によって、生活の中の美も醜も、善も悪も、真理も虚偽も、正も不正も、幸福も不幸も、支配も被支配も、闘争も和合も、戦争も平和も、すべてが事実のまなざしをもってあらわれる。そこから時として、生活綴方が貧乏綴方と言われ、子役をつかう宣伝と非難され、家庭の内情を暴露させたと攻撃される、というようなことも起こってくる。」(小川太郎著『生活綴方と教育』、35p .)

 そして小川は生活綴方を教科の学習や生活指導とを結びつけ、このように論を発展させます。

「生活綴方的教育がリアリズムを本質的な要素とするならば、それは認識の端初としての事実の認識の段階から、その発展深化としての本質と法則の認識にまで進む必然性をもっている。・・(中略)・・生活綴方がたんなる作文でとどまっていないで、生活指導としてもつかわれるということは、事実の認識から事実の反省にまでそれが発展されられることなのである。事実の本質にせまる認識の深化が行われることなのである。また、生活綴方が教科に結びつけられるということは、生活綴方でとらえられた事実が、事実を支配する法則にまで高められるということなのである。」(36p .)


書くこととリアリズム

 それでは、なぜ生活綴方的教育方法は、「書く」ことを必要とするのでしょうか。書くことは、生活綴方的教育方法にとって不可欠なのでしょうか。

 小川はその一つとして「書くことへの抵抗が大きいこと」を理由に挙げています。そのときに最も事実に合致した言葉を選んで書く、ある長さの文章にまとめるために本質的な部分を取り出す、そのために一段とつよく事実を見つめる努力を要求されるのが書く表現活動がもっている「抵抗」としています。

 もう一つとして、表現の抵抗において「書く主体の認識におけるリアリズムがきたえられる」と述べています。話し言葉は「因習の支配がつよく人々の認識を固定した枠でしめつけている」と小川は指摘します。たしかに会話となると目の前に相手がいるので、本当に言いたいことも言いづらくなります。

 「認識を個人の自由にゆだねないで、固定した枠にはめこむ力が強く支配している日本社会では、認識を文字で表現するという抵抗の多い表現活動をとることによって、もっと表現の抵抗の弱い話しことばで表現する場合よりも、個人に自分で主体的に見つめ考える自由をはるかに多く与えるということが、生活綴方をリアリズムの教育方法として特別な意味あるものにしているのである。」(38p.)

 たまたまこの解説を書いているときに、NHKドラマ『虎に翼』が放映されていました。このドラマでは、主人公の寅子や周りの仲間たちが、固定した枠にはめこむ力が強く支配する日本社会の因習に疑問をもち、言論または法律文という形で権利獲得の戦いを挑むさまが描かれています。そこには法にかかわっての「書く主体の認識」が確かにあったように感じました。『虎に翼』を、認識の発展として分析するのも一考に値しますね。

 しかし小川は、書きことばの世界で終わるのではなく、書くことで、「自由に認識し表現する力を育て、やがてそれを話しことばの世界にまで発展させることが必要になってくる」(39p .)と述べています。そして、 「このように考えてくると、生活綴方は自由のない社会で子どもを自由にし、自由な人間のリアルな認識能力を育てるという意味で、日本の社会と子どもの現実に即した一般的な教育方法であることができよう。」と結んでいます。


生活綴方的教育方法の本質は「自由とリアリズム」と・・・あとは何だろう?

 小川は、生活綴方的教育方法には、さらに「大きな新しい方法的要素」があると述べています。が、記事の分量も大きくなってしまったので、「その④」の記事にしようと思います。

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