悩めるサヤエンドウ(後編)
アンティークなデザインをした木製の窓から涼しい風が入って来て、彼女の細い髪をなびかせる。
僕が欲しかったお酒はマティーニだと、その美しいバーテンダーが言った。
その人は穢れを知らなそうな澄んだ瞳をしていて、化粧気のない淡いピンクの唇はなぜか昔懐かしい、傷つきやすかった時代を思い出させてくれる。
この人には「尊い」と言う言葉が似合うかもしれない。
こういう人にはえげつない恋愛相談や、ちょっとした下ネタなども、話せないし話しちゃいけないのだ・・。
鯉夏「遠藤さんが欲しかったもの、それはリビドーだよ」
彼女の響くアルトの声は個性的な形をしたワイングラスたちに共鳴する。
遠藤「リビドー?」
・・僕は少し考える。
遠藤「リビドーって性衝動って意味じゃ・・」
鯉夏「そう。英訳でSex driveさ」
前言したイメージが窓から入ってくる風とともに去って行った。
そりゃそうか、僕よりきっと年上なのだもの。ウブなイメージをぬぐいきれないほど彼女の雰囲気は俗世からかけ離れているのだ。
鯉夏「人生はきっと自分の居場所を探すdriveさ。長年Driveしてたら自分の地図も作れてくるしね」
遠藤「はあ」
彼女は後ろの棚からねじまき式の赤いミニカーを持ってきて、グリグリとネジを巻くとカウンターで走らせる。
鯉夏「でも遠藤さんの場合、自分で自分の人生をdriveしてないんだ。他人や環境にdriveを任せてる。それが癖になって、自分の人生への情熱のなさに悩んでる」
遠藤「・・・」
鯉夏「マティーニは、あなたのdriveのエンジンさ」
遠藤「エンジン・・」
鯉夏「かかるといいね、君の生(性)への衝動が」
あふれんばかりの温かい笑みで、こんなセリフを言われるとは思わなかった・・。僕はなんだか恥ずかしくなって目をそらす。
彼女は壊れてしまいそうなほど透明なワイングラスを取り出すと、慣れた手つきでワインを注ぐ。
新体操の演技を見ているかのように彼女の肩幅、角度、全てが抜かりなく凛として「魅せて」いる。
僕はマティーニを飲むと目を合わせられないまま答える。
遠藤「と言われましても、マティーニでかかるかなあ、僕の生きる衝動・・まあ、その、性の衝動も・・」
鯉夏「あはは、そもそもエンジンのかからない車って悪いのかな?」
遠藤「え?」
鯉夏「はい」
彼女が出したのはサヤエンドウだった。
ふにゃふにゃに気力なくお皿に添えられて、僕に食べられる運命をただひたすら受け入れている。
彼女は一番萎れたサヤエンドウを取ると、おもむろにミニカーに乗せる。
鯉夏「サヤエンドウのペースでいいんでせう」
彼女はゆっくりとミニカーを押す。
ミニカーの上に乗るサヤエンドウが振動でガタガタと揺れている。
鯉夏「この先、どうしても自分でdriveしなきゃいけない場面に出会う時がたくさんくるよ。例えば…」
彼女はワインのグラスにミニカーを当てると、いたずらに微笑む。
鯉夏「毎週マティーニを飲むまで返さない人に出会う時とか」
遠藤「あはは、お姉さんですね」
鯉夏「1センチでも車が動くまで、また来週お待ちしているよ」
そういうと彼女はワインに口をつける。その唇がグラスに触れて、唐紅色のアルコールがゆっくりと流れて口へ入ると、どことなくピンク色の唇は喜んでいるように潤って見えて、僕は思わず釘付けになる。
グラスを持ち、口へマティーニを運ぶとあっという間になくなっていることに気がついた。マティーニというエンジンは僕の耳を火照らせ、目をとろけさせ、そして心を心地よく踊らせた。
ああ、sex drive、エンジンかかりますかね
カピカピサヤエンドウでも、driveできますかね
次の瞬間、僕は自分の部屋の中にいた。
緑色の薄いタオルを巻き、冷たいコンクリートの上で寝転がっている。
遠藤「あれ・・」
あたりを見渡すが、当然彼女はいない。
夢でも見てたのか・・?
ふと側を見ると、ミニカーと、その上に乗ったサヤエンドウがあった。
僕は驚いてゆっくりと手を伸ばす。
しばらく考えた後、ミニカーを持って茶色く錆びたベランダへ出た。
遠藤「来週もって言ってくれてたよね・・」
満面の星たちの中に、汽車が走っていないか淡い期待を抱きながら僕は空を見上げた。
1話終わり
次は愛猫を探し続ける男性が来店されます。
でもこの愛猫、どこかおかしくて・・
来週月曜夜、更新予定