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探索5:古くより崇拝される石と曽我兄弟「曽我神社」

 こんにちは、ツキです。今回は福岡県糟屋郡篠栗町尾仲にあります「曽我神社」をご紹介しようと思います。

神社正面

構成

 JR篠栗駅よりおよそ650m、お寺や大きめの公園があったりとちょっとしたスポッ卜もいくつかある住宅街の中にこの神社は鎮座されています。
 交差点の一角、木製の苔むした鳥居が目印です。扁額のないシンプルな鳥居をくぐるとすぐに小さな祠があります。こちらには御神体として二輪石という石が祀られています。また、その横にも石が祀られていますが、こちらは詳細が分かりませんでした。(何か分かれば追記します。)

詳細は不明だが祀られていた石

 規模は小さい神社のため、構成面のご紹介は以上となります。

由緒(御神体)

 それでは、次は御由緒の紹介です。まずは御神体の二輪石についてです。
 時は遡ること永仁元年、西暦でいうと1293年。執権北条貞時北条兼時北条時家を九州に派遣した最初の鎮西探題とされる頃、兼時の従者の河津弥二郎貞重(以下:河津貞重)は岳城山(当社より南にある山)に高鳥居城を築いたとされ、その時の館の工事の際に大きくて硬い石が二面あったそうです。それを村人は二輪石と呼び崇拝していたと言われています。
 これが御神体として二輪石を祀っているいわれとなっています。 

御神体「二輪石」
小さいお堂の中に2つの石が祀られている

由緒(祭神)

 ではなぜここは曽我神社と呼ばれているのか……。それには先述した河津貞重が関わってきます。
 この河津貞重河津氏という氏族の一人です。そして、この河津氏曽我兄弟の仇討ち曽我祐成曽我時致兄弟を出したことでも知られています。そう、河津貞重曽我兄弟は年代こそ全く違いますが同じ氏族の者ということになります。
 また、それだけではなく他にも不思議な縁がありましたたのが1293年、曽我兄弟の仇討ちがたとされるのは1193年で、築城の年が仇討ちからちょうど100年目という奇妙な偶然です。
 これらのことから、仇討ちから100年目の年に二輪石という霊石と出会うのは曽我両社八幡の引き合わせだと感動し、二輪石を御神体として曽我神社をここに勧請したといいます。最初のお祭りの際には千人のお坊さんを呼んで盛大な供養がされたそうです。これが、この神社の始まりだとされています。

その他の特徴

 この神社は昔から「五郎様」と呼ばれ手足の病気の神様として親しまれてきたようです。なぜ「五郎様」なのか、それはおそらく曽我兄弟のうちの曽我時致曽我五郎と呼ばれていたところから来ているのではないかと思います。まあ、これといって説明が見つからないので確証はありませんが可能性はありそうです。
 余談ですが、福岡市東区蒲田にある部木八幡宮の境外末社も同じ曽我神社という名前です。それでいて同じく曽我兄弟を祀っているようです。なんならこちらの神社と同じ由来だとも言われていたりするようです。まあ、詳しいことは分かりませんが何かしら関係があってもおかしくはない気がします。

福岡市東区蒲田の曽我神社
こちらは全体的に造りもしっかりしている

 さて、それでは今回は曽我兄弟との不思議でありながらも確かな縁のある河津貞重が建立した神社「曽我神社」でした。付近には高鳥居城址などの河津貞重関連の史跡などもあるので、機会があればぜひ行ってみてください。僕も行ったことはないので、いつか行ってみようと思います。また、この神社のことや河津貞重のことなど少しでも何かが記憶に残っていただけたら幸いです。
 それでは今回もご覧いただきありがとうございました。また次回もよろしくお願いします。


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