第一話 悩めるサヤエンドウ(前編)
「脳細胞がカピカピに干からびているんだ。収穫し忘れたサヤエンドウのように」
【本日のお客様 遠藤啓さま。23歳。不動産会社入社1年目】
頭がぼうっとして働かない。大学生の頃からだった、地に足をついている感覚がしなくなったのは。特にやりたいこともなく、行けそうな大学へ行き、受かりそうな会社へ就職し、今日も四畳半のコンクリートの上で薄い緑色のタオルを巻きつけ目を瞑る。
ああ、僕ってサヤエンドウだな。
何も情熱がわかない。ただ目の前のものを享受し、ただ心臓を鳴らし、ただ日光を浴びて、静かに息を吸って吐いている。
なのに「明日は何か起きればいいな」などと淡い期待を胸に灯したり、砂嵐のように立ち込める漠然とした将来への不安にかられたりするのだ。自分から動けないのに、動かないのに、心の天気にただただ翻弄されている。
ってあれ・・?
なんだ・・ここは。バー・・?
あれ、さっきまで家で自虐と無常に浸っていたのに・・あれ・・。
奥を見ると穏やかな明かりが店内を温めている。
一歩一歩中へ入っていくと、カウンターでこちらへ向かって微笑む美しい人がいた。
鯉夏「君は初めてだね。ようこそ、バー鯉夏へ」
不思議な現象を忘れてしまうほど、その人の笑顔には力があった。
パリパリだった春雨が「はあ」とため息を漏らしながらお湯にほぐれて柔らかくなっていく・・。それと似たような感覚だろうか。思わず僕は、席に座る。
鯉夏「今日はまだナチョが来ていなくてね。ああ、弦楽器を奏でる太い猫なんだけど。ナチョはネズミを見つけるとボテボテ追いかけて、そのまま仕事を忘れてしまうんだ」
・・・言っていることがよくわからない。とりあえず愛想笑いをしておいた。すると
鯉夏「夕刻から遠藤さんの欲しいお酒を考えていたんだよ」
遠藤「え・・・なんで名前・・」
鯉夏「ここは悩める人がこれるバーでね。君のことも悩みも、夕暮れ雲に映るからそこの湖畔で眺めていたんだよ。それで知ってるのさ」
遠藤「夕暮れ雲って・・」
ふとカウンターにある大きな窓を見ると、煌々と光を放つ鉄道列車が、星の散らばる大海原を上に向かって走っている。
驚いてあんぐりしていると、彼女は静かにお酒の入ったグラスを僕の前に出す。
鯉夏「どうぞ、飲みなせう」
遠藤「これは・・?」
鯉夏「カクテルの王様、マティーニさ」
遠藤「一杯目から?!これ強いやつですよね?!」
鯉夏「これは35度くらいかな。あ、もっと強いかも」
遠藤「殺す気ですか」
鯉夏「飲めばわかるよ、サヤエンドウさん」
遠藤「・・・」
ここは暴力バーだろうか。ニコニコと笑う彼女を前に逡巡するのも申し訳なくなって来て、僕は飲まざるを得なかった。
多分、お酒を飲む前に早くも彼女に飲まれてしまったのだ・・。
−−ゴクリ。
遠藤「カアアア!強!」
やっぱりマティーニだ。容赦ない。胃が焼けるように熱い。
鯉夏さんはそんな僕を見てケタケタと笑う。その笑い方は、まるで小さな鈴の音を鳴らしたように、どこか上品で落ち着いている響きだ。
鯉夏「これは遠藤さんが欲しかったものだよ」
遠藤「僕が欲しかった・・?どういうことですか・・?」
彼女は心に人差し指をさしにこりと微笑むとゆっくりと口を開く・・。
(途中ですが後編は来週月曜夜更新です♪)