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国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む⑤

前回の記事の続きです。

4 交友関係

 国分の取り調べは続きます。次は、交友関係を砂田に聞かれます。友人である村山俊太郎のことだけでなく、斎藤秀一のことを聞かれます。国分は雑誌『生活学校』誌上で、斎藤の名前は知っていましたが、直接の交友関係はありませんでした。

1938年治安維持法違反で特高課により3度目の検挙、秋田刑務所に服役する。その後、肺結核にかかり、治癒が絶望となり釈放されるも数ケ月で腹膜炎を併発し1940年に病死した。

Wikipedia 斎藤秀一

 この斎藤を調べ上げたのも砂田でした。砂田は斎藤が寄稿していた雑誌『生活学校』を通して、国分らが関わる「北方性生活運動」を知ることになります。

 砂田は『生活学校』誌上で村山俊太郎の名を知り、山形県にある大きな本屋で村山の『生活童詩の理論と実践』を買って読みます。砂田は「一生懸命に読んで、その分析」をします。そして「北方性教育運動というたいへんな、おそろしいくわだてのことが、どうやらハッキリした」と結論に至り、分析した内容をもとに上層部に伺いをたて、村山を検挙することになります。

  この村山の『生活童詩の理論と実践』は今ではなかなか手に入らない本ですが、息子である村山士郎氏が編集代表を務めた『村山俊太郎 生活綴方と教師の仕事』(2004年、桐書房)のなかで紹介されているので、読むことができます。
 


 検挙され取り調べを受けた村山俊太郎の供述をもとに、東北6県の特高課長会議が開催され、一斉検挙することになったことを砂田は語ります。国分は砂田がこのようなことを「ほこりのように」、また「大きな功績」のように言うことに嫌悪感を抱くのでした。
 
 いったい、砂田の「分析」とは、どんなものだったのでしょうか? 本書では別章で明らかにされています。また、彼がこのような検挙の仕事をすすんでやる意欲はどこからきているのか・・・そういったことに国分の関心は向いていきます。


5 平野氏受難

 国分は山形署の保護室に座りつつ、交友関係の手記を迷いながら書き続けます。

はじめは村山俊太郎と知り合い、交友を深めていったこと。次に北方教育社の同人となったこと。東北の綴方教育関係の雑誌をすすんで読んだり、研究会に参加したりしたこと。それらに関わる教師たちとの心あたたかい交友関係・・・国分はどのようなことを書いたら治安維持法の対象となるのか考えをめぐらせます。「北日本国語教育連盟」のことなのか、雑誌『生活学校』のことなのか・・・。

 雑誌『生活学校』は、はじめは池袋児童の村小学校生活教育研究会・野村芳兵衛らの機関誌でした。後に戸塚廉の主催する雑誌となります。池袋児童の村小学校には、生活綴方の実践家である小砂岡忠義もいました。

 ちなみ『生活学校』は復刻版が販売されています。とても高額なので、大学図書館などで読むしかなさそうです。


 国分が交友関係の手記を書きあぐねているところに砂田が「いそいで書いてほしいことがある」とやってきます。砂田はふろしきにつつんだ平野婦美子の手紙を見せました。国分と平野には交友があり、手紙を交わす仲でした。平野を検挙するかどうか、平野のいる警視庁(東京)の特高課は決めかねていて、その情報を山形からも集めているところでした。

市川尋常高等小学校在籍中より寒川道夫国分一太郎らの綴り方教師と交流し、「東京綴方の会」に参加[注釈 2]。さらに教育科学研究会の言語教育研究部会に参加[4][2][注釈 3]1940年(昭和15年)に出版した『女教師の記録』は文部省の推薦図書に指定される[2]。千葉県においても東京都においても模範訓導として表彰された。推薦図書を基に東宝により原節子主演佐藤武監督で映画化作業が進んだが、のちに1942年(昭和17年)図書の推薦が取り消され、さらに東京都教育局から辞職勧告がなされ[注釈 4]、同年4月辞職[注釈 5]

Wikipedia 平野婦美子

 国分は平野が共産主義者でもなく、マルクス主義者でもなく、「人道主義者」であることを手記に書きます。当時、東京府の教育局から表彰まで受けていた平野が治安維持法違反で検挙される・・・そうなったときの衝撃を国分は想像するのでした。国分は平野から恩義を受けていて、不眠症から精神に不調をきたしたときには、病院への入院費を工面してもらっていました。
 国分は平野のことを思い、平野に関わることをしたため、手記を砂田に手渡します。しばらくたって国分は、平野が検挙をまぬかれたことを砂田から聞かされます。しかし、平野はその後行政処分を受け、依願退職を余儀なくされました。その理由が、寒川道夫や当の国分一太郎との交友関係であったことを、国分は後になって知るのでした。


 新潟の寒川道夫の手紙から東京の平野、平野から山形の国分と、当時は手紙での交友や情報のやりとりが一般的でした。それしかなかったと言えます。今でいえば、電子メールやSNSでのやりとりと言えます。それらを全て読まれ、見られているような時代だったのです。通信の秘密など守られていませんでした。手紙が端緒となって、教員の検挙が拡大していった一面を読み取ることができました。

 

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