人魚歳時記 文月 前半(7月1日~15日)
1日
そうだ今日から七月だと、切り取ったカレンダーの6月は、湿気ってふやりと柔らかい。
素足で踏む畳は、ふかふかと膨らんでいる。
湿気を吸い込んだ柱や壁の木目から、昨日までとは違う匂いが漂ってきて、新しい季節が始まったことを知る。
雨の中で蝉が鳴きだした。
2日
目を覚ますと、開いた窓から朝の空が見えた。
青空で、一塊の雲が浮いていて、蝉の声がした。
夏なんだなぁと、梅雨も忘れてぼんやりしていると、もうやってこないはずの小学校の夏休みの朝にいるようで懐かしく、どこか甘やかな気分を持て余し、愛犬を探して腕を伸ばした。
3日
昼、晴れて、蝉が鳴く。
起きてからずっと素足でいる足指の隙間から、濡れた土の匂いがする錯覚。
氷が溶けたので、新しい塊を入れて飲むと、傾けたグラスの中で、風鈴の音がした。
4日
向かいのお宅の三角屋根に、今年もムクドリが巣を作っている。
親鳥の一匹が、屋根の縁に止まったまま。害鳥除けのテープがピカピカ光るのもおかまいなしで、ずっとそこにいて、遠くを見ている。
5日
「暑いですねぇ」
朝、散歩する人とすれ違う時、お互いに自然と言葉が出て、語尾に力を込めて苦笑し合う。
それから私はしゃがんでアスファルトの道に掌を当て、熱さを確かめる。愛犬の肉球が火傷しやしないかと思って。
道は人肌より熱かった。でも足元で子蛙が跳んでいた。
6日
膝に飛び乗ってくると、体を震わせ、激しい呼吸を繰り返す。伸ばした舌から垂れる生温かい涎が、私の腿を濡らしていく。
「怖くないよ」
その時何をしていても中断して、怯えの塊となった愛犬と溶け合うようにして過ごす。
これからの季節、雷鳴るたび訪れる、私と彼女の時間。
7日
夕方、外は静か。人気がなく、光線がまだ強い。クーラーの室外機だけが激しく動いている。
乾ききった鉢植えに水を注ぐ。水回りに雀が飛んでくる。バードバスにも水を注いだ。
夜は今年最初の冷やし中華。七夕の夜に冷たい麺をチュルチュル啜る。
8日
その家の前に空の睡蓮鉢が置いてあって、中から仔猫が次々と飛び出した。
連れて帰りたいほど可愛いなと、ジャレ合う仔猫を見ていたら、母猫が現れた。
それが、この前まで子供だったはずの白黒猫で、知らない間に五匹の母になり、こちらを凛と見つめてくるのでドキドキした。
9日
トラクターが落としていった泥がアスファルトを被い、カンカン照る陽に乾いて、西部劇に出てくる町のように、風が吹くと土埃が舞う。歩くと、サンダルから覗く爪先が茶色くなった。
部屋に上がる前、庭の水道で足を洗う。そのまま頭から被りたくなるほど、水が気持ちいい。
10日
道の左右、向こうまで鮮やかな常盤緑。
曇り空の下、そんな田んぼの奥に白鷺が一羽、のばした片翼を震わせている。その周囲では、無数の白い蝶が飛び回っていた。
ここは黄泉の国だよ――
そう誰かに言われても、不思議に思わない光景の中を歩いた朝だった。
11日
薄曇りの朝。すぅっと冷えた朝。
「今日は涼しくていいね」
などと、歩きながら愛犬に声をかけたり。
向こうから、最近よく会う散歩のお婆さん。
すれ違う時、
「暑いですねぇ」と、穏やかな笑顔を向けられて、
「本当に暑いですねぇ」
と、つい答えてしまった、そんな朝。
12日
午後に電話くる。小ぬか雨が本降りになってゆくのを眺めながら話す。今月いっぱい忙しくなるなと、ちょっと気が重くなったり。
長い電話を終えて放心。
今日は涼しく、半袖でいると肩先まで冷えびえとする。ただ電話機を当てていた方の耳朶だけが、ジンと火照っている。
13日
暑いから、愛猫は寝てばかりだ。イビキなんかかいて、深く寝入っている。
投げ出された手足の裏、夏の肉球は湿り気が多く、ピトッと貼りつくようで、伸ばした爪で静止されるまで、ついつい揉んだりなどして戯れた、憩いのひとときを送った。
14日
昏々と眠り続け、朝の四時に目が開く。
窓の隙間から曇り空を見て、今がいつで、ここがどこか一瞬わからない。
自分は中学生で、家族と旅行に来ている。そんな錯覚が、一瞬だけど生々しい。
今日の予定を思い出すと、ようやく今の私を手繰り寄せられた。
15日
早朝に犬の散歩に行く。
夜は明けているけれど、空は曇って太陽の光はない。
遠く田んぼの向こうの何かの工場に、煌々とライトが灯っている。そのあたりだけ、まだ夜のよう。
幼い頃、こんな風景が描かれていた絵本を持っていた気がして、たまらなく懐かしくなった。