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国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む⑨

前回の記事の続きです。

12 十二月八日

 1941年の12月8日は日本人にとって、またアメリカ人にとっても忘れられない日でしょう。日本軍がハワイのオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の艦隊や基地を攻撃し、太平洋戦争が始まった日です。国分一太郎は、この日をどのように迎えたのでしょうか?

 国分の収監されていた監房が、朝から異様な雰囲気であることに国分は気付きます。こそこそと監房担当のわかい巡査と古参の斎藤巡査部長が話しているのを目にします。聞き耳を立てますが、話のなかみはわかりません。

 巡査たちの顔をうかがっていると、国分が「おじさん」と呼べるほどの関係になっていた斎藤巡査部長が口外しない条件で教えてくれました。

「あのなあ、先生。けさ、重大発表があってなっす。英米との戦争が始まったんだってよっす。特殊潜航艇がハワイの真珠湾を攻撃したんだってよっす。」

わかい巡査も興奮しつつ話します。

「外は、いまどこも大さわぎですよ、みんな興奮してしまって・・・・・・」

国分はこの知らせに「おののき」、簡単な返答以外の言葉が出ませんでした。

同じころ、別の監房に婦女暴行の罪で連行されてきた「新人」がやってきます。その新人が真珠湾攻撃のことを近くの監房の収監者に伝えます。するとどこかの監房からは「万歳! 万歳!」との声が流れはじめました。


 いつもより遅く、昼過ぎになって砂田がやってきます。砂田は真珠湾攻撃のことについ話し始めました。

「こういう事態だから、君にも、ちゃんとした考えをもちなおしてもらわなければならない。ともかく、きょうは、君にとって深い反省を要する日だな。これでも読みながら、じっくり考えるんだな」(111ページ)
 
 砂田はそう言って、うすい一冊のパンフレットを差し出します。それは小説家・林房雄の『転向について』というものでした。

 林房雄は、北方性教育運動の同志だった鈴木道太が心酔していた作家でした。その鈴木もこのとき治安維持法違反で収監されていました。

 林房雄の文章は、マルクス主義・共産主義からの「転向」がいかに困難であるか、しかし困難な道を歩むべきだとの思いをそそられる方向に書き進められていました。

 ここで「転向」とは何であったのかを、『社会科学総合辞典』(1992年、新日本出版社)から引いてみます。新日本出版の住所は東京都千代田区千駄ヶ谷4ー25ー6です。日本共産党の中央委員会の住所は千駄ヶ谷4ー25ー7です。ちょうど道を一本隔てて両ビルが向かい合っていて、共産党にゆかりのある出版社と言えそうです。

 この社会科学総合辞典には、「転向」の項目はあるのですが、それは「変節」という項目に読みかえられています。「変節」の項目には以下のように書いてありました。

革命運動上の変節とは、支配階級の圧迫や誘惑によってその思想信条をかえ、裏切ること。戦前、支配階級は治安維持法下の弾圧による変節を「転向」と称した。これは裏切りをせまるために、変節することをあたかも「正しい方向に転じ向かうのだ」として、本質を欺瞞(ぎまん)し美化するものであった。天皇制警察の職務として、共産主義者を逮捕・投獄し、テロをくわえ、この圧迫によって天皇制を支持することを強要した。1933年、日本共産党最高指導部の一員であった佐野学、鍋山貞親は、出獄したいという一心で天皇制を支持する「転向声明書」を出し、支配層はこれを大々的に宣伝した。野呂栄太郎や宮本顕治ら党中央委員会は彼らをただちに党から除名し、その意図を暴露してたたかった。戦後、党再建の過程で、みずからの変節について反省し、ふたたび党の隊列に復帰したものも少なくなかった。

『社会科学総合辞典』、607ページ

「転向」は転じて、向かうという前向きなイメージがありますが、「変節」は節を変える(曲げる)ということで、後ろ向きなイメージがあります。共産党側からすれば「転向」は、同志の裏切りです。だからこそネガティブなイメージの「変節」という用語を使うのでしょう。


 しかしながら、砂田の求めた「深い反省」とは、国分にとってどうすることなのでしょうか?

 砂田自身が左翼青年活動家であった過去があり、転向し、特高警察官になっています。砂田を模範とせよということでしょうか。そもそも、国分にどんな反省をする必要があるのでしょう。

 国分は、完全な自由主義者でも共産主義者でもありません。社会主義への道の合理性や理想を書物などで学んではいても、そのための実際的な活動に加わりはしませんでした。「なかでも天皇中心に考えねばならぬとの道徳教育には、やはり反感をもったけれども、天皇をどうこうせよと教えるところまでのふんぎりはつかなかった」と国分は回顧します(113ページ)。さらにこうも述べています。

「北方性教育とか、北方性教育文化運動などと、わたくしたちはいった。しかし、それは、共産主義の運動が弾圧され、それによりそうた文化・文学の運動などが沈滞してしまったあとに、ほそぼそとした形ではじめられたものであった。農業革命などの見通しが、政治的にはいっさいないところで、かつかつはじめられたものであった。東北型農業地帯の封建遺制、この本質のあらわれである顕著な現象に、親たち、子どもたちは接している。からだと心のなかまで、それをまとわされている。その不合理をすこしでもわからせ、それにすこしでも気づかせることは、いってみれば、民主主義へのめざめのためのしごととなるのかもしれない。そうだ。そういう意味では、わたくしたちの運動は、民主主義的な運動の一つの環であったのかもしれない。」(114ページ)

 国分は過去を述懐しつつ、砂田が手渡した本・『転向について』の主題がいうような【日本精神=皇国の道】に帰依することは、やはり従えないことだと強く思います。国分は自分たちのしてきた運動、しごとを「心に恥じることもなくまもらなければならない」と言い聞かせます。

 国分の十二月八日は、「転向」と自らの思想や教育運動を考える日でした。

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