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『山びこ学校』を読む その5 「母の死とその後」全文
前回の記事の続きです。『山びこ学校』巻頭の綴方である江口江一(えぐち こういち)さんの「母の死とその後」を全文引用します。※本来は縦書きの編集ですが、横書きで掲載します。
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母の死とその後 江口江一
1 僕の家
僕の家は貧乏で、山元村の中でもいちばんぐらい貧乏です。そして明日はお母さんの三十五日ですから、いろいろお母さんのことや家のことなど考えられてきてなりません。それで僕は僕の家のことについていろいろかいてみたいと思います。
明日は、いよいよいちばんちいさい二男(フタオ)と別れなければなりません。二男も、小学校の三年生だが、お母さんが死んでから僕のいうことをよく聞いて、あんなにちっちゃいのに、よく「やんだ」(いやだ)」ともいわないで、バイタ(たきぎ)背負いの手伝いなどしてくれました。だから村木沢のお母さんの実家に行っても一丁前(一人前)になるまで歯をくいしばってがんばるだろうと思っています。
ツエ子も、明日三十五日に山形の叔父さんがつれて行くように、親族会議で決っていたのですが、お母さんが死んでからずうっと今もまだにわとりせき(百日ぜき)でねているので、なおってからつれて行くことになりました。
それも間もなくつれて行かれることでしょう。そうすれば僕の家は今年七十四になる、飯たきぐらいしかできなくなったおばんちゃん(おばあさん)と、中学二年の僕と二人きりになってしまうことになるのです。
2 母の死
なぜこのように兄弟がばらばらにならなければならないかといえば、お母さんが死んだことと、家が貧乏だということの二つの原因からです。
僕の家には三段の畑と家屋敷があるだけで、その三段の畑にへばりついてお母さんが僕たちをなんとか一人前の人間にしようと心配していたのです。
お母さんは、身体があまり丈夫ではなかったので「自分が死んだら家はどうなることか。」ということを考えていたかも知れないけれども、自分の身体を非常に大事にする人でした。それでも貧乏なためにほかの人にしょっちゅうめいわくをかけなければならなかったことと、役場から扶助料をもらっていることを悔いにして(苦にして)、知らないうち(しらずしらず)に無理がはいっていたのかも知れません。僕も、去年中学一年のときから無着先生にことわって、たびたび学校を休ませてもらい、力仕事なんかほとんど僕がやったのですが、やはり一家の責任者でないから気らくなものでした。だから、お母さんは力仕事でまいったというよりも「どういうふうにして生活をたててゆくか。」「どういうふうにして税金をはらうか。」「どういうふうにして米の配給をもらうか。」そういう苦労がかさなったのだと思います。
診療所に入院して今に死にそうになってからも「たきものははこんだか。」「だいこんつけたか。」「なっぱあらったか。」などとモゾ(うわごと)までいっていました。そういわれると、面会に行った僕が「これでお母さんもおしまいだ。」と思いながらも、なにもなぐさめることができないで、家の仕事のことが頭に考えられてきて、ろくろく話もしないで帰って来るのでした。
それでも、お母さんが死ぬ前の日、十一月十二日、「境分団がゆうべ自治会をひらいてきまったんだ。」といってみんな手伝いに来てくれたときは、仕事の見とおしがつかなくて、「もう、いくらやってもだめなんだ。」と思ってがっかりしていたときでしたので、僕をほんとに元気づけてくれました。ほんとに僕が一人で何日かかっても終りそうでなかった柴背負いが、たった半日の間に、またたくうちに終ってしまったんです。
その次の日、忘れもしない十一月十三日の夜があけないうちです。母が入院している村の診療所から六角(地名)の叔父さんに、叔父さんのうちから僕のうちに「あぶない。」というしらせが来て、みんな枕もとに集ったとき、そのことを報告したら、もうなんにもいえなくなっているお母さんが、ただ、「にこにこっ」と笑っただけでした。そのときの笑い顔は僕が一生忘れられないだろうと思っています。
今考えてみると、お母さんは心の底から笑ったときというのは一回もなかったのでないかと思います。お母さんは、ほかの人と話をしていても、なかなか笑わなかったですが、笑ったとしても、それは「泣くかわりに笑ったのだ。」というような気が今になってします。それが、この死ぬまぎわの笑い顔とちがうような気がして頭にこびりついているのです。
ほんとうに心の底から笑ったことのない人、心の底から笑うことを知らなかった人、それは僕のお母さんです。
僕のお母さんは、お父さんが生きているときも、お父さんが死んでからも、一日として「今日よりは明日、今年よりも来年は、」とのぞみをかけて「すこしでもよくなろう、」と努力して来たのでしょう。その上「他人様からやっかいになる」ことをきらいだったお母さんは、最初、村で扶助してくれるというのもきかないで働いたんだそうです。それでも借金がだんだんたまってゆくばかりでした。
それで、ついに、ばんちゃんとお母さんが役場へ行って扶助してもらうようにたのんだのが昭和二十三年の三月です。それから、お母さんや、ばんちゃんが、僕やツエ子に「おらえの(わたしの)うちはほかのうちとちがうんだからな。」と口ぐせのようにいうようになりました。
それからまる一年と六ヶ月たった今年の九月、お母さんは「たいしたことはない。すぐなおるんだ。」といって床につきました。ところが、十月になってもおきることができなくて、病気はだんだんわるくなるばかりのようでした。だからばんちゃんは、口ぐせに「医者に行って見てもらってくるか、それとも医者をあげて(さしむけて)よこすか。」といっているのでした。するとお母さんは「ゼニがない。」というのでした。それでばんちゃんは、「ゼニなど、ないといえばない、あるといえばある。医者にかからんなね(かからねばならぬ)ときは畑なんかたたき売ってもかからんなねっだ(かからなければならない)な。」というのでした。しかしそれだけでした。畑を売る話もなかったし、ただ「いつか医者から(に)見てもらわんなねべなあ。(もらわなければならないなあ)」という話だけですぎていきました。
そしてある日、やはりばんちゃんが、「医者から見てもらわんなねべなあ。」と話しかけていたところに、太郎さんが来て、「なんだ。医者さ(に)も見せぬのが(か)。扶助料もらっている人あ、医者はただだから、あしたおれが行って医者をあげてよこす。」といって帰って行きました。
次の日、医者が来て、お母さんを見てくれました。医者は、「うらの叔父さんをよべ。」といったのでよんできたら、叔父さんに「病気は心臓ベンマク症だ。入院しなくちゃならない。」といいました。
それで、僕とばんちゃんと、医者と叔父さんの四人で、まず、あつかい(看護)に行く人の相談をしました。で、ばんちゃんは「江一をはなすと仕事をする人が誰もいなくなるからツエ子よりほかない。」といったので、ツエ子が行くことにきまりました。ツエ子は小学校の五年生です。ちっちゃい(ちいさい)のです。しかし、しかたありませんでした。それで、医者は飯を食って帰ってしまったし、午後から僕とばんちゃんは入院の用意にとりかかりました。
次の日、叔父さんがリヤカーをかりてきてくれました。雨が降っていたので小降りになるまでお茶をのんで、それから出かけました。ふとんをつけて、お母さんをのせて、なべだの(とか)野菜だのといったものをうしろにつけて、お母さんにはあんかをだかせて、油紙をかぶせて、からかさをささせて出かけました。
入院させてしまうと、僕は急にせかせかしだしました。入院は十一月二日でしたが、それまでは、いくら病気をしていてなにもできなくとも、お母さんがいるということであんたい(のんびり)していたのです。それが急に僕一人になってしまったものだから、あわてだしたのです。それで、ツエ子はどんなあつかいをしているか心配でしたけれども、僕が行くと、それでなくともおくれている仕事がまだまだおくれてしまうので、行かずに毎日仕事をしていました。
それでもやっぱり、自分が責任をもってやるとなると心配で、なにもわからないからなおさら心配でした。それで十一月八日、そのことを書いて先生にやったら、先生がすぐに返事をよこしてくれました。それで元気づけられているところへ境分団から応えんに来てくれたのです。
それでもとうとう十一月十三日お母さんは死んでしまったのです。葬式は十五日でした。そのときは無着先生と上野先生が来てくれました。同級生を代表して哲男君も来てくれました。境分団の人がみんな来てくれました。伝次郎さんが境分団の
「お悔やみ(香典)」を持ってきてくれました。僕はなんにもいえませんでした。だから黙ってみんなの方をむいて頭をさげました。あとで先生に聞いたことですが、同級生のみんなが「お悔やみ」を出し合ったほかに、義憲さんや貞義さん、末男さん、藤三郎さんたちが「江一君のお母さんへお悔やみを・・・」といって全校から共同募金を集めてくれたということですね。僕はこのときぐらい同級生というものはありがたいものだと思ったことがありません。
それで、葬式をすまして、金を全部整理してみたら、「正味七千円のこった。おまえのおやじが死んだときよりも残った。」とばんちゃんがいったので、僕も、「ほんとにのこったのかなあ。」と思ったほどでした。しかし借金を返したら、やはりあとには四千五百円の借金がのこっただけでした。だからやはり父が死んだときの方がよかったのです。
3 父の死
父の死については、ばんちゃんや、お母さんから耳にタコができるくらいきかせられていますから、よくわかります。
父は僕が六歳のとき、二男が生まれて五日目、昭和十五年、今からきばっと(ちょうど)十年前、やはり貧乏のどんぞこの中で胃かいようで苦しみながら死んでいったのです。そして、その葬式のあとには五円のこったということでした。ところがその五円も、出しぞく(税金)で、なくなってしまったということです。
それで、ばんちゃんとお母さんは明日食う米にも困り、毎日毎日、ぞうりを作り、それを米に変えねばならなかったということです。よくお母さんがいっていたことなのですが、「あの頃は、どういうわけだか、ぞうりがあんがい高くてな。ばんちゃんと二人で一日かせげば米の二升は買えたもんでな。お前が六ツか七ツで年頭(年がしら)なので、五人家族でもそんなに食わないから一日一升あれば十分だったので、おっつぁ(おとうさん)が死んで一、二年は、すこしずつたまっていったけな。この調子ならお前が一丁前になるまで持ちこたえればいいなと思っていたら、昭和十七、八年頃からだんだん借金しなければならなくなってきたものなあ。」といいいいしたお母さんの言葉が、今でも僕の耳にこびりついています。
ほんとに、「江一さえ大きくなったら・・・」と、そればっかりのぞみにして、できることなら、江一が大きくなるまではなんとか借金だけはなくしておきたいといいながら、だんだん借金をふやしてゆかねばならなかった僕のお母さん。そしてついに、その貧乏に負けて死んでいった僕のお母さん。そのお母さんのことを考えると「あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう。」と不思議でならないのです。
4 考えていること
それから、ここまで書いてきてもう一つ不思議に思うことは、自分がそんなに死にものぐるいで働いて、その上村から扶助料さえもらって、それでも貧乏をくいとめることができなかった母が、私が卒業して働きだせば生活はらくになると考えていたのだろうかということです。
そのことになると僕は全くわからなくなって、心配で心配で夜もねむれないことがあるのです。それは「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか。」という考えです。
今日の昼間、先生に次のようなことを書いて出したのです。
(1)来年は中学三年で、学校にはぜひ行きたいと思うから、よくよくのことでなければ日やといには行かず、世の中に出て困らないように勉強したいと思う。
(2)さらい年は学校を卒業するから、仕事をぐんぐん進めて、手間とりでもして来年の分をとりかえす。
(3)金が足りなくなく(たりないことなく)、暮せるようになったら、少し借金しても田を買わねばならぬと思う。なぜなら、田があれば食うには(だけは)らくにくえるから、もしも田がなくて、その上、だれも金も米も貸さなくなったら死んでしまわねばならなくなるから。
(4)それから、金をためて、不自由なものはなんでも買える家にしたい。不自由なしの家にしたい。
(5)それには頭をよくし、どんな世の中になっても、うまくのりきることができる人間にならなければならない。
(6)とにかく、羊みたいに他人様から食わせてもらう人間でなく、みんなと同じように生活できる人間になりたい。
先生に書いて出したのはこの六つですが、これは考えれば考えるほどまちがっているような気がしてならなくなるのです。
第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです。第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです。
第二の方を考えないとしても、第一の方だけでわからなくなってしまいます。こんなとき、僕のお母さんがもし会計簿をつけていたらなあと思います。そうすれば、それを見て、僕はどう考えればよいのかわかってくるにちがいないと思うのです。なぜなら私の家では三段歩の畑(うち、葉煙草は三畝歩で、残りは自家用菜園——編者)に植える葉煙草の収入しかないのだから、どんなに働いても収入は同じなのです。たとえば今年の生活を見てみると、去年の煙草を今年の一月に出して、二月にその金が一万二千円はいって、そのとき七千円の借金をしているのです。
この七千円の借金というのは、昭和二十三年度に出した借金で、三月から一ヶ月平均千三百円ずつ十ヶ月一万三千円の扶助料をもらったほかに出しているものです。
それは二十三年度の生活を考えてみるとすぐにわかるのです。五人家族で食ってゆくだけ、それも配給米をもらうだけで、一斗五百円(今年は六百二十円)としても、五人で一ヶ月三斗七升五合ですから、金に見積もれば千八百七十五円です。この金が一ヶ月にぜひ必要な金だったのです。それが十二ヶ月では二万二千五百円になるわけです。それから去年(二十三年度)の扶助料一万三千円を引いてみたところで、米代だけで九千五百円の借金です。それは、二十二年度の葉煙草の収入から出たとしても、二十二年度の借金を引いたのこりであろうし、わずかなものでしたでしょう。だから去年の借金が、米代だけでも九千五百円にもなるのに、それを七千円でくいとめたというところにお母さんの努力がわかるのです。
ところが今年は葉煙草一万二千円のうちから、去年七千円の借金をかえしたのこり五千円と、一ヶ月平均千六百円もらっている扶助料とも計算して、今のところの全収入は二万二千六百円になるわけです。ところが配給米一斗が六百二十円で、それを毎月三斗七升五号受けねばならなかったのです。だから金にしてみると、二千三百二十五円、それが十一ヶ月で二万五千五百七十五円です。だからもう米代だけで二千九百七十五円の借金になってるわけなのです。
だからお母さんの葬式が終ってから、ばんちゃんが「七千円のこった。」というのを信用しなかったのです。考えてみると、のこるはずがないのです。
しかし、母は、冬のうちは、ハタオリなどしてかぜぎ、ほんとに困ると村木沢や山形の叔父さんのところからゆうずうしてもらって(四千円ばかりゆうずうしてもらっていた)現在の借金は三千五百円になりました。
ところで、これから僕は一人で家族全部に食わせることができないので、親族会議でツエ子と二男は、母の兄さんたちに育ててもらうことにきまりました。そうなれば、僕のうちは、いよいよばんちゃんと二人で立ててゆかねばならなくなるのです。
それで考えてみると、二人して食う米の量は、一ヶ月一斗五升としても九百三十円必要です。税金が二百五十円、そのほか醤油代とか、塩代とか、電気料といったような、毎日必要なきまった金高だけを計算してみると、一ヶ月ざっと二千円はかかるようです。このほか、着物が切れたといっては着物を買わなければならないし、冬になって炭やまきを買うとなればまたたいしたものだし、やっぱり二人して生きてゆくためには、一ヶ月平均、いくら少く見積っても二千と五、六百円は必要なようです。
それで、役場から扶助料を千七百円位もらうのをかんじょうに入れて計算してみても、三段歩の畑から出てくるものは葉煙草二十貫にきまっているし、今年は去年よりわるかったから一万円にならないにちがいないのです。一万円としても一ヶ月八百円。扶助料と合わすと、二千五百円、これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまうのです。
だから「金をためて不自由なしの家にする」などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです。
このことを考えてくると、貧乏なのはお母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないかと思えてくるのです。三段歩ばかりの畑では、五人家族が生きてゆくにはどうにもならなかったのではないでしょうか。
だから今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです。
5 その後のこと
それで、この間、十一月二十九日、校長先生と無着先生がたずねてきてくれたとき、そのことをきこうと思ったのでしたが、無着先生から——「今、バイタ背負いしているのか。」
「今、何日かかるんだ。」「それが終ったらなんだ。」
「葉煙草のし。」
「そりゃ何日ぐらいかかるんだ。」
「わからない。」
「わからなければ去年の日記を出してみろ。」
「去年の日記さ(に)そんなこと書いてない。」
「だめだ。日記さ(に)、ちゃんと今日から葉煙草のしを始めた、何日間かかるか、毎日書いて、次の年、計画が立てられるようにつけるんだ。今日からさっそくつけろ。」
「葉煙草のしが終ったらなんだ。」
「雪がこい。」(積雪にそなえて家のまわりをかやであんだすのこでかこうこと)
「それが終ったら何だ。」
「それが終ると学校に行けるかも知れない?」
「なんだ、それじゃ二学期はほとんど来れないじゃないか。明日水曜日で米配給だろう。」
「そしたら午前中、学校さ来い。そしてもう一ヶ月も学校に来ないんだから、みんなに顔を合わせて、お母さんが死んだとき義憲だ(たちが)心配してくれたんだからお礼の一つもいいなさい。」
「それから、明日まで仕事の計画表をつくってもってこい。」
等々、ポンポンいわれたので、なんだか気持がすうっと明るくなったような気がして、その夜は十二時までかかって、「ほんとにどのくらいすればよいのかなあ。」などと考えながら仕事の予定表を作ってみました。作ってみると先生からいわれたとおり、十二月が一回か、よくいって二回しか学校に行かれないことがわかりました。
次の日、三十日、学校に行ってその計画表をみせたら、先生はじっとみていたが、「宿直室に行っておれ。」といって、それから藤三郎さん、惣重さん、俊一さん、勉さんも宿直室に行くようにいいました。それからすぐ先生がやってきて、僕の計画表を出して、「みてみろ。」といって藤三郎さんに渡しました。
藤三郎さんはだまって見ていました。見終って顔を上げたとき、先生が、「なんとかならんのか。」といいました。藤三郎さんはちょっと考えるようにしてだまっていたが、「できる。おらだ(自分たち)の組はできる。江一もみんなと同じ学校に来ていて仕事がおくれないようになんかなんぼも(たやすく)できる。なあ、みんな。」
と俊一さんたちの方を見ました。みんなうなずきました。僕はうれしくなってなみだが落ちるようになったのでしたが、やっとがまんしました。それでも、「ただバタつかない(あわてない)ようにな。ここには何人、これが終ったらこれ、といった工合に計画だけは立てておけなあ。」といわれたときは、思わず涙がぽろっとひざのところへ落ちてしまいました。
そして、一人では何日かかっても終りそうになかったバイタはこびと葉煙草のしは、十二月三日の土曜日に、境分団ばかりでなく遠く前丸森からも俊一さんはじめミハルさん、幸重君、春子さん、チイ子さんたちが手つだいに来てくれて終ってしまい、末男さんたちのおかげで雪がこいも終らしてしまうことができました。
聞くところによれば、先生もこの日、藤三郎さんと貞義さんから手伝ってもらって、「みんながいる村へ行くんだ。」といって、須苅田に家うつり(ひっこし)したんだそうです。
僕は、こんな級友と、こんな先生にめぐまれて、今安心して学校にかよい、今日などは、みんなとわんわんさわぎながら、社会科『私たちの学校』のまとめをやることができたのです。
明日はお母さんの三十五日です。お母さんにこのことを報告します。そして、お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。
僕たちの学級には、僕よりもっと不幸な敏雄君がいます。僕たちが力を合わせれば、敏雄君をもっとしあわせにすることができるのではないだろうか。みんな力を合わせてもっとやろうじゃありませんか。(一九四九年十二月十六日)