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国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む14

前回の記事の続きです。

19『生活学校』編集グループ 20『生活学校』の罪状


国分は、雑誌・生活学校を購読していました。自身が購読するだけでなく、自分がつとめる学校の教師や近村の教師仲間にも読者になってもらっていました。雑誌購読のきっかけは編集を担当する戸塚廉からの購読依頼の手紙でした。版元は扶桑閣という出版社です。雑誌を出し始めたのは国分の尊敬する池袋・児童の村小学校の野村芳兵衛でした。

国分は砂田に雑誌・生活学校の関係者とのかかわりを聞かれます。砂田は雑誌・生活学校が、コミンテルン(国際共産党)第七回大会が決議した「人民戦線戦術」を採用しており、国分はこの雑誌の考え方に依って「生活主義教育理論」を展開するにいたったと、またも強引に結論づけます。

人民戦線戦術とは、1935年のコミンテルン第七回大会で国際共産主義運動の基本戦略として提案、採択された、反戦・反ファッショの連合統一戦線のことです。簡単に言えば、各国の共産党は、あらゆる反ファシズム勢力と協力せよ、ということです。

当時、ドイツではヒトラー率いるナチ党が勢力を伸ばしていました。同じころイタリアではムッソリーニ率いるファシスト党が勢力を伸ばしていました。そのような国際情勢をうけて、フランスやスペインでは人民戦線内閣が誕生します。

反ファシズム勢力との協力が「人民戦線戦術」であり、この考え方を雑誌・生活教育も採用していると砂田は決めつけ、その雑誌に掲載されたような実践を行っていた国分らに話が及ぶのも砂田の既定路線だったのでした。

砂田は、国分や村山俊太郎を取り調べる以前に、エスペラント運動を推進した斎藤秀一を、共産主義的な言語理論と言語・文字の改革運動者としてと調べています。国分や村山に取り調べの手が及んだのも、斎藤秀一が雑誌・生活学校に寄稿し、国分や村山も雑誌・生活学校にかなりな執筆をしていたからでした。斎藤秀一氏については、別著でくわしく紹介されているようです。

国分らは、斎藤秀一が進めているような国語・国字の合理化の運動を、農村の実情から考えていました。それは、子どもたちにせめて正確な文章を、子ども自身の生活経験に立って書くこと、生活の必要に応じてかくことを求めなければならないということ、そのために綴方のしごとを、ごく簡素なものとしよう、ということでした。それはかつて日本に近代学校制度がはじまったときに『邑に不学の家ナク、家に不学ノ人ノナイ』と言われたように、ごく普通の日本語文章が書けない子がないようにするためでした。

このような国分の抗弁も、砂田にしてみれば
「それこそ、君たちが上等なマルクス主義者、共産主義者である証拠だよ」
と、生活綴方の簡素化を、マルクス主義者・共産主義者の哲学と結びつけ、訊問調書に書き込むのでした。

21 扶桑閣図書必買会

 雑誌・生活学校の編集人を務める戸塚廉は、その版元である扶桑閣から、さまざまな単行本の出版をはじめます。それは、戸塚氏と版元の社長が親戚関係にあり、経営を助けるためでもありました。

そんな戸塚が版元を助けるために企画したのが「必買会」でした。左翼的な出版社がそのような企画をし、国分が会の勧誘をするというのは、何か思想的な共鳴があるに違いない、砂田はそう勘ぐるのでした。一方国分は、とにかく人間戸塚のために、出版した本はみな購入してやろうという「人情」のために一役買おうとしたのでした。

このような人情の背景には、国分らが、雑誌『綴方生活』を発行していた小砂岡忠義を「早死にさせた」という思いがありました。国分自身は雑誌の購読代金をきちんと送金していたと述べていますが、ほかの人はそうでなかったと書いています。それによって小砂岡を食えなくさせてしまったという後悔があったとしています。

同じように千葉春雄も会社をつくり雑誌『綴り方倶楽部』や雑誌『教育東西南北』を発刊しますが、小学校教師たちの誌代払込みがよくなくて、会社はつぶれ、貧乏をしたあげく、早死にしてしまったと国分は述べています。また、死んではいないが生活の苦しい北方教育社の成田忠久についても言及しています。

しかしこのような人情に訴えても、砂田の受け入れるところではありません。扶桑閣が「人民戦線戦術」に賛同して図書を出版し、その趣旨を知りながら国分は加担したと強引に認定するのでした。

ちなみに国分はこの扶桑閣から、同僚であった相沢ときとの共著『教室の記録』を出版(1000部)しています。国分はこの本のために学校をクビになり、勤務校の校長もこの本のために依願退職をよぎなくされています。

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