子どもの嘘の中に真実がある
生活綴方の背景にある考え方や、生活綴方的教育方法について考え続けています。生活綴方のしごとは「本当のことをありのままに綴らせ、それをもとに話し合うこと」を通して人格のよりよき発達を目指していくわけですが、そこにいたるまでのほうが困難なのではないか、ということを感じることがあります。むしろ担任ひとりの働きかけによって子どもが全てをありのままに綴るようになるということは、とうてい不可能なのではないかと思うことすらあります。
(生活綴方やその背景についての記事は以下をご参照ください。)
子どもの語ったこと、書いたことが本当のこととはかぎらない
「本当のことをありのままに綴らせ、それをもとに話し合うこと」がいかに困難か。それは、子どもが嘘をつくからです。ある子どもが日記を書いてきたとします。教師はそれを全て本当のことと思って読みます。あとになって、書かれた内容に嘘が含まれていたということを知る・・・そんなことがたまにあります。
教室や学校、または学校外、SNSの中ではさまざまな子ども同士のトラブルがおきます。トラブルの解決に向けた子どもへの聞き取りでは、最初から真実が語られることはまれです。むしろ自分を守ろうとして、または友達を守ろうとして子どもたちは嘘をつきます。
子どもはその嘘によって何を守りたかったのか。むしろ、子どもの嘘のなかに、その子の真実が含まれるというとらえで子どもの一挙手一投足をみていく必要があります。
「解離様式」で現実に適応する子
問題行動を起こした児童に聞き取りを開始すると、どうみても事実として明らかなのに、その事実を否定することがあります。事実を認めたとしても「自分がそれをしたという実感」のともなわない語りをすることがあります。問題となった行動をしていた自分をまるで他人事のように語ります。
小学校高学年ともなるとSNSでの関わりの中で、暴言を投稿したり、匿名のダイレクトメールで誹謗中傷メッセージを送信したりすることがよくあります。被害者側からの訴えで調査を開始するのですが、加害者側が匿名の場合は、アカウントの特定から始めなければならず、特定できたとしてもそのアカウントを加害者側が自分のものだと認めなければ教育的指導のスタート地点にも立てません。
教室でケンカがおきれば、目にみえる形で、関係者が可視化されますが、SNSの場合は関係者や事実の特定には上記のような理由でとても時間と手間がかかります。事実をもって指導をするという教育の原則からすると、教育のスタートラインに立つまでが困難なのです。
ここ最近感じることなのですが、SNSトラブルを起こした子の聞き取りをしていくと、SNS上で行った自分の行動への実感が薄いということがあります。まるで学校での自分と、SNS上での自分が別人のようになってしまっていて、あとになって罪悪感や後悔がわいてくればいいほうで、してしまった事実でさえも現実として認められないような子もいます。これは一種の「解離様式」なのではないかと思うようになりました。
「解離様式」という言葉は、私が生活指導面で指導の参考にしている大河原美以さんの著書から学んだものです。
「家ではいい子なんです」という親の反応
学校での問題行動やトラブルについて保護者に報告すると、「家ではいい子なんですけどね」という反応はよくあるパターンです。それこそが、解離様式の一つです。前掲書にも「最もよく見られる『解離様式』は、自我が学校モードと家モードという2つに分かれている場合だ。学校ではつらいことがあるのに、家に帰ると何事もなかったかのように「学校は楽しいよ」と親に報告するような子」とあります。
つまりこのような解離様式で現実に適応している子は、学校モード、家モードで行動や発言をしていることになります。教師も親も自分が学校や家庭で見ていたり、日記や作文に書かれていたりする子どもの姿をもって「子どもの真実の姿である」とは言えないわけです。保護者は「家でのいい子」の姿を、教師は学校での姿を子どものありのままと捉えてはいけないということです。
ここにSNSの問題行動がからんできます。学校モード、家モードに加え、【SNSモード】という自我をもち、それらすべてが統合されていない状態にあるという見立てもできます。SNSトラブルの聞き取りをすすめているときに加害者側が「DMで思ってもないことを言ってしまった」と話すことがあります。これは、【SNSモードの自我】がしたことなので自分がやったという実感がともなわないのは、上の「解離様式」のセオリーからすると納得できます。
前述の大河原さんは、こうも述べています。
「感情の社会化」とは
同じ大河原さんの著書『怒りをコントロールできない子の理解と援助 - 教師と親のかかわり』をもとに、「感情の社会化」とその具体的指導について考えてみました。とくに子どもがネガティブな「もやもや」としたおもい(情動)をかかえたときにそれに言葉を与え、「不快感情」として子どもがその気持ちを安全なままに抱えていられるよう支援していくことが大切であることが分かりました。
感情の社会化とは
言葉を通じて他人と感情を共有するプロセスを「感情の社会化」と呼ぶ。
思いやりのある集団、子には「思いやりを持ちなさい」と言う指示が効果的だが、そうでない場合は効果がない。
感情が社会化されていない子は、自分や他人の感情にうまく対応できない。
感情を表す言葉の獲得するには
子どもは感情とそれを表す言葉を習得する過程で、周囲の大人に感情を正確に言い当ててもらうことが重要だ。
子どもがネガティブな感情を抱えると、親や教師も同じ感情を感じやすく、落ち着いて対応するのが難しくなる。
問題行動と感情の社会化の関係はあるのか
ネガティブな感情が社会化されないと、攻撃的な行動や自傷行為につながることがある。
他人のネガティブな感情に対する鈍感さは、自分自身にも同様の鈍感さがあるかもしれない。
感情には自己防衛機能がある
耐えがたい感情に直面した時、人はそれを感じないように防衛することがあるが、それがフラッシュバックとして現れることもある。
心の耐性(とくにネガティブな感情を抱えたままでいられる耐性)
つらい体験を話し、受け入れてもらえる環境にある子どもは、感情が豊かに育ち、耐性がついていく。
真に耐性のある子どもは、ネガティブな感情を封じ込めずに受け入れることができる。
学校、教室にも問題点が多い
教室や学校がポジティブな感情のみを評価、価値づけする風潮がある。
問題行動に対して、叱責だけでなく、適切な対応が求められる。
日常の支援者とのコミュニケーションの重要性
親や教師が子どものネガティブな感情に意識的に耳を傾けることが重要だ。
教室を明るい雰囲気に保つことも大切だ。
道徳や学活の学習で、ネガティブな感情を学習する機会をつくる
ネガティブな感情も正直に話したり、作文や日記に書き表したりして、それが周囲の人に受け止められることが大切だ。
クラスで作文を読み合うことで、お互いの感情を理解しやすくなる。
ネガティブな感情の具体的な指導例として
ネガティブな感情を抱えた時の身体感覚を言葉で表現することを学ぶ。
自分をコントロールできたときには、それをポジティブに捉えることを促す。
生活綴方の仕事を関係者とともに行う
以前、学校にこれなくなってしまった児童と作文のやりとりをしていたことがありました。その子の作文を保護者や学校カウンセラーの先生とも読み合うということをしていました。その子の綴方を真ん中にして、そこの子にかけるべき言葉や働きかけを一緒に考えることができ、すべての関係者にとってよい方向へ向かうということがありました。
こういった意味で、これまで担任教師だけが担うことの多かった生活綴方のしごとを関係者にひらいていくしごとも、児童・生徒の不登校が最多となった今の時代にあった生活綴方ではないかと思うのです。(本来的に、生活綴方の仕事は家庭や地域に開かれていた・・・そういった指摘もあると思います。)
そんな「ひらかれた生活綴方」の仕事を以下に一つのストーリーにしてみました。
こうして書き上げられた作文こそ、価値のある綴方なのではないか。このような一つの綴方が書かれるまでのプロセスを確保することが、本当の意味での生活綴方の仕事なのではないかと考えるようになりました。
谷川俊太郎の詩 「うそ」
そうはいっても、やはり子どもはなかなか真実を語ってくれません。大人だってそうでしょう。墓場までもっていきたい嘘をかかえて生きている人も少なくないはずです。人間とは、本人しか知り得ない嘘のなかに生きているとも言えるわけです。そんな人間観にたって、わたしは子どもを見ていこうと思っています。
さいごに、谷川俊太郎さんの有名な「うそ」という詩を紹介します。
ちなみに谷川俊太郎さんはあるインタビューで「子どもたちにいちばん必要な国語の力はなんですか」という問いに対して下のように答えています。
これはいつだったか忘れたのですが、朝日新聞朝刊の「折々の言葉」を担当している鷲田清一さんが紹介されていた言葉です。これこそ生活綴方のしごとだと、ひざをうった記憶がのこっています。