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人魚歳時記 水無月 後半(6月16日~30日)

16日
日曜の早朝、雨上がりで蒸している。誰もいない。
愛犬と細い道に入り、立ち止まってボトルの水を飲んでいると、背後にひそりと気配を感じた。
犬でも来るのかと振り返ると、一軒の塀から道まで伸びた枝から、白い夏椿の花が落ちていった。

17日
空が映る水田を覗き込むと、
水中には藁屑の残りや、そこに絡みつく藻が緑の煙のように漂っていたり、
水底で隆起する土が、望遠鏡で覗いたどこかの惑星を見ているようだったりで、
つい見入っていたらアメンボが波紋を広げて通り過ぎ、あっという間に世界がひとつ消えた。


水鏡に映る世界

18日
雨の中、食料品を載せたカートを押して戻ってくると、愛車が消えて――と思ったのは錯覚で、後から来たワゴンの死角に入っていただけ。

濡れながら荷物を積み込んでいると、スーパーの向かいに解体中の廃屋があり、庭には車種も色も私の車と同じ廃車が放置されていた。

19日
鳥居前の朝のお婆さん、今朝はどなたかの梅畑の脇を歩いていた。
うつむいて、時々身を屈めている。目が合うと、「うふふっ」とばつが悪そうに笑う。
お婆さん、ビニール袋を片手に落ち梅を拾っていた。
梅干しを作るのかなと思うと、その笑顔が酸っぱく見えてしまった。

夕方のお勝手

20日
早朝から暑い。
乾ききった道を蛙が跳んで横切っていく。
私鉄線路沿いの道を向こうから、自転車の若者が二人。近づくと、語尾が跳ね上がる外国語が聞こえる。バイパス道横の工場へ出勤らしい。元気よくペダルを漕いで笑い合い、田圃の緑の向こうへ小さくなっていった。

蜘蛛

21日
仔猫が産まれたというので、お宅に伺い、家に連れてきたのは夏至の夕方。
蒸し暑い日で、窓から差し込む夕日を浴びながら、本棚によじ登ったりしていた。
十五年後の今日は雨。この金色の目を見て、夏至の夕刻に妖精が現れるという西洋の言い伝えを思い出したりしている。

22日
暑いから全ての窓を開いた。やることがあって集中していたが、ふと外を見ると、盛る緑の、葉の一枚一枚が陽にぎらついている。
雲のない空を飛行機が横切っていく。
どこかで子供達が「一、二っ」と大きな声を揃えているのが風に乗って聞こえてきた。

田園の夕暮れ

23日
昨日の朝のこと。雨上がりで、愛犬と散歩に出ると、あちらこちらで無数の羽虫が飛び交っている。
手で払いながら、川端康成原作の映画「雪国」の冒頭、トンネルを抜けた列車の窓越しに、吹雪きがこちらに向かって飛び交うシーンを思い出していた。

24日
朝、愛犬と散歩に出ると、誰とも会わず、車もなく、町は静かすぎるほど静か。
駅前の自販機で冷たいお茶を買い、ボトルに口をつけて頭を反らすと、視界いっぱいに空が映り、そのいちばん高いところを、飛行機が雲を引きながら飛んでいた。

25日
風はそよとも入らず、熱帯雨林にいるみたい。絶えず眠気に襲われる。
ハッと瞼を開くと、氷の溶けたグラスの縁に猫が鼻を近づけていた。台所にはこねた餃子の皮。早く夕飯の準備をと思いつつ、また瞼が閉じる。着替えたタンクトップは後ろ前。閉口してエアコンつけた。

美しいすぎると怖い空と雲

26日
田んぼの手前の踏切の横に、古いが瀟洒な家があり、品の良い白髪の老紳士が一人で暮らしている。
暑くなり犬の散歩は朝早い。
夜が明けてすぐ、そのお宅の前を通ると、ハードロックが漏れ聴こえてくる。
ウッドストックの熱気は、あの紳士が二十代の頃なんだなと思った。

27日
昨日書いた、早朝にロックを聴いている老紳士。今朝通りかかると、高枝切り鋏を片手になにやら。
「カミキリムシ退治です。これイチジクの木です。お好きですか。毎年食べきれないので頃合いを見て訪ねてください」と言われた。
実はまだ青くて小さい。頃合いはいつだろう。


28日
昨日の朝――

道にシュシュが落ちていた。
象牙色の地に純白の花が散る清楚な柄が、目をひいた。
日中は蒸し暑く、うなじに汗がにじんだ。私は髪をまとめながら、シュシュの落とし主は今頃、暑い思いをしていないかと、ふっと気になったりした。

❁シュシュは髪留めの一種

こけし三姉妹

29日
風が渡ってきて、葉の生い茂る枝垂れ桜を揺らす。
雀が飛んできて、その枝の一本に止まった。飛び疲れたのか、大きく揺らされるまま、しがみついている。

晴れた空を見ていると「永遠」という言葉が浮かんできて、見惚れていたら、その間に雀はいなくなっていた。


30日
窓を開けて寝たので、目を覚ますと月が見えた。輪郭がぼんやりした下弦の月だった。

次に目を覚ますと、明けた白い空に、小さな爪が食い込んでいるみたいに、月が浮いていた。

あと少し寝ようと寝返りを打つと、窓からの外気に肩先が冷えていて、それが気持ちよかった。


風に吹かれる植物の一部


植物の一部分をじっと見ていると、世界そのものに見えたりする。


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