人魚歳時記 長月 後半(9月16日~30日)
16日
去年、不意に逝った彼女は一人暮らしだったので、家は今、ぐるりと雑草に囲まれている。勝手口横の磨り硝子の窓から透けて見える台所用品は、生前のまま。
急に涼しくなったからか、
「コストコのペーパータオルいいから」
という故人の声や顔が生々しく思い出された。
17日
朝、目玉焼きの上に座るという愚行をおかした。
コーヒーをこぼしたので、運んできた朝食のお盆を椅子の上に置き、食卓を拭いた。卓上には通知書などあって慌てたが、なんとか無事で、ホッとして、つい椅子に座ってしまった。
疲れているのかも。
夜は静かにお月見しよう。
18日
地植えの初雪葛がぐんぐん伸びて、庭の隅に重ねた駄温鉢の塔を被いはじめている。
人類がいなくなったら、地球上の人工物は、風、水、土、日光、植物で三百年で消滅するという。
そうなった地球を見てみたい気もする。
まさに神の視座だ。
壮大だな。
19日
喪服の女性が二人歩いていた。
「あそこのTさん」
「いつ?」
「先週。ゴミ捨てから戻って庭で急に」
その数日前の朝、Tさんと挨拶した。不愛想な独居の老婆は、珍しく私の愛犬を「可愛い」と褒めるので、らしくないと思った。
昨夜は雨。T宅は暗いままなのだと考えた。
20日
朝の犬の散歩。久しぶりに通る道。手書きの「月極○○円」の看板を掲げる個人経営の駐車場。
花が植えられ、入り口にハニワが置かれているのは変わらないが、今朝はチェーンで塞がれ、車も見当たらず「売り地」の札が揺れている。
土地が売れた後のハニワの行方が気になる。
21日
暑い暑いと言いつつ、どこかの家の軒下から、風鈴の音が聞こえたりすると、背筋がヒュィッと寒くなる。
夏からの習慣で、犬の散歩に持って行くのは冷たいお茶。歩くとコロンコロン、水筒の中で氷が鳴り響く。
前を行く散歩の老人が、その音に、不審そうに振り向いた。
22日
急に寒くなったら、愛猫が甘えて体をこすりつけ、離れない。
この猫を台風が去った直後の田んぼで拾った時のことを思い出してセンチになる。
こんな気分の時はなぜか、食べるのも家事をするのも、息を潜めて静かに丁寧に行ってしまう。
夕方に熱いココアを飲んだ。
23日
夜明けが遅くなり、犬の散歩の時間もずれる。前を通るお宅は朝食の準備をしていることが多い。
お味噌汁、残った煮物、温めた牛乳と混じるコーヒーの香り。
今朝は梨園横の細い道を行った先の農家のお宅から、フライドチキンを温めるの匂いがし、レンジの音がチンと聞こえた。
24日
長袖を羽織る。
洗い物の後ハンドクリームを探して、塗る。
台所に入ると、ありもしない柚子が、ふと香っている錯覚がして、白菜の漬物を食べたくなる。
茶色いお茶が美味しくなった。
紅茶、ほうじ茶を飲みながら、しみじみ季節が移ってゆくのを体感する。
25日
ヒヨドリがあちこちで鳴きだした。寒い季節が来た合図。
二階の窓から外を見ると、二匹のアゲハが絡み合いながら飛んでいる。手を伸ばせば掴めるほど近くで。
冷たい風が吹いている。
鳥の声が止んだ。
遠雷が聞こえる。飛行機の音かもしれない。
空は曇っている。
26日
朝日が私と愛犬の長い影を作る。車も通らない早朝の県道に、遠く向こうまで伸びる私たちの分身。
逆光のなか、前から来る人の顔も解らず目を細めると、鮮やかな一粒のマスカットが道に転がっている。
葡萄は犬には毒なので、気付かれる前に爪先で転がして、溝に落とした。
27日
ずいぶん木が切られ、雑木林が減った。
風通しが良く、明るくなるけれど、のっぺりとなった空間を見ると、そこにいたはずの何者かは、消えてしまったのだと痛感する。
異界が消えてしまった。
つまらない土地になったなと、心の中でちょっと毒づいたりして。
28日
メダカに餌をあげに行くと、蛙が一匹、睡蓮の葉の上にに半身を乗り出して水に浸かっている。
近づいても、遠くを見つめた顔して動かない。
温かな秋日和。水中も気持ちがいいのだろう。冬眠のことを考えていたりするのか。
その緩んだ顔を見ていたら、温泉に入りたくなった。
29日
冷蔵庫が空っぽ。
買い物に行こう。
車に乗ろうとしたら、フロントガラスとワイパーの間に、舞い落ちた枯葉が一枚挟まっていた。
「夜は温かいものを作ろうかな」
なんて思った。
30日
週の初めから気の張る用事が重なって、眉間に力が入ってしまう。
でも朝の散歩に出たら、金木犀の香りが漂っていて、心も表情もようやく緩んだ。
見上げると、空はずっと高くなっていた。
風景が、昨日とは違っていた。
追記・
この夏、散歩に出ると、つい高架道路を走るトラックを撮るようになっていました。
買い物の時、スーパーのお菓子コーナーに、子供向けのミニカーが売っていて、ついトラックを探してしまいました。
気がつけば、トラックが好きになっていた夏でした。
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