人魚歳時記 霜月 後半(11月15日~30日)
16日
木の下にいると、ジョウビタキの火打石を打つ声がする。
見上げると、裸の枝の間に雲の多い青空が広がっていた。
枝先に残る最後の葉には、幾つもの丸い虫食いの痕。
その穴から、丸い空と雲が見えた。
鳥はそのもっと上で鳴いていた。尾の裏まで夕陽のような色だった。
17日
訪問者に気づかなかった。入り口に柿が置いてあった。
たぶん裏のTさん。
買い物の帰り、選挙会場の公民館前からTさん夫妻が出てくるのが見えた。
小さな老夫婦。いつも一緒に菜園仕事や散歩をしている。
同じ候補者に票を入れたのだろうなと、車中から二人を見て思った。
18日
昨夜、窓を開くと、またもや庭の上の電線にハクビシンがいる。
前回は二匹だったが今回は一匹。
メダカを食べるので追い払わないわけにはいかないが、ホースの水に逃げていく様子が愛らしく、
(兄弟は元気なの?)
と、つい片割れを心配しつつ、ムクムクした後ろ姿を見送る。
19日
大きな黒犬がいた家のブロック塀に沿って、赤葡萄酒色の菊が盛んに咲いている。
心奪われ、顔をそちらに向けたまま歩く。
朝陽でできた私の影が、鮮やかな菊の上を動いていく。
犬は夏の終わりに旅立った。
私の影よりも、あの犬の方が黒いな、なんて考える。
20日
幼少の頃、早く起きると、「明るい農村」という番組が放映していた。
都会しか知らなかったので、同じ国の中にこんな世界があると驚き、不思議だった。
今、近所を歩いて、錆びたトタン屋根の納屋や古びた農機具を見ると、何十年もかけて「農村」に辿り着いたと実感する。
21日
黒い墓石の上に猫が丸くなって、じっとこちらを凝視していた。
死んだ飼い猫に似ていたので、思わずその名を呼ぶと、墓場の背後の竹林の中へと消えた。
翌日、墓石に朝陽が映って、まるで石の中に花が咲いたように、丸い朱色が揺らいでいる。
あの猫はいなかった。
22日
バタバタしてお昼が遅くなった。もうお腹がぺこぺこで、とりあえずご飯を炊く。お菜もいらないぐらい新米が美味しい。
お釜にさっと醤油をかけて、こそいだおこげをお袋が握ってくれた握り飯が何よりうまかった。
昔、遠縁のお爺さんが語った戦前の思い出話が頭をよぎった。
23日
田んぼ道。数年前の夏、ここを犬と歩いた時、老夫婦が寄り添い合い朝陽を見ていた。奥様は折り畳みの椅子に座り、痩せて動くのも辛そうで、余命幾許もない様子なのに、思いがけず犬を見て微笑まれた顔が穏やかで幸福そうなので、歩きながら温かな涙が溢れて止まらなかった。
24日
小鳥の水浴び場は凍り、玉砂利と数枚の枯葉が氷の下に閉じ込められた。
薔薇は開花の途中で動きを止めた。
朝の散歩から帰った私の頬と鼻先はビックリするほど冷たくて、でも歩いたから爽快で、お腹が空いて、朝ごはんが食べたくて、凍てつく庭を突っ切り家に入った。
25日
枯れ草を踏みつつ歌い、犬に話しかけ、遠くの猫に挨拶をして手を振る。飛んでいく鳥の声を真似する。
早朝の田んぼ道には誰もいないから。でも苺農家のハウスに近づくと静かにする。
ハウスの中では、皆さん忙しく収穫中。
開いた扉から、うっとりする甘い香りが流れていた。
26日
セールで安価になっていたので買ったフリース毛布は温かく、使い勝手が良いが、どうしても色が好きになれず、今年も渋々と使っていたが、天日に当てて取り込む時、目の前の枝にいるジョウビタキや、隣家の木に実る柿と同じ色だと気付いて気が変わり、前より好きになる。
27日
夜明け前トイレに行くと、裏の笹薮で猛烈な雨音がするので、
「土砂降りだね」
と言うと、
「もう止んでいる」
と返され、試しに窓を開けると本当に降っていない。
化かされたような怪しい気分に。
昼前に犬の散歩に行くと、用水路に水の流れが激しく、幻の雨音を思い出した。
28日
温かな朝は風が強い。歩くと気持ちがいいが、髪がほつれて顔をくすぐる。
手袋の指で目元を掻く。風が髪の隙間に吹き込み、頭皮の甘い匂いが膨らんだ。
畑のブロッコリーの葉も細かく激しく揺れている
鳥が翼を広げたまま、風に吹かれて空を滑るように横切っていく。
29日
師走が見えてきた。だから何だというわけではないが、そわりとする。
夕刻、外では鳥が賑やかだ。ギィーと濁った声は鵯。冬だなぁという声。
軒下の柿はすっかり黒みを帯び、萎びている。
見回せば静かな生活じゃないかと自分を落ち着かせ、まずは熱いほうじ茶を淹れたり。
30日
雪虫という虫を知ったのは、ここ数年のこと。
今朝、陽の中を白いものが無数に舞っていたので、まさかこれが? と驚いたが、見れば道の奥で造園屋さんが伐採した枝葉を焼いている。
なんだ、あの灰が舞っていたのか。
通りすぎれば、後から焚火の匂いが追いかけて来た。