『山びこ学校』を読む その4
前回の記事の続きです。
『山びこ学校』という書名の由来
『山びこ学校』は、もともと無着成恭の教え子の綴方や詩をまとめた学級文集「きかんしゃ」でした。ではなぜ『山びこ学校』という名前になったのか。
無着は始め「雪の子の記録」という案を挙げていました。それをうけて、出版に尽力したジャーナリストで編集者の野口肇が、大きく山びこのようにこだまする無着の地声をもとに「山びこ教室」という案を出しました。そこで同じく出版に尽力したジャーナリストで編集者の佐和慶太郎が、「山びこ教室」では少し印象が弱いということで、当時朝日新聞に連載され人気を得ていた獅子文六の「自由学校」から「学校」の部分を拝借し、『山びこ学校』を提案、それに決まりました。
このタイトルからすると、山形県山元中学校の全学級が本書にあるような綴方教育をやっていたような印象を与えますが、あくまで無着の学級の生徒の綴方をまとめたものです。この本が一冊の学級文集「きかんしゃ」から、『山びこ学校』として出版されるまでのいきさつは、佐野眞一『遠い「山びこ」—無着成恭と教え子たちの四十年—』に詳しく、臨場感ある筆致で書かれています。
江口江一(こういち)の書いた「母の死とその後」
初版5000部ができあがると、佐和は、これはと思う評論家や作家に全部で200冊の本を献本します。その効果は予想を上回るもので、『山びこ学校』を取り上げた新聞や雑誌は昭和26年だけで軽く百紙を超えました。さまざまな賛辞のなかで中心となっていたのは、江口江一(こういち)の書いた「母の死とその後」という作文でした。江一の作文は山びこ学校が出版される以前の昭和25年11月に作文のコンクールで文部大臣賞を受賞した作品です。この作品自体は1949年12月16日に書かれたものです。岩波文庫版では17ページ、巻頭の綴方として掲載されています。
わたしはその17ページにもわたる江口さんの綴方を、次回の記事で全文、キーボードで打ち直して掲載したいと思います。これまでの生活綴方を実践する教師たちは、児童・生徒の書いた作文や詩を、原稿用紙に書き写したり、鉄筆をつかってガリを切ったりしてきました。最近はパソコンで打ち直して「○○文集」「○○通信」として発行することが多くなっています。
ガリ版刷りという方法は、謄写版とも言われています。わざわざ書き写すことで、綴方教師たちは、書いた子の息づかいまでも感じ取ってきたと言われています。『山びこ学校』のもとになった学級文集「きかんしゃ」第一号は、生徒たちが協力してガリ版を切り、印刷されました。全部で70部作ったそうです。印刷に使った紙は、生徒たちが山菜採りをして稼いだ金で買いました。ガリ版で、長い綴方を掲載するというのは、とても骨の折れる作業だったと思います。それでもこの作品(綴方)を多くの人に読んでほしいという思いが強かったのでしょう。次の記事で、全文を掲載します。